酒と樽の街ファスビンダー。
熟成した葡萄の香りが漂う街の中を、旅姿の若い女性が一人で歩いている。
目を引くのは、長いブラウンの髪と身に着けた赤いミニドレスに包まれた肢体である。
豊かな胸と引き締まった腰、ひざ上丈の白いタイツを穿いた形よくすらりと伸びた足。すれ違った男が思わず視線で追うほどのスタイルの良さを持ち、顔に目を向ければ、毅然とした気品の漂う美貌を備えていた。
ドレスの襟と一体となっている白いマントで、後姿を追う男の視線を遮り、彼女は颯爽と石畳が敷かれた通りを抜けていく。
手に持った杖は魔法使い用のもので、見る者が見れば、手に馴染んでいることがわかるだろう。
「船で入国して、首都から歩いてきたけど、大きな街があるのはここまでのようね。この辺りは自然が多くて良い素材がありそうだし、南の方へ足を延ばしてみようかしら」
彼女は独り言を呟くと、情報を求めて酒場に入っていった。
旅人や冒険者にとって、酒場は貴重な情報基地だ。
不慣れな土地で道に迷った時や、仕事の斡旋、とにかく酒場に駆け込めばどうにかなるのが世界共通の認識ともいえる。
「いらっしゃい、初めて見る顔だね」
店内に入ると、マスターが声をかけてきた。
食事時ではないせいか、店内には客がほとんどいない。
好都合だと彼女は微笑んだ。
「ええ、この国には初めて来たの。少し情報が欲しいのだけど良いかしら? せっかくだから、お勧めのワインをくださらない?」
「いいとも、少し待っていてくれ」
情報料代わりに、少し上乗せした金額の酒代をテーブルに置く。
ほどなく赤い液体を湛えたグラスが目の前に置かれた。
「私、南に行きたいのだけど、街か村があるのか知りたいんです」
「南の街道は人の行き来が少なくなっていて、女性の一人歩きはお勧めしないが、数日歩いた先にカロッテという名の小さな村がある。宿もあるから、拠点としては悪くない所だ」
「ありがとうございます、それだけ聞ければ十分よ」
彼女は品良くグラスに口をつける。
所作は上流階級のもので、マスターは軽く目を見張った。
「失礼だが、お嬢さんは冒険者なのかね?」
「はい、冒険者も兼ねています。でも、本業は錬金術士なの」
「錬金術士? 初めて聞くな」
「私の名前はアイゼル・ワイマール。ちょうどいいわ、何か調達のお仕事があるようなら紹介してください。こう見えて、日用品から傷薬に珍しい素材まで、上質の物を用意できますから」
ファスビンダーに現れた旅の錬金術士アイゼル。
彼女の気まぐれが、後にカロッテ村に希望を運ぶことになる。
夜が明けて、山の向こうから朝日が村を照らし始める。
夜露に濡れた葉が、そよ風に揺らいで水滴を落とす。
さっそくと起きだした村人達が朝の仕事を始めた頃、ロードフリードは村の中を歩いていた。
村の風景は、何も変わらないようでいて変わっている。
顕著なのは空き家の存在だろう。
元から民家は少なかったが、人が消えた跡が残っていることで、余計に寂れた印象を与えている。
「ここも空き家か……」
六年前には住人がいたはずの家の前で立ち止まり、彼は呟いた。
放置された建物は扉や窓に板が打ち付けてある。
誰か使いたい人がいれば使ってくれと、村長に言い残して去っていった住人達だったが、新しい住人が入ることはなく、家屋はそのままだ。
「仕事がなければ生活していけない。問題はその仕事をどうやって増やすかだ」
せっかく帰ってきたのだ。
ロードフリードは村が寂れて消えていく様を、このまま黙って見ている気はなかった。
しかし、村に活気を取り戻すにしても、どうすればいいのか見当もつかない。
騎士が学ぶ教養の中には、経済学も含まれていたが、触りだけでそれほど専門的なことは習っていなかった。
「そもそも村の大人達が何年話し合っても解決できなかったことだ。すぐに良い考えが浮かぶわけはないな」
ため息をついて、小川の流れに沿って歩いていく。
向かう道の左手に小川、右手にはニンジン畑が続いている。
時々、畑の中にいる村人に挨拶をして進んでいくと、村はずれの空き地に出た。
草は刈られていたが、使われていない耕作地が目立つ。
ロードフリードは剣を抜くと一振りした。
上段に構えて軽く振り、次第に腰を据えた力強い振りへと変えていく。
