其の弐



 淡々とした日々が過ぎていく。顕ちゃんとは、お互い仕事が忙しくなり、すれ違うことが多くて、なかなかゆっくり会う時間はとれないでいた。胃の痛みは一向に良くならず、相変わらず病院通いを強いられていて、近々再検査の予定まで入れる羽目になってしまった。半ばヤケになって不摂生していたせいだ。
「一度、長い休みでも取ったほうがいいんじゃないんです?」
馴染みのテレビ局。俺の所属する事務所のタレントが、ほぼ勢揃いする深夜のバラエティ番組の撮影が行われる日。控え室にはまだ、俺と藤尾の二人だけだったので、藤尾に体調のことを聞かれてうっかり正直に話してしまい、また心配されてしまった。不摂生の部分は伏せておいたが。
「何言ってんだよ…生活していけなくなるだろー。お前さあ、そんなに俺と吉牛食いに行きたい?」
「なっ…何言ってんですか!もぉー!心配してるだけですよ!」
俺の冗談を真に受けて、藤尾はムキになって否定した。それが可笑しくて、つい笑ってしまった。藤尾は急に真顔になり、俺の顔を見つめた。
「?何だよ?」
「…いえ、最近ずっと…音尾さん、笑わなかったから。笑ったなあって思って…」
言われてはっとする。……同じこと言うんだな。顕ちゃんと……。
「音尾さん?」
「あ、ああ…体調も体調だしな。確かにここんとこあんまり笑ってなかったかもな」
「……体調のせいだけじゃないような気がしますけど……」
ぽつりと呟かれた藤尾の言葉には、何か含みが感じられて。
「…お前、それ…どういう…」
うろたえて言いかけたところで、控え室のドアがガチャリと開き、俺は口をつぐんだ。
「あれ?まだ二人だけ?急いで来ることなかったなー」
モリがひょっこりと顔を出し、控え室を見渡して意外そうに言った。
「ああ、皆仕事が押してんじゃない?早かったね、リーダー」
「うん、思ったより前の仕事が早く終わってさ。………お前、相変わらず顔色良くないなあ。どうなのよ、胃の具合」
俺は内心、ヒヤッとした。いくら口止めしているとはいえ、藤尾が余計なこと喋り出すんじゃないかって。皆には、ちょっと胃の調子が悪くて、検査はしたけど特に以上はないって程度にしか伝えてなかったから。
「ああ、まあ…相変わらずっていうか…」
俺は適当な言葉でお茶を濁そうと、答えになってるのかないのか分からない返事をした。
「困るんですよねー。僕ね、ずっと音尾さんに吉牛奢って貰う約束、したんですよぉ。今月の生活費、めちゃめちゃ厳しいからあてにしてたんですけどねー」
ふ…藤尾?何を唐突に……。俺は、ポカンとしてしまった。
「何だよお前ぇ。最近仕事増えてきたんじゃなかったのかー?まだ音尾にたかってんの?」
「増えたって言ったって、まだ厳しいですよ。あ、河野よりはマシですけどね。あいつ今日、バイト行ってますよ」
「…大変だなぁ…相変わらず」
モリは苦笑しながら藤尾の話を聞いてる。………藤尾、お前……もしかして、わざと話を逸らしてくれたのか?
