買い物から帰ってきたヴィオラートは、家の前にタライを置いて洗濯をしていた。
最後に残ったのは、兄に頼まれたシャツで、インクのシミがこびり付いている。
父所有のそのインクは消えないことで有名で、ヴィオラートは渋ったものの、報酬にと見せられた好みのニンジンに釣られて引き受けてしまった。
「ああ、もう、落ちないよう。美味しそうなニンジンだったけど、引き受けるんじゃなかったなぁ」
強く擦れば布地を痛めてしまう。
思うように落ちない汚れに、ヴィオラートは徐々に嫌気がさしてきた。
「お兄ちゃんの服だし、もう捨てようかな。でも、諦めたらニンジン食べられないし……。ああ、シミが広がっちゃうー!」
シミは落ちるどころか広がり始めて、ヴィオラートは悲鳴を上げた。
「ねえ、あなた。落ちないシミがあるの?」
聞きなれない女性の声に、ヴィオラートは手を止めて顔を上げる。
見覚えのない若い女性が立っていて、ウィオラートの手元を見つめていた。
「あ、はい、このインクのシミが落ちなくて」
「ちょっと見せてみて」
女性は屈むと、濡れたシャツを手に取った。
赤い帽子を乗せた長いブラウンの髪がさらりと揺れる。
ヴィオラートは興味深く女性を見つめた。
(綺麗な人だなぁ。村の人とは何か違う、都会の人ってこんな感じなのかな?)
女性の衣服も独特だ。
膝上丈の赤いミニスカートなど、村の女性で着る人はいない。
旅人が身に着けるマントも、服の襟と一体になっていておしゃれに見える。
「……これなら手持ちの薬で落ちそうね」
女性は鞄から液体の入った瓶を取り出した。
シミの上に瓶の液体を数滴垂らす。
「あ、消えた!」
ヴィオラートは驚いて声を上げた。
あれほど頑固に染み込んでいた黒いインクが、水に溶けるように消えてしまったのだ。
「す、すごい! どうして?」
「錬金術を使えば簡単なことよ」
ヴィオラートの驚きをよそに、涼しい顔で薬の瓶を鞄に戻した彼女は、肩にかかった髪を後ろに流して微笑んだ。
「そうだ、そのシミ落としの洗剤、代金はおいくらですか? あたしお金持ってないから、たくさんは払えませんけど……」
「お節介でしたことだから、お金はいらないわ。それとね、これはシミ落としの洗剤じゃないの。錬金術の素材にもなる、他にも色々使える液体なのよ」
「へえ、錬金術って、すごいんですねぇ」
ヴィオラートは感心して呟くと、ぽんと手を打った。
「ちょうどおやつの時間ですし、家に寄っていってください。飲み物をお出ししますから」
「気を使わなくてもいいのよ」
「感謝の気持ちです! ご迷惑じゃなければ、ぜひ!」
「なら、お邪魔しようかしら」
遠慮していた女性も、社交辞令ではないと気づいたのか、誘いに応じてくれた。
ヴィオラートは綺麗になったシャツを急いで干すと、女性を招き入れるために家に戻った。
珍しい素材を探して周辺を探索している途中で、休憩のためにカロッテ村に立ち寄ったアイゼルは、気まぐれで声をかけた村娘から家に招待されて戸惑っていた。
(歓迎してくれているようだし、お呼ばれしても大丈夫よね)
準備をしてくるから待っていてと言われて、家の前でおとなしく待つことにした。
シャツを持って物干し場に行き、干すと家へと駆け戻っていくヴィオラートを見つめながら、彼女は懐かしさを覚えていた。
「姿は全然違うけど、あの子を思い出すわ。今頃どうしているのかしら、元気でやっているといいわね」
純朴な田舎特有の空気がそう思わせるのだろう。
彼女は今や遠い地となった故郷にいる友に思いを馳せた。
幼い頃に命を救ってくれた錬金術士に憧れて、田舎から首都ザールブルグにやってきて、錬金術を学ぶアカデミーに入学した少女。
入試は最低の成績で、寮にも入れず、アカデミーが所有する街の工房を借りて生活費を稼ぎながら勉強をするという、裕福な貴族令嬢で成績上位者のアイゼルから見れば、取るに足りない存在でしかなかった。
