お嬢様のわんこ
第一章・お嬢様と可愛いわんこ・1
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「お父様。私、犬が欲しいの。自分で面倒をみますから飼ってもいいですか?」
お友達の家で見た、血統書付きの綺麗で可愛い犬。
彼女の合図で、前足を手に乗せたり、くるくる回ったり、投げられた物を取って戻ってきたり、とても賢い子だった。
お利巧ね、と、愛犬を抱っこして撫でる彼女が羨ましかった。
私もあんな犬が欲しいとお父様におねだりしたの。
お父様はお金持ちの商人なんだから、すぐに買ってくださるわ。
そう思ったのに、お願いしたらお父様は渋い顔。
動物は飼えないと言われた。
「屋敷にはお客様をお招きする機会が多いことは知っているだろう? 皆が皆、犬好きというわけではないからな。大事な商談に支障があっては堪らん。こればかりは叶えてやれん」
「そ、そんな……」
承知してもらえるものと思い込んでいたのだから、駄目だと言われてショックを受けた。
目にじんわりと涙が浮かんでくる。
それでもお父様は、首を縦に振ってくれなかった。
数日後、お父様は真っ黒な毛並みの犬を連れてきてくれた。
お友達の家にいた子とはちょっと違う、獣人という種族らしい。
生態も姿も人とほぼ同じで、違うのは耳の形と尻尾があること。
人に動物の耳と尻尾がついているような感じかしら?
彼らは人より力が強く、種族によっては強力な魔法も使いこなす。
この子は奴隷市場に売りに出されていたのを見つけて買ってきたのですって。
「これなら動物の匂いはしないし、人と同じ環境で育てればいいから世話も楽だ。念のため、お客様がいらっしゃる間は部屋に入れておくんだぞ」
「はい、お父様! ありがとうございます!」
さっそく犬に抱きついた。
背は私よりちょっとだけ高い、髪色に合わせたような褐色の肌は見慣れないもので、闇を思わせるそれらの色の中で輝く金の瞳がすごく眩しく感じられた。
私の髪と瞳は茶色で、肌は白というには色がついていて、健康的だけどありふれている。
自分が平凡であることを認識しているからこそ、この特別が私のものだということに興奮した。
頭を撫でると、短く切られた黒髪と、獣耳の感触が気持ちよくて気に入った。
この子、男の子ね。
あ、そうだ。お父様にこの子の名前を聞くのを忘れていたわ。
「あなた、名前はあるの?」
これだけ大きくなっているのだから、すでにつけられた後だろうと尋ねてみた。
「クロです」
初めて聞いた彼の声は、とても素敵だった。
変声期前の少年の声は、耳に心地良くてはっきりと聞こえた。
「クロね。私はリュミエールよ、これからよろしく」
そうして、当初のイメージとは違ったけど、私は愛犬を手に入れた。
食事は私と同じものをテーブルで一緒に食べる、お風呂にも連れて入って毎日綺麗に洗った。
お洋服も私が選んだ。
上流階級の礼服から、普段着まで、着せ替えもできて楽しい。
男の子は強くなくちゃいけないから、お父様にお願いして家庭教師を雇ってもらい、剣や体術を習わせた。
元々、賢い犬が羨ましかったのだから、お勉強もさせた。
最初は私と一緒に礼儀作法や一般教養を学んでいたのだけど、クロは物覚えが良すぎるので授業はすぐに別になってしまった。
彼は私には必要ないと言われた歴史や数学、世界各地の語学や地理などもお父様に言われて学んでいるらしい。
飼い主は私だから、クロがどんなことを覚えたのか毎日報告が入ってくる。
教師達はこれほど優秀な生徒には初めて会ったと手放しで彼を誉めた。
飼い主として鼻が高いわ。
「お利巧なクロにご褒美あげる。何が欲しい?」
嬉しくなった私はクロにご褒美をあげようと思いついた。
お部屋でソファに座っている私の足下に、腰を下ろして寛いでいる彼に尋ねてみた。
大きなお肉かしら?
それとも甘いお菓子?
クロは私を見上げると、膝の上に頭を乗せてきた。
「お嬢様に撫でて欲しいです」
胸がきゅんとした。
可愛い、可愛い!
幾らでも撫でてあげる!
頭を撫で撫でしていると、クロが徐々に身を乗り出してきて抱き付いてきた。
頬をペロリと舐められる。
「だめよ、クロ! くすぐったいっ」
私よりずっと大きいんだから、じゃれつかれると抗えない。
抱き付いてくる彼が可愛いので、本気で叱ることもできない。
お父様は忙しくしていらっしゃるし、お母様は私に関心がないもの。
私にはクロだけだった。
クロがいるから寂しくなかった。
数年後、突然お父様が亡くなった。
過労が原因の病だったそうで、具合が悪くなって寝込んでからあっという間のことだった。
私は十三才になっていた。
「これでようやく成金の商家と縁が切れるわね、私は実家に戻ります」
お父様の葬儀が終わるなり、お母様は我が家が営んでいた商会を、屋敷と土地も含めてまるごと同業者に売ってしまった。
お母様のご実家は子爵の位を持つ貴族の家で、結婚当初は没落していたけど、お父様の援助で始めた土壌の改良と耕作地を広げた荘園経営が順調で、今ではとても裕福になっていた。
お母様を迎えに来たのは、幼馴染だという貴族の男性で、二人は恋人同士だったそうだ。
当時、壮年のお父様は、十代の少女だったお母様を見初め、援助を条件に結婚を申し込んだ。
恋人は財力がなくて、家を守るために泣く泣く別れて、結婚を承諾。
お父様はお母様を大切にしていたけれど、全然伝わっていなかったのね。
誠実に約束を守ったのに、そういった行為も全て、お金で何でも手に入れる嫌な男にしか映らなかった。
私からしてみれば、何もしなかったくせに、今頃になってまた近づいてくる恋人の方が嫌な男なのに、お母様は愛を忘れずに迎えにきてくれたと感極まっていた。
恋人の手を取ったお母様は、私を凍てつくような視線で睨み付けた。
「リュミエール、あなたを見るたびに、愛する人と引き裂かれてあの男に穢されたことを思い出して厭わしくなるの。いっそ、殺したいぐらい憎いわ。だけど、私にだって慈悲の心はあるのよ? 始末に困るその薄汚い犬はあげるから、さっさと消えてちょうだい。ただし、この先どこへ行こうとも私の娘だなんて吹聴したら許しませんよ」
お母様は唾を吐くようにそう言うと、財産を処分して作ったお金を持って行ってしまった。
私には着ていた服以外の物は何も渡してくれなかった。
我が家だったお屋敷は、鎖と鍵で門を厳重に封じられてしまい、帰る場所もなくなった。
これからどうすればいいのかわからなくて途方に暮れる。
お父様を喪った悲しみも混ざって、とめどなく涙が流れた。
「お嬢様、泣かないで」
後ろから私に抱き付く大きな影。
クロは私の涙を舌で舐めとり、「大丈夫、安心して」と、囁いた。
「俺が守るから、何も心配しなくていいですからね」
「クロぉ……」
クロにしがみついて泣いた。
彼は私が泣き止むまで頭を撫でてくれた。
こうして箱入り娘だった私は、クロに手を引かれて、温かい小さな世界から厳しい風が吹き荒れる広い世界へと踏み出した。
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