お嬢様のわんこ

第三章・苦労性魔術師の愚痴りたくなる日々・4

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「どうだ、パトリス。どのような輩が部屋にいたのだ! 殿下は、殿下は御無事かああああっ!」

 耳元で怒鳴られて、蝶から意識が逸れた。
 魔法が解け、目を瞬かせて、本体がいる宿の大部屋に戻ってきたことを確認する。
 視線を動かすと、目を血走らせた物凄い形相のエドモン殿の顔が間近にあり、悲鳴を上げなかった自分を誉めてやりたい。
 掴まれた肩が痛い。
 興奮した力自慢の老人は、私の肩を手加減なしにひっつかみ、早く報告をしろと迫ってきた。

「敵はどのような男だ! 人数と得物の特徴を早く言え! 今すぐあの部屋に飛び込み、殿下に狼藉を働く鬼畜な者どもを成敗してやるのだ!」

 殿下のこととなると冷静さを欠く人であったが、ここまでとは。
 いや、私も似たような想定で動いていたのだから気持ちはわかる。
 他の者も、いつでも飛び出せるように臨戦態勢で報告を待っていたのだから。

 エドモン殿の手を肩から離してもらい、治癒の魔法をかけて痛みを散らす。
 その間に落ち着いたらしく、一同は神妙な顔で私の報告を待っていた。
 皆を落ち着かせるために、簡潔に事実を伝えよう。
 下手に先入観を持たせるような主観をなるべく省き、殿下と少女の行動を述べるのだ。

「部屋にいたのは十代半ばと思しき人族の少女でした。殿下は彼女をお嬢様と呼び、部屋に入るなり抱擁を交わし合い、怪我の有無を心配されて、無事であることを報告。次に本日の報酬を自ら全て差し出した後、ご褒美に頭を撫でろと身振りで要求、望みの褒美を少女より与えられ、非常に締まりのない笑顔で頭を撫でられ、その後は少女にべったりとくっついて甘えておられます」

 見たものを正確に伝え終え、静かになった一同を見回すと、皆目を見開き、大きく口を開けて固まっていた。
 ええ、そうなりますよね。
 想像していたのと大きく異なった殿下の様子に、部屋の空気は微妙なものになった。

「一応、最後まで監視を続けます。遠見の魔法を行使中でも本体にも感覚は残っています。先ほどのように大声を出されなくても聞こえますので、次からは普通に声をかけてください」

 特にエドモン殿に注意して、もう一度蝶を生み出す。
 部屋はわかっているので、宿の入り口は通らず、壁を伝って直接部屋の方へと行く。
 殿下の部屋の窓の上部に設けられている換気口から、するりと中へ入り込んだ。




 時間が経ったせいか、部屋の様子が少し変わっていて、宿の従業員達が湯を運び込んでいる最中だった。
 さすがに人前でいちゃつくのは自重しているようで、二人はおとなしく並んでベッドに腰掛けて作業が終わるのを待っていた。
 立派な宿だけあって、客室ごとに浴室が備え付けられており、浴槽に湯を入れることで使用可能となる。もちろん水を沸かし、室内に運び込む労力を考えれば、宿代は他の一般的な宿屋より高額になるのは当然だ。
 風呂に入りたがっているのは少女の方だろうか?
 殿下はそこらの川で水浴びでも構わなそうな雰囲気だしな。
 うーむ、これは色香で騙されて貢がされていると考えるべきか……。もしかすると、たまたま今日は稼ぎが良かったので、風呂に入るだけかもしれないし……。
 少女に対する印象を決めかねて、あれこれ想像する。

 やがて、従業員達が退室し始めた。
 浴槽に湯が張り終えられたようだ。

『じゃあ、クロ。お風呂に入ろうか』
『はい』

 少女が服を脱ぎ出したので、慌てて視線を逸らした。
 あれ? 殿下も服を脱ぎ出したぞ。
 声と気配の動きから、二人揃って浴室に入ったと思われる。
 最初に殿下が洗われて、次に殿下が少女を洗い、仲良く浴槽に浸かる様子が会話でなんとなく察することができた。

「二人で入浴をされています。浴室内から漏れ聞こえる会話を聞く限り、殿下は嬉しそうに少女に体を洗われ、逆に洗い、さらに不必要なほど体に触れていると思われます。少女の方は嫌がっている様子は見受けられないものの、入浴に意欲的なのはどちらかといえば殿下の方であるように思われます」

 これ以上、浴室の様子を聞くのも嫌になったので魔法を解いて、周囲の様子を窺うと、全員の目が泳いでいた。
 エドモン殿からは驚愕の表情は消えたものの、困惑が取って変わっていた。
 これまで悪漢に苦しめられている殿下を救い出す想像ばかりしていたのに、実際は女の子と仲良くお風呂に入っているとは……。
 誰も彼もが何をどうしていいやらわからなくなってしまって困っている。
 本当に、どうしようか、これ……。




 入浴が終わった頃を見計らい、蝶を再び飛ばす。
 二人はタオルで髪を乾かしていた。
 少女は殿下の尻尾の毛まで拭いて、仕上げにブラシで丁寧に梳いている。
 殿下はベッドの上で俯せに寝転び、気持ち良さそうに息を吐いておられた。

『うふふ、尻尾も綺麗にしましょうね。さらさらの毛並みに石鹸の香りがして、いつまでも触っていたいわ』

 少女はうっとりとした眼差しで、乾いてふわふわになった尻尾の毛を撫で、顔を埋めたりしていた。
 実に幸せそうだ。
 殿下は尻尾を触られても、匂いを嗅がれても怒らない。
 それどころか、デレデレと蕩けた笑みを浮かべて、少女の好きにさせておられた。
 獣人の耳と尻尾は弱点であり、そこに触れることを許すのは、心を開いた相手のみ。
 このことから殿下が本心から少女を信頼し、何らかの情を持っていることを証明している。