 そうこうしているうちに皆集まり出し、撮影が始まった。顕ちゃんは仕事が押しまくって珍しく遅刻をしてきたので、ゆっくり話す暇は無かった。スケジュールは確か、朝からぎちぎちの筈だ。この撮影が終わったら日付も変わってるだろうし、恐らく今日も家に真っ直ぐ帰るだろう。
 自分の出番は一旦終えて、待機している間。現在行われている撮影の、モニターを覗いた。丁度顕ちゃんのシーンで、目の前では勿論生身の顕ちゃんが演技している訳だけど……何だろう。カメラを通すと、余計に綺麗さの凄味が増すっていうか……つくづく美形だね、顕ちゃんは……。
暫くモニターに見入っていて、ふと、視線を感じてその方向を見た。そこに立っていたのは………藤尾。藤尾は俺と目線が合うと、バツが悪そうに視線を逸らして、すたすたと控え室の方へ歩いて行ってしまった。……お前、何か知ってるのか?………まさか。そんな筈はない、モリやシゲや洋ちゃんだって、俺達の変化には気付いてない筈だ。あいつが、たまたま俺を見てただけ…。きっとそうだ。でも、撮影の控え室でのあの言葉は………。
「藤……」
「音尾さーん、次のシーンお願いしますー」
藤尾を呼び止めようとしたが、スタッフに呼ばれて適わなかった。

 撮影が終わり、皆それぞれ家路についた。顕ちゃんは明日の仕事の段取りがあるとかで、まだ残らなければならないらしい。問いただしたいことがあったのに、藤尾の姿も無い。仕方なく、おとなしく帰ることにして車に乗り込んだ。駐車場から出て暫く走ったところで、コンビニが目に入った。そういや、裕次郎の餌、切らしてたっけ……。喉も渇いたし、寄って行こう。
車を止め、財布だけ持って出ようとして、荷物を探る。………無い。上着のポケットにも入ってない。………………まずい。思い当たるのはテレビ局の控え室だけだった。億劫だけど仕方ない、カード類も入ってるし………。俺はもう一度、今来た道を戻った。局に着いて、控え室まで急いで走る。時間も時間なので、局内は人影もまばらで寂しい感じがした。スニーカーのキュッキュッという靴音が、廊下に響いた。控え室の前まで来て、ドアノブに手を掛けようとして――――――中から話し声がすることに気付いた。
「……………?」
立ち聞きは悪いと思いながらも、中の様子を窺うように、ドアに耳を近付けた。
「お前が口挟んでくることじゃないだろう?」
………この声………。顕ちゃん………?
「だから、僕だってそれは分かってますって!だけど、おかしいじゃないですか!!」
藤尾?………何の話してるんだ?二人で…。
「物凄く仲良くて、羨ましかったんです。……仲いいから、音尾さんの様子がおかしいことくらい、気付いてると思ってたんです!」
藤尾の悲痛な叫び声。俺の話…………してるのか?
「音尾さん、笑わなくなったじゃないですか!!音尾さんは……!!………音尾さんは安田さんのことが好きで………安田さんだって………なのに……!」
顕ちゃんの声は聞こえてこない。………藤尾………、何言ってんの………?お前……。
「見てられないんですよ、今の音尾さん!痛々しくて―――――可哀相で………!」
――――――…………今、何て言った………?………可哀相、だって………?この俺が………?
頭の中が真っ白になって、血の気が引いていくような気がした。
「………っ………」
途端に吐き気に襲われて、口許を手で覆った。空いてる方の手で壁を探り伝って、トイレに駆け込んだ。
「…うえっ………げ……え…………!」
胃の中にあるものを全て吐き出しても、まだまだ吐き気は治まらない。胃液を吐き続けながら、さっきの藤尾の言葉を思い出した。
『可哀相で………!!』
―――――――止めてくれ、藤尾。お前に俺の――――俺達の、何が分かるって言うんだ?何でお前に――――何も知らないお前に、可哀相がられなきゃなんないんだ?―――――頼むよ。俺をこれ以上……………惨めに、させないでくれ…………。
