薔薇屋敷の虜囚

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 ロジェ・シルヴェストルはセルジュの父だ。
 元々は領地を持たない一介の騎士に過ぎなかったが、今より十年ほど前の二十五才の時に戦場での働きを認められ、オネット侯爵により領内の城を一つを与えられて城主となった。
 だが、この褒美には条件がついていた。
 前城主の一人娘ミレイユとの結婚が、ロジェに城を与える交換条件だった。
 ロジェは二つ返事で結婚を承知し、城主の座を得た。
 セルジュが知る両親が結婚に到る経緯は概ねこのようなものである。

 城主一家が住まう城は、堅固な城壁を備えた大きな城だ。
 周辺の土地は水源にも気候にも恵まれており、肥沃な土地が生み出す収益は領内を隅々まで豊かにし、城内も当然のごとくその恩恵に与っている。
 大勢の召使いの働きによって城は常に清潔に整えられ、室内は豪奢な敷物やタペストリーで飾られて華やぎ、廊下には真新しい藺草が敷かれていた。
 城壁の要所には兵士が十分に配備され、警備も万全。
 もちろん城だけでなく、領内の警備も怠ってはいない。
 賊が出れば、城主自らが駆けつけて、これを成敗。
 領民の生活にも目を配り、意見には耳を傾けて、常に最善を尽くす城主の姿は領民達の心を掴んだ。
 領民には慕われ、領地を豊かにして守る。
 ロジェ・シルヴェストルは文句のつけようもない立派な城主だ。
 セルジュは父を誇りに思っている。
 それは確かだ。

 だが、彼には一つだけ不満がある。
 父の行いで、理解できない事柄があるのだ。

 それは城の目と鼻の先に建てられた館にある。
 厚く強固な高い壁に囲まれた小さな屋敷は、二百年ほど昔に建てられたものだと伝えられている。
 当時の城主が身分の低い娘を見初め、愛人として囲うために建造した。
 娘が逃げ出さないように、また外から略奪者が来ないように、城主は頑強な檻を作ったのだ。

 不運な娘が亡くなって以降、長年使用されずにいた屋敷だが、約十年前に改築されて再び息を吹き返した。
 哀れな娘を一人、同様に閉じ込めるために。



「あなたのお母様は狂っているのよ」
 グレースは口ぶりだけは気の毒そうに、笑みを浮かべながら囁いた。
 グレースの髪は深い闇を彷彿とさせるほど黒く、肌は日に当たらないせいか青白く、不必要なまでに赤く塗られた唇は毒々しくて、瞳は抜け目なく鋭い。
 顔立ちは美しい方だろう。
 彼女の持つ色は彼や父と同じで、血の繋がりがあることは一目でわかる。
 かつては身内として好意を抱いていた。
 しかし、セルジュにとって、グレースはもはや嫌悪の対象と成り果てていた。

 グレースはなおも続ける。
 城の窓から見える、牢獄の屋敷を指差して。
「お母様に会いたいなんて思わないことね。それがあなた達のためなのよ。近寄れば殺されてしまうかも。だからこそお父様も、あなた達がこの世に生れ落ちた瞬間からお母様と引き離したのよ」
 哀れな子達と、グレースは呟いた。
 内心では面白がっているのだろうに、悪賢い女狐は巧妙に言葉を繕い、それでいて子供達を傷つける毒を吐く。

 グレースは父の従姉妹で、両親を亡くした彼女を祖母が引き取り、共に育ち、父にとっては妹同然の存在と教えられていた。
 祖母が生きていた頃はまだ良かった。
 グレースは祖母と父の前では従順でおとなしく、セルジュにも優しかったのだ。
 ところが妹のカトリーヌが生まれると、グレースの態度がおかしくなった。
 セルジュには微笑みかけるのに、カトリーヌには無関心。
 最初は気づかなかったが、祖母が亡くなり、子供達の養育に携わるようになると、セルジュとカトリーヌへの態度に大きな差があることに嫌でも気づいた。

