昼食の後片付けをとうに終えた母親達は、居間のソファに腰かけて深刻な顔を突き合わせていた。
「そう、どうしても行くのね」
ユリアーネは悲しみで表情を曇らせた。ベルタも同様に暗い顔をしている。
子供達の前では見せない本音を二人は語り合っていた。
「ええ、この村ではもう生活していくことはできない。フェルに頼めば仕事はできるかもしれない。でもそれは、ヴィクトールのプライドが許さないでしょうからね」
「親友だからこそ頼れないのね。男の人は難しいわ」
「いつでも対等でいたいのよ。向こうの街で成功すれば、また胸を張って会いにこられるわ」
「でも、遠いのでしょう? 隣の国なんて……」
「気軽には帰って来られないでしょうね。だけど、二度と会えなくなるわけじゃないわ。手紙も書くつもりよ」
ベルタはもう覚悟を決めてしまっていた。
ユリアーネは零れそうになる涙を堪えて目頭を押さえた。
「バルテル君とヴィオちゃんはどうするの?」
彼女の問いに、ベルタは微妙な顔をした。
子供達については、まだ決まっていないことがあるようだ。
「バルテルは残るつもりだそうよ。あの子はもう大人だから、そろそろ独り立ちしても良い時期だしね。ヴィオにはまだ話していないの、ヴィオはバルテルと違ってできる仕事もないでしょう。できれば連れて行きたいのだけど、最近錬金術とかいう変なものに興味を持っているのよ」
「錬金術?」
ユリアーネは初めて聞く言葉に、目を瞬かせた。
「旅の人から教えられたそうなのだけど、変な臭いや煙は出るし、大半はよくわからない黒い物体になって、成功したと言うから見てみればただのスープだし、先行きが不安になるわ。ますます置いていけない」
呆れた顔で困ったものだと呟くベルタとは対照的に、ユリアーネは興味をそそられて身を乗り出した。
「あら、面白そうね。私としてはヴィオちゃんには残ってほしいのよ。帰ってきたのに、また離れ離れなんてロードフリードが可哀想でしょう。うちの息子にチャンスを与えてくれないかしら?」
「そりゃあね、ロードフリードがもらってくれるなら私も安心だけど、そう上手くいくかしら? 確かに子供の頃から懐いてはいたけど、兄妹のようなものだったでしょう」
親の思惑通りに、子供の心が動くとは限らない。
娘を置いていくことに不安を感じるベルタは、その可能性に賭けるほどのふんぎりはつかないようだ。
「ふふ、それはどうかしら? 十代の六年は長いのよ。子供が大人になるほどの時間が過ぎて、二人ともお互いの成長に戸惑っているはずよ。少なくともうちの息子は、もう妹だなんて思っていないと思うわ」
ユリアーネは自信満々に笑みを浮かべ、親友の心を動かそうと囁く。
「ヴィオはどうかしらね。まだ恋に恋しているような感じで、現実の男の人に目を向けているとはとても思えないわ」
「ロードフリードにとっては幸いね。私はヴィオちゃんが残ると言ってくれることを祈るわ」
ベルタの表情は子供達を案じる気持ちで暗く陰った。
手を伸ばし、ユリアーネの手を握る。
「ユリア。私達が旅立った後、子供達のことを見守ってくれるかしら。バルテルは一人でも生きていけるだろうけど、まだ若いから間違ったり迷うこともあるかもしれない。そんな時、助言をしてあげて欲しいのよ」
ユリアーネはベルタの手を握り返すと微笑んだ。
「もちろんよ。村の子供は我が子も同然、村の人達もそれは同じ。みんな事情はわかっているもの、村に残って頑張る子供達を応援しない大人はいないわ」
ベルタはホッと胸を撫で下ろした。
「それを聞いて安心したわ。私達が出ていくことで、あの子達が肩身の狭い思いをするのはつらいもの」
手を離してソファに座り直すと、ユリアーネは労わるように声をかけた。
「子供と離れて暮らすのは寂しいものよ。ねえ、もしも、村に活気が戻ったら帰ってくる気はある?」
「私もヴィクトールも、生まれ育ったこの村が好きよ。帰れるものなら、帰ってくるわ」
「私はね、あの子達ならこの村を変えてしまえるような凄いことをするんじゃないかって思うの。三人揃うと、こっちがびっくりするような冒険や悪戯をしていたでしょう。ヴィオちゃんの錬金術は、そのきっかけになるんじゃない?」