好意を寄せていた少年が彼女に興味を持ったことから、気に食わなくて何度も嫌味を言ったり、張り合ったりしたけれど、彼女の頑張りを間近で見るうちに友人としての好意が芽生え、醜い嫉妬で心を乱す自分を恥じ入るようになっていった。
彼女は貪欲に錬金術を学び、学年末のテストでは主席を取るほどの実力者となった。素材を買うお金を節約するために、頻繁に外に採取に出かけていた成果で、冒険者としても有名になり、主に騎士団員が活躍する国を挙げての武闘大会でも上位に食い込む活躍をした。
アカデミーを卒業した彼女は、新たに自分で工房を開いたが、きっと繁盛していることだろう。
「もっと自分を磨いて帰らなくちゃ、あの子に負けていられない」
一度はライバルとして競った彼女の成長と活躍を目の当たりにして、アイゼルは卒業と同時に衝動的に旅に出た。
広い世界を見て歩き、もっと自分を高めたいと思ったのだ。
恋い慕う彼から離れることはつらかったけれど、あのまま傍にいた所で振り向かせることはできなかっただろう。
彼のことを思い浮かべると、今でも胸の奥が疼いて、痛みとともに幸せを感じる。
「区切りをつけて出てきたつもりだけど、まだ未練が残っているのね」
いつか故郷に帰った時に、彼がまだ一人でいたら、今度は胸を張って正面から告白しよう。
そのためにも、彼女の旅はただの旅行ではなく、新しい発見や人との出会いが必要だった。
「なんだか面白そうな子に出会ったわね。少し変わった話が聞けることを期待しましょう」
そう言って微笑むと、彼女はヴィオラートが手招きしている民家へと歩み寄った。
ヴィオラートは、錬金術士のアイゼルだと名乗った不思議な女性から、一冊の本をもらった。
錬金術について書かれた本。
基礎から応用まで、アイゼルが独自にまとめたものであり、さっと目を通したが理解が追い付かなくて、頭が痛くなった。
「はあ、見せてもらった錬金術はすごかったんだけどなぁ。綺麗な石を作ったり、物を浮かせたり、手品みたいだった。練習すれば簡単なものならできるって言ってたけど、本当にあたしにもできるのかな?」
ベッドに俯せに寝転がり、もらった本を広げてため息をつく。
シミ落としのお礼にと、家に招き入れてニンジンジュースをふるまい、錬金術について質問すると、アイゼルは簡単なものならばと前置きして実演して見せてくれた。
家で使っている普通のコップに、液体や草を入れて彼女が混ぜると、キラキラ光って薬ができた。
ただの石を磨いただけで見たこともない宝石に変わり、素材として見せられたグラビ石は触ってもいないのに宙に浮いた。これを使って調合したアイテムには空を飛べるものもあるそうだ。
錬金術は可能性の学問。
大切なのは成し遂げたいという思い。
そう語った彼女の言葉が本当なら、ヴィオラートが求めるものが錬金術の先にあれば、必ず何か得られるものがあるはずだった。
「あたしがしたいことって、何だろう? まだよくわからないや」
何になりたいとか、何がしたいとか、日々を生きることで精一杯で考えたこともなかった。
大人になるまで家族と暮らして、年頃になったらお嫁に行く。
ぼんやりと想像していた未来は、今は先の見えない闇の向こうにあった。
「たぶん、このままじゃだめなんだろうな。村から人がいなくなってるって、あたしにもわかるもん」
ヴィオラートはカロッテ村で生まれ育った。
ここは大好物のニンジンが好きなだけ食べられる幸せな土地。
それだけではない。
ヴィオラートの成長を見守り、または共に育った大切な人達が村には大勢いた。
「錬金術か……。あたしにできること、何か探してみようかな」
ヴィオラートが少しずつ、未来を見据えて動き始めた頃、彼女の両親は重大な決意を固めようとしていた。