 誰も見ていない場所で、グレースはカトリーヌに冷たい目を向け、酷い言葉を投げつけた。
 セルジュが気づいた時には、幼い妹はすっかり萎縮して、人の顔色を伺ってばかりの臆病な子供になってしまった。
 父はグレースを信頼しきっており、子供達の養育を任せても安心だと思い込んでいる。
 ゆえに、娘については人見知りの激しい気弱な子供と思っているに違いない。

 二年前に祖母が亡くなってからは、グレースはますます増長して、自分こそが城の女主人だと言わんばかりに振る舞っている。
 ロジェが城主となってから、グレースにも縁談は幾つも持ちかけられた。
 しかし、彼女は城主の妻の不在を理由に、城に居座り続け、ついに行き遅れになったのだ。
 セルジュはもうじき九才になる。
 聡明な彼には、グレースの闇の一面が見えていた。
 妹を虐げ、父と自分には良い顔をする理由にも。
 セルジュの髪は黒く、瞳の色も顔立ちも父にそっくりだ。
 カトリーヌは違い、髪は赤く、瞳こそ自分達と同じ色だが、顔立ちは父にも祖母にも、もちろんグレースにもまったく似ていない。
 恐らく母親の家系の血を濃く引いている。
 グレースがカトリーヌに辛く当たるのは、妹が母に似ているのが理由だとセルジュは考えていた。

 セルジュはグレースをしっかりと見据え、振り撒かれた毒を払おうと口を開く。
「父上は母上に会いに行くよ。父上は危なくないの?」
「お父様はお強いもの、彼に敵うものはいないわ」
 グレースは誇らしげに胸を張った。
 彼女はロジェを崇拝していた。
 兄のように慕うのではなく、一人の男として愛している。
 この国では六親等内の血族との結婚が認められていないため、母が死んでも、グレースが父の後妻になることはない。
 だが、彼女は一生この城にいる気だ。
 実質上の妻として、ロジェと人生を共にする気でいる。
「お母様はね、ロジェを憎んでいるの。当然、彼の血を引くあなた達もね。諦めなさい、あの屋敷の存在ごと忘れた方がいいのよ」
 繰り返し、言い聞かされた言葉だ。
 母は夫ばかりでなく、自分が産んだ子供達も憎んでいると。
 初めて聞かされた時は絶望して泣いた。
 しかし、グレースが信用できない人間であると知った今では疑っている。
 母は本当に狂っているのだろうか?
 自分達を憎んでいるのだろうか?
 セルジュの疑念は膨れ上がり、確かめたいという衝動が抗い難いほど高まっていた。



 城には城主も知らない隠し通路が幾つもあり、セルジュは城内を探検して偶然それを発見した。
 通路は外に通じているものもあり、城を抜け出すのは容易いことだ。
 ロジェが用事で出かけてしまうと、グレースはそれほど子供達に関心を向けない。
 子供達を部屋に閉じ込めておとなしくしているように命じ、自分の衣装を作り、宝石を眺めることにご執心となる。
 セルジュは隠し通路を通って城の外に出た。
 通路は森の中に通じており、城壁にいる警護の兵士からは見えていないはずだ。
 屋敷の前にたどり着けたものの、入り口には門番が二人もいる。
 壁は高く、セルジュが飛び上がってもまったく届かない。乗り越えるのは不可能だ。
 諦めきれず、周辺を探っているうちに、壁の一部に亀裂を見つけた。
 大人は到底抜け出られないが、子供なら通れる大きさの穴が開いていた。
 セルジュは迷わず穴をくぐった。
 その途端、薔薇の香りが強く鼻を刺激した。