「そうかしら? 私にはよくわからないものでしかないし、そこまで凄いものだとは思えないけどね。危ないことをしなければいいと心配するわ。ヴィオは目を離すと、とんでもないことをする子だったから」
「川に落ちたニンジンを追いかけて、一緒に流されたりね」
無事だったから良かったものの、恐怖の瞬間を思い出して、ベルタは身を震わせた。
「本当にあの時は生きた心地がしなかったわ。結局、ロードフリードが助けてくれたのよね。あの子には、いつもうちの子が面倒をかけていたような気がするわ」
「あの子、ヴィオちゃんの為ならどんなことだってやるわよ。ただの幼馴染にそこまで付き合う人がいるものですか。それでいて、異性として好きかどうかわからないなんて、あれが恋じゃないと言われたら、本当に恋した時にはどうなるのか恐ろしいものよ」
ユリアーネが息子とヴィオラートをくっつけようと思案するのは、子供の頃からの彼らの関係を見ていたからだ。
大人になって帰ってきても相変わらずなくせに、自分の気持ちがわからないと言って煮え切らない息子に苛立ちを覚えて、ついあれこれ気をまわしてしまう。
「子供達を置いていくことに不安はなくなったけれど、ヴィクトールはヴィオだけは連れていくつもりなの。ヴィオがついて行かないと言えば揉めることになるわね」
「可愛い娘を手元から放すには抵抗があるのでしょうね。村には独り身の若い狼もそれなりにいることだし、目の届く場所に置いておきたいって所?」
「まあね、バルテルがいるなら、おかしなことにはならないと思うけど」
「娘のいる父親の気持ちって想像がつかないわ。もしかして、両思いでもだめなのかしら?」
「自分のいない間に、娘を奪われたみたいな気になるんじゃない? 本当に面倒臭いこと」
母親二人は同時にため息をついた。
「明日あたりに話をするつもりなの。出発の日が決まれば、また話しに来るわ」
「ええ、わかった。フェルにも、そう伝えておくわね」
「さて、夕方まで、もう少し時間があるわね。気分を変えて違う話をしましょうか」
落ち込んだ気分のままで会話を終えたくないと、ベルタが明るく声を上げた。
ユリアーネは立ち上がると、部屋の隅に置いていた大きな袋を持ってきた。
「実家の母が布を送ってくれたのよ。何か服を作ろうと思っているのだけど、良かったらベルタもどう? 旅には丈夫な服も必要でしょう。餞別にヴィクトールの分と一着ずつ作るわよ」
「ありがとう、喜んで受け取るわ」
「じゃあ、寸法を測って型紙を作らないとね。うふふ、昔はよく二人で服を作ったわね。自分達のものもだけど、子供達の服! 特にヴィオちゃんの服は作り甲斐があったなあ。女の子の服はリボンやレースで飾れて楽しかったわ」
「ヴィオが生まれる前、ロードフリードが赤ん坊の時は、たまに女の子の服を作って着せてたわよね。バルテルには似合わなかったけど」
「バルテル君は赤ちゃんの時から男前だったもの。ロードフリードは知らない人から女の子ですか?て、よく聞かれてたから、つい魔がさしたのよ」
「どちらにしても、あの子達には知られてはいけない過去よね。作った服は後でヴィオが着てたってこともね」
当時の姿を記録しておくものがなかったのが、ロードフリードにとっては幸いだった。
懐かしい思い出を語り合いながら、彼女達はすぐに来る別れの時へ向けて心の整理を終えた。
翌日の夕食の席で、父のヴィクトールは子供達に、隣国への引っ越しを告げた。
「この村で畑を耕しても、日々食べていくだけで精一杯だ。移住を考えている街は開拓の途中で移民を広く受け入れている。新しく仕事を始めるには最適な環境だ。街の発展は目覚ましくて将来性もある。父さんはそれに賭けようと思う」
ヴィオラートは驚き、バルトロメウスはあらかじめ知っていたのか、冷静な態度で父の言葉を受け止めた。
「いや! 引っ越しなんてしない! そんな遠い所になんて、ついて行かないから!」
ヴィオラートは即座に抗議の声を上げた。