帰路の道中も戦いのない日はなかった。
油断をすれば、弱い敵にも負けることがある。
どれほど強くなったとしても驕ることなく鍛錬を欠かしてはならない。
それに騎士の資格を得たとしても、ロードフリードには実戦経験がまだまだ足りなかった。
訓練を終えてスタートラインに立ったばかりで、熟練の竜騎士とは強さに相当な開きがあり、今のままでは到底敵わない。竜騎士は竜を倒すほどの強さを誇るといわれているが、竜と相対して勝てる者など、ほんの一握りの実力者だけだ。
「目標は誰よりも強くなることだ。精錬所にいた頃のように指導は受けられない、後は実戦の中で鍛えていくしかないんだ」
集中して剣を振り続ける。
弱ければ、大切な人を守れない。
貪欲に彼が強さを求めるのは、ただその一念があるからこそだった。
村の散策と朝の鍛錬を終えたロードフリードは、ゆっくりと自宅への道を歩いていた。
帰ってきたばかりということもあり、休養を兼ねてまだしばらくはのんびりと過ごすつもりだった。
何気なく中央広場に足を向ける。
行商人が来ていて、女性達が買い物をしに集まってきていた。
「ロードフリードさん!」
呼びかけられて、足を止めた。
ヴィオラートが手を振りながらやってくる。
「おはようございます! ロードフリードさんもお買い物ですか?」
「おはよう。いいや、散歩に出て帰る途中に立ち寄っただけさ。も、ってことはヴィオは買い物に来たんだね」
「はい、今日はあたしがご飯作るんですよ。その材料を買いに来たんです」
ヴィオラートが持っている買い物カゴの中にはしっかりニンジンが入っていた。
「今夜はニンジン尽くしのメニューかな?」
ロードフリードはニンジンをたくさん食べていた幼い頃の彼女を思い出して、冗談めかして尋ねた。
「よくわかりましたね。今日のメインはニンジンがメインのシチューなんです。パンには細かく刻んだニンジンを入れて焼くし、食後のデザートにニンジンケーキとニンジンジュースもつけちゃう予定です!」
ヴィオラートの目は本気だった。
冗談で言っているわけではないと悟り、ロードフリードは夕食を前にうんざりして文句を言っているバルトロメウスの姿を思い浮かべた。
「相変わらず、ヴィオはニンジンが好きなんだね」
「えへへ、大好きですよー! ニンジン料理、自分で色々考えて作ってるんです。ね、お店とか出したら流行ると思いません? カロッテ村名産ニンジン料理専門店!って売り出したら、外からお客さん来てくれないかなぁ。前にお兄ちゃんに話したら、馬鹿にされて取り合ってくれませんでしたけど」
ニンジン取り放題でも人が来ないのだ。
ニンジン料理のために辺境の村に足を運ぶなど、国中の飲食店制覇を目指して食べ歩く人ぐらいだ。
ロードフリードは否定はしたくなかったが、同意もできないので、結局柔らかい言い方で難しいと伝えることにした。
「そうだね、メインがニンジンだけだと厳しいかな。ヴィオほどニンジンが好きな人がたくさんいたら流行るだろうけど、そういう人には都会でも会わなかったな」
「そうなんですか? ニンジン美味しいのに」
ヴィオラートはカゴからニンジンを取り出して撫でた。
「このニンジン、極上品なんです。一本だけ奮発して買ったの。後でじっくり味わって食べるんだー」
うっとりと宝石でも眺めるかのような視線を、彼女は朱色の野菜に注いでいた。
ロードフリードは昔と変わらない彼女の様子に、微笑ましさを感じた。
(可愛いって思うの、変かな?)
可愛らしい女性の仕草の中に、野菜を眺める姿というのはあまりないだろう。
ヴィオラートの愛らしさは、人に言ってもなかなか理解してもらえないものかもしれない。
都会で様々なタイプの女性を目にする機会はあったものの、誰にも心を動かされなかったのは、この幼馴染が基準になっていたからか。
「今度、美味しいニンジンを差し入れに行くよ」
もっと彼女の喜ぶ顔が見たくて、そんな言葉を口にしていた。
「わあ、ありがとうございます! 楽しみに待ってるね!」
晴れやかな顔には、心からの喜びが満ちている。
女性に野菜を贈っても、ここまで喜ばれることはない。
色々と普通とは違う少女だが、ロードフリードは誰よりも好ましく思うのだった。