 ……何らかの情などと、濁して考察するまでもないか。
 あれは番を選び終えた牡と同じだ。
 伴侶を得て充足し、貢物をして囲い込み、子作りをするために暇があればくっついている新婚カップルの姿そのもの。
 殿下が我々を寄せ付けないように威嚇していたのも当然と言えるだろう。
 獣人の牡は祖先の獣から受け継いだ本能で、強者の牡に牝を奪われるという恐怖を生まれた時から知っている。ゆえに、ただ一人の伴侶を決めると異常に嫉妬深くなり、常に妻の関心を独占したがり、酷い例になると監禁事件を起こすこともあるほどだ。
 今、下手に少女に接触すると、確実に殿下の怒りを買う。
 殿下を国に連れ帰るためには、少女も連れて行く環境を整えなければならない。
 迎える側に一人でも、少女に対して悪い感情を持っていれば、陛下との対面は間違いなく流れてしまう。
 少女の人柄、殿下に対する気持ちなど、確認するべき事柄は次々と増えていった。

『髪も乾いたし、ご飯を食べに行きましょう』

 少女が殿下を促し、彼らは部屋を出ていった。
 私も後を追い、天井近くを飛びながら一階へと降りていく。
 食堂に入ると、宿泊客が大勢食事をしていた。
 殿下が従業員に人数を伝えると、テーブル席へと案内されていく。

 メニューは決まっており、一食分の料理がトレイに乗せられて運ばれてくる。
 メインはステーキで、生野菜をたっぷりと盛ったサラダとパンが添えられ、デザートにアイスクリームの上に果実を乗せたものまでついている。
 パンは食べ放題らしく、焼き立てパンを入れた籠を持ったウエイトレスが、テーブル席の間を歩き回っていた。

 二人の夕食が始まったことを告げると、部下がパンを差し出してきた。
 皆も差し入れを受け取り、無言で齧り出す。
 パンの中には木苺のジャムが仕込まれていた。
 精神的にも疲れていたので、甘い味が心身を癒していく。

 向かい合わせに座った殿下と少女は和気藹々と食事を始めた。

『少し多いから、クロにお肉分けてあげる』
『ありがとうございます、お嬢様』

 少女は自分の皿から肉を切り分けると、フォークに刺して殿下に差し出した。
 殿下はまたあのユルユルの笑顔で、差し出された肉を食し、もぐもぐと幸せそうに噛み砕いておられた。

「少女は自分の食事から、殿下に肉を分け与え、手ずから食べさせ、殿下は餌を受け取る雛のごとく、肉を受け取り満足そうに食しておられます」

 エドモン殿の耳と尻尾は垂れていた。
 先ほどの粗末な食事を投げ与えられている想像からは、かけ離れていますからね。
 殿下が辛い目に遭っていないことは喜ぶべきことのはずなのだが、沈黙は重くなるばかり。
 皆、血気に逸っていた自分が恥ずかしくなっているのだろう。
 怒りのあまり殴ろうとして振り上げた拳が、急に意味を失ってしまったような、どうしようもない空気に包まれる。

 やがて、食事を終えた二人が席を立った。
 真っ直ぐ部屋に戻るようだ。

「食事を終えて、部屋に戻るようです。手を繋いで歩いてますよ」

 殿下と少女は手を繋ぎ、寄り添うように歩き出した。
 周囲から声はまったく上がらない。
 私は淡々と状況を報告していった。

 部屋に戻った二人は、他愛のない話をしながら寛いでいた。
 隙あらば、殿下は少女に擦り寄り甘えている。
 少女の方も、にこにこ笑いながら殿下の耳や尻尾を触り、飽きることなくイチャつき続けた。

 食事で膨らんだお腹が落ち着いたのか、二人は就寝のために着替えてベッドに向かう。
 この部屋は二人部屋だが、寝台はダブルの大きなものが一台だけ置いてある。
 どうするのかと見ていると、彼らは何の躊躇いもなく一緒に寝具の中に潜り込むと、仲良く体をくっつけて明かりを消して寝てしまった。
 ここで終わって助かった。
 人様の情事を盗み見るような趣味は私にはないからだ。
 蝶を消し、本体に意識を戻した私は、大きく安堵の息を吐いた。




「……以上、お休みになられたので、報告を終了いたします」

 二人の監視を終えたことを告げる。
 部屋の空気は相変わらず重く、途方に暮れているのが分かった。

「殿下はお幸せなのだな」

 エドモン殿がぽつりと呟いた。

「ええ、きっと今が一番幸せでおいでかと思います」

 私は頷き、さてどうするべきかと頭を悩ます。

「陛下へのご報告はもうしばらくお待ちください。明日は殿下の留守中の少女の様子を調べます。それと冒険者ギルドにご協力を頂き、彼らの経歴を辿り、どのような暮らしをされていたのか探りましょう」
「うむ。陛下の御心労をこれ以上は増やしたくないからな。詳しいことがわかるまでは、殿下に危険が及ばぬように守りに徹することにしよう」

 改めて遅めの夕食を取り、その日は就寝した。
 明日の早朝から忙しくなる。
 少女は果たして天使か悪魔か。
 恐らく地獄を見てご苦労をなされた末の現状であるなら、前者であって欲しいと願わずにはいられない。


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