彼女は身を乗りだして、食卓に勢いよく手をついた。
「だいたい、その街にニンジンはあるの? カロッテ村みたいに、毎日たくさん食べられるの?」
家族三人は、半眼になってヴィオラートを見つめた。
目を見て冗談ではないと知り、一斉にため息をつく。
「反対する理由はそれなのか?」
ヴィクトールは疲れた顔で娘に尋ねた。
ヴィオラートはたじろぎ、反抗的に口を尖らせる。
「そ、それだけじゃないもん。大きな街なんてやだ、知ってる人もいないし、カロッテ村がいい!」
それにその街には、ニンジン姫を守ってくれるニンジン王国の騎士はいない。
せっかくまた一緒にいられるようになったのに、離れるなんて嫌だった。
「前にも言ったけど、俺は残るぜ。この村にやり残したことがあるんでね。今は離れるわけにはいかないんだよ」
バルトロメウスが口を挟む。
ヴィクトールは息子の主張を咎めなかった。
「バルテルはもう大人だからな、父さん達が旅立った後は、この家も畑も自由に使うといい。仕事も自分で選びなさい。ただし、目を離した後、自立できなくて生活もままならない様子なら、向こうに連れて行くからな」
「大丈夫だっての。俺は一人でも生きていける」
「お兄ちゃんが残るなら、あたしも残ったっていいでしょう! 大体、お兄ちゃん家事できるの? 洗濯だって苦手なくせに。お母さんがいなくなるなら、あたしがこの家の家事を取り仕切ります!」
ヴィオラートは腰に手を当てて、胸を張った。
また家族の間に沈黙が落ちる。
「ヴィオ、お前はまだ子供だ。父さん達と来なさい。大きな街だしニンジンぐらいあるだろう。心配なら種を持って行くといい」
「カロッテ村以上に、ニンジンが美味しく育つ土地はないんだよ。昔、近所のお爺ちゃんやお婆ちゃん達が言っていたもの!」
「みんな村から出たことがないからな。本当かどうかはわからないぞ。案外、極上のニンジンが簡単に育つ土地かもしれない」
「ご、極上のニンジンが簡単に……」
ヴィオラートはごくりと喉を鳴らした。
頭の中で、美味しいニンジンを頬張る瞬間を思い浮かべる。
「はっ! だめだめ! あるのかないのかもわからないニンジンに釣られちゃだめ!」
ぶんぶんと首を横に振り、彼女はふんっと気合を入れた。
「あたしには錬金術があるの! もう少しでちゃんとした物が作れるようになるはずなの! そうしたらお店作って繁盛させて、この村に人がいっぱい来るようにしてみせるんだから!」
「お前がやっているあの怪しげな何かか。あれはもうやめなさい、近所の人も変な目で見始めている。この前も、ヴィオラートは大丈夫かと心配されたよ」
「怪しくないもん! 少しは娘を信じてよ、錬金術は必ずできるようになる!」
一歩も引かない娘の力強い眼差しを見て、ヴィクトールは一旦退くことにした。
「旅立つ日まで、まだ日にちはある。その錬金術で何か役に立ちそうなものが作れたら、父さんもお前の言うことを信じよう。何日経ってもスープしか作れないようなら、有無を言わさず連れていくからな」
「わ、わかったよ、絶対何か別のもの作るから! 今言ったこと、忘れないでね!」
ヴィオラートのやる気に火が付いた。
錬金術への信頼と情熱が彼女を突き動かす。
バルトロメウスは、いつになく燃え上がっている妹を見て、内心驚いていた。
引っ越しの話を聞いて、ここまで我を通すとは思わなかったのだ。
どちらかといえば、ヴィオラートは甘えん坊だ。
両親と離れることを嫌がってついていくものだと、彼は勝手に想像していた。
そこまでニンジンに執着しているのか、それとも別の理由が村にあるのかはわからない。
「何にせよ、スープと失敗作しか作れないんじゃ、連れて行かれるのは目に見えてる」
バルトロメウスは妹に手を貸す気はなかった。
錬金術はヴィオラートが初めて自分から興味を持って始めたことだ。
父を納得させられるほどの物を作るのは、最初の試練といえるだろう。
「それに、俺に手伝えるようなことがあるとも思えんしな」
準備のために二階に駆け上がっていく妹の足音を聞きながら、傍観者になるしかない兄はつまらなさそうに呟いた。