 屋敷を囲む庭は、色とりどりの薔薇で埋め尽くされていた。
 赤、ピンク、黄色、白の薔薇だけが咲く庭は、見事ではあったが異様にも思えた。
 手入れは行き届いており、雑草なども見当たらない。
 庭には人の気配はなく、セルジュは素早く周囲を見まわして屋敷に近寄った。
 この屋敷のどこかに母がいる。
 そう思うと、彼の心は期待で膨らんだ。
 屋敷の裏側にまわると一階の窓が開いており、セルジュはそこからの侵入を試みた。
 窓枠に手をかけてよじ登る。
 窓が開いているということは、中に人がいるかもしれないことを示唆していたが、母に会いたい一心で夢中だった彼にそこまで気づく余裕はなかった。



 窓を乗り越えてすぐに、人の気配を感じた。
 冷や汗をかいてそちらに眼を向ける。
 室内の揺り椅子に腰掛けて編み物をしていた女性は、窓からの侵入者を驚くでもなく、警戒するでもなく、笑顔で迎え入れた。
「あら、珍しい。かわいらしいお客様ね」
 部屋の外へ声が漏れないようにか小声だったが、セルジュにははっきりと聞こえた。
 椅子から立ち上がった彼女が近づいてくる。
 この人だ!
 彼は直感的に、彼女が母であると思った。
 恐らくわざとだろうが、グレースの指示で整えられた城には母の肖像画は飾られていなかった。
 しかし、こっそり忍び込んだ父の寝室に一枚だけ小さな絵が置いてあった。
 祖母ともグレースとも違う、赤い髪の美しい女性の絵が。
 肖像画の女性よりも年は取っていたが、間違いない。
 それに彼女は妹に似ていた。
 女性の赤く豊かな髪は下ろしてあり、グリーンのシンプルなドレスを身につけている。装身具は左手の薬指に金のリングが光っているだけだったが、彼女が持つ品格のせいか、少しもみすぼらしく感じられなかった。
「ぼ、僕は……」
 名乗ろうとしてセルジュは思い止まった。
 グレースの毒がじわりと彼の心に染みこんでいく。
 母は子供達を憎んでいる。
 名乗ったと同時に、母から笑顔が消えるかもしれない可能性に怯え、セルジュは口を閉じた。
「あなたの服装からすると、こちらに遊びに来られた貴族のご子息かしら? ごめんなさいね、十年近くも外に出ていないもので世事には疎くて名乗っていただいてもわからないかもしれないわ」
 彼女は苦笑を浮かべ、セルジュの傍に立ち、肩に手を置いた。
「私はミレイユというの。悪いことは言わないわ、あなたの好奇心を満たすものはここにはない。つまらない女が一人いるだけよ。誰かに見つかる前に帰りなさい」
「この屋敷に住んでいる女の人は気が狂っていると聞いたよ。でも、あなたはそうじゃない。どうして外に出てこないの?」
 セルジュは肩に置かれた手の感触にドキドキしながら問いかけた。
 母の匂いは心地良く、まとう空気は今まで出会った誰のものよりも安心できた。
「夫の命令だからよ。結婚について定められた法律では、妻は夫に逆らってはいけないのが決まり。彼は私が邪魔だから、恐らく一生出してはもらえないでしょうね」
 ミレイユは諦めきった顔で微笑み、ため息をついた。
 セルジュは衝撃を受けて立ち竦んだ。
 尊敬する父が、母を不当に閉じ込めている事実を知って驚愕したのだ。
「ごめんなさい、小さな子にする話ではなかったわね。さあ、早く行って。この時間は召使いも休憩中なの。気をつけて行けば見つからないわ」
 窓へと促す母に、セルジュはすがりついた。
「また来てもいいでしょう? もっとあなたと話したい」
 ミレイユは戸惑いを見せたが、セルジュの頭を撫でて優しく言った。
「ええ、いいわ。話し相手ができるのは嬉しいもの。だけど、あなたを危険に晒したくはないの、無理だと思ったら来てはだめよ」
「はい」
 セルジュを包み込む母の手は温かかった。
 これを得られただけでも、セルジュが危険を承知で行動した甲斐はあった。

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