「う……っ…、ふ……」
嗚咽が漏れた。泣いたりしたら、余計に惨めになるのに。
「……っ、う、うぅ―――………」
涙が止まらなかった。我慢しようとすればする程、後から後から溢れ出てきて。こんなに、辛かったんだ。ずっとずっと………。

 やっと涙が止まり、吐き気も治まって個室から出た。水で顔をばしゃばしゃと洗い、鏡を覗いた。………ひでえ顔。大泣きしてたのがすぐにバレる顔だ。でも、真夜中のこの時間なら、誰にも会わずに帰れるだろう。会うとすれば玄関にいる、守衛さんくらいだ。そそくさと玄関を出て、駐車場へ急いだ。胸に、ぽっかり穴があいたみたいな………虚ろな感じ。凄く疲れた。家に帰って、早く休もう………。
「琢ちゃん」
車に辿り着き、キーを取り出そうとポケットを探っていて、不意に背後から急に声をかけられた。驚いて振り返ると、顕ちゃんが立っていた。
「ほら、これ。琢ちゃんのでしょ?控え室に忘れてたよ」
微笑んで、財布を差し出した。
「打ち合わせ終わったら届けて上げようと思ってたんだけど、外出たらまだ車あったからさ。待ってたんだ」
とっくに先に帰った筈の俺が何でまだ局にいたか、この泣きはらした顔はどうしたのか、全く聞かないんだね。
俺は、無言で財布を受け取った。お礼の一言も言わなきゃならないのに、声が出せなかった。
「冷えてきたから風邪引かないようにね。……はい」
差し出されたのは、缶入りのホットココア。俺の右手を取って、手のひらにぽんと載せ、握らせた。
「あったかくして寝るんだよ?…おやすみ」
まるで、子供に言い含めるように。とても優しい声でそう言って、顕ちゃんは背を向けて歩き出した。
――――折角止まった涙が、また溢れ出した。顕ちゃんの手の温もりそのままの缶。どうしてだよ。どうしてこんな風にいつも、優しいんだよ。こんなんじゃ、もう一人で立っていられなくなるよ………。
「……って……、……待って!!」
少しずつ遠くなっていく顕ちゃんの背中に、俺は夢中で叫んでいた。顕ちゃんが立ち止まる。
「待ってよ………帰んないで……、ひとりになりたくないよぉっ………!!」
それは、言いたくてずっと言えなかった言葉だった。顕ちゃんが振り返る。凄く、驚いた顔してる。

『帰んなくていいの?』 『ちゃんと連絡したの?』

いつもいつも、後ろめたさがそう言わせていただけ。本当は……、顕ちゃんの帰る場所は自分のところであって欲しかった。
 浅ましい自分を顕ちゃんに晒してしまい、俺は下を向いたまま、顔を上げることが出来なかった。―――――顕ちゃんの足音が近づいてくる。
「―――――――………っ………」
俺の前で立ち止まった顕ちゃんに、凄い力で抱きすくめられた。
「ごめん……琢ちゃん……。ごめん………」
胸が苦しくなるくらい切なげな、顕ちゃんの声。―――――違うよ……違う……。謝って欲しい訳じゃないんだ。困らせたくなんかなかったのに。
「顕ちゃん……、ごめ………俺っ…我が儘ばっか……」
俺はしゃくり上げながら、精一杯言葉を絞り出した。背中に廻されていた顕ちゃんの腕に、更に力が込められた。
「言ってないよ……琢ちゃんは…今まで、一度だって……我が儘なんて…」
ふるふると頭を左右に振った俺をそっと解放し、顕ちゃんは俺の両頬を両手で優しく包み込んだ。顕ちゃんの目はとても優しくて、そしてどこか………悲しそうで。そっと唇が重ねられる。冷たくて柔らかい感触が伝わり、外だということも忘れて激しく貪り合った。ゆっくり唇が離され、そのまま顕ちゃんの肩口に顔を埋めた。
「…僕の車で帰ろう?」
顕ちゃんはそう言って、俺の手を引いて歩きだした。
 俺のアパートまで向かう途中、ハンドルを握る顕ちゃんも助手席に座っている俺も、一度も喋らなかった。ポケットの中のココアが、微かな温もりを伝えている。穏やかで、静かな時間が流れる。―――――けれど、こんな二人の時間は恐らく―――――この先、きっとそう長くは続かないのだろうと………俺は、なぜだか心の何処かで予感していた………。

 寝息が聞こえる。規則的で……穏やかな。俺はうつ伏せたまま上体を起こして、その寝顔を見つめた。スタンドの仄かな明かりに照らされて、彫りの深さが更に際だっている。起こさないようにそっと手を伸ばして、額にほつれかかる髪を梳いた。………綺麗だね、顕ちゃん。出来るなら、ずうっとこうして見ていたいよ………。また涙が流れだして、ぽたぽたと枕に染みをつくった。――――――ねえ、顕ちゃん。もし、俺が女だったら………。…………やめよう、考えても仕方のないことだ。でもね、顕ちゃん……きっと、負けないと思うんだ、誰にも。俺が顕ちゃんを好きだって気持ちだけは………。
 顕ちゃんの唇に微かに触れるようなキスをして、そっとベッドから下りた。裕次郎が足元に擦り寄ってきたので、抱き上げた。気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らして、頭を撫でてやっている手に、更にぐりぐりと擦り付けるようにして、甘えてくる。
「…裕次郎…、そういえば切らしてるんだったな…。お前の餌。……ダメな飼い主だなあ、俺…。自分のことばっかりで……。…待ってろな、今買ってきてやるから」
近くのコンビニに、いつもの餌が置いてあった筈だ。足元にだらしなく散らばった服を拾い上げ、身に付けた。もう一度顕ちゃんを振り返り、穏やかな寝顔を見つめ―――――玄関に向かう。裕次郎が後をついてきて、玄関でせわしなく鳴き始めて、ヒヤッとする。
「こら、顕ちゃん起きちゃうだろ?どうしたんだよ……すぐ帰ってくるから待ってろって」
近所迷惑にもなりかねない程の鳴きようで、うろたえてしまう。仕方なく、もう一度抱き上げてみると、急におとなしくなった。
「?どうしたんだよお前…。抱っこして欲しかっただけなのか?ん?」
また気持ち良さそうにゴロゴロ喉を鳴らし始めたので、裕次郎を床に下ろした。
「十分もかかんないうちに帰ってくるからさ。いい子にして待ってな」
寂しそうな顔に見えたけど、家を仕事で空けるときはいつものこと。さして気にも留めず外へ出た。まだ夜明け前の住宅街は、しんと静まり返っていた。
「さむっ…………」
吐く息が白くなる。買い物済まして早く戻ろう。俺はコンビニまでの道を急いだ。
 裕次郎の餌を買い込み、ついでに顕ちゃんと俺の煙草も買って、来た道を急いだ。途中、信号が一個だけあり、そこは昼間は交通量が多く自動的に切り替わるが、夜中から早朝にかけては押しボタン式になる。その時間帯は滅多に車は通らないので、ボタンも押さず赤でも小走りで渡る人が殆どだった。俺がそこにさしかかったときは誰もいなかったが、信号は青になっていて。恐らく誰かがボタンを押してはみたものの、待ちきれずに渡ってしまったのだろう。これもよくある話だった。――――――――――――そう。確かに信号は、青だった。いつもの道を、いつものように渡った。

 ――――――急に車のヘッドライトに照らされて、眩しくて目を細めた。事故に遭った人の話を聞くと、その瞬間はスローモーションだったってよく言うけど………本当だね。目に映る光景は、酷くゆっくり動いていくのに――――――俺は、避けることすら出来なかった………。
 ――――――裕次郎。お前、教えてくれてたんだな。行くなって、必死に………止めてくれてたんだ。ごめんな………気付いてやれなくて。
 人のざわめきと、サイレンの音が聞こえる。――――身体が、沈んでいくみたいだ。死ぬのかな………俺。
「琢ちゃん!!」
―――――聞き慣れた声。俺はうっすらと目を開けた。
「琢ちゃん!!しっかりして!!直ぐに救急車、来るから!」
「…顕…ちゃん……?何で……?」
眠ってたのに、何で俺がここに居るって………。
「裕次郎に起こされて…あんまり鳴いてドア引っ掻くから、まさかって思って……!!」
そぉかあ………。
「…顕ちゃん……、あいつに、エサ………」
「わかってねよ、心配しなくていいから、だから……!!」
…あーあ……。ぐしょぐしょじゃない……折角綺麗な顔なのに……。……泣いてくれるんだね……こんな俺の為に……。
「……顕ちゃん、俺ね……幸せだったよ?」
「琢ちゃん……!!」
目が霞んでいく。顕ちゃんの顔も………もう、よく見えないや………。
「顕ちゃんに遭えて、好きになれて………すっごく、幸せだったよ…………」
死ぬのって、もっと怖いことだと思ってた……。でも、今、すごく……穏やかだよ……。
「僕……、僕もだよ。琢ちゃんが一番好きだ、だから、何もしてやれないうちに死んだりするな………!!」
何、言ってんの………?もう充分だよ………泣かないでよ、顕ちゃん…………。
「…顕ちゃん………ありがとう………」

 やかな風が吹いていた。気持ちよくて、思いっきり伸びをする。
「音尾さんー、何してんですか、こんなとこでぇ……。探しましたよ?」
「外の空気が気持ちよくてさあ………あったかくなったよなー……」
「……悠長に日向ぼっこしてる場合じゃないですよ。音尾さんのシーン、もうすぐですよ」
「え?もう?」
「もう?って……皆探してますよ。早く来て下さいね」
馴染みのテレビ局の屋上。撮影の合間、日差しと風が気持ち良さそうで、ついふらふらと来てしまった。もう一回伸びをして、何かがふと頭の中を掠めた気がして、俺を呼びに来た後輩を呼び止めた。
「藤尾」
「…なんですか?」
「……あれ………?」
呼び止めたはいいが、その理由が何か、俺自身にも分かってなくて。いま、何か思い出しかけたような気がしたんだけどなあ………。
「……ごめん、何でもないや……」
「……じゃあ僕、先に行きますよ」
藤尾は呆れ顔で、屋上のドアノブに手をかけた。あれ?やっぱりこいつだ。こいつに、何か関係あったよなあ………。
「藤尾ぉ……」
「だから、何なんです?」
「………俺さあ………何か約束……してなかったっけ、お前と……」
「――――……」
「藤尾?」
「してませんよ!夢でも見たんと違いますか?ほら、早く行かないと!」
「あ、ああ」
藤尾の顔が一瞬曇ったように見えたのは、気のせいだろうか。促され、皆の居る現場へと戻った。
「なーにやってんのよ、音尾!」
「休み過ぎてボケちまってんじゃねえのかー?」
洋ちゃんとシゲに容赦なく突っ込みを入れられる。
「いいだけ心配させられたんだからな、キリキリ働けよ」
………社長まで。でも、そう言った皆の顔は笑ってる。
「洒落になってないですって、社長………」
モリが苦笑いしてる。
「ごめんごめん。沢山休んだ分、頑張るから。………安田君は?」
「仕事が押してて少し遅れるってさ。……何だよ、相変わらず顕ちゃん顕ちゃんかよ」
洋ちゃんにからかわれたが、今更それくらいじゃ負けない。
「そうだよー?俺、顕ちゃん大好きだもん」
ずけずけと言ってやった。
「言ってろよ、ばーか!」
笑いに包まれる現場。ここに戻ることが出来て、良かったと思う。奇跡だと言われた。俺自身何も覚えていないが、かなり酷い事故だったらしい。意識を取り戻したときには病院の集中治療室で、父さんと母さんと、顕ちゃんがいて。目を開けた俺を見て、母さんがボロボロ泣いてて。全身打撲と酷い出血で、手術後も何日も意識不明だったのだそうだ。だけど意識を取り戻して命に別状がなかったからといって、後遺症が残らないと言う保証は、どこにも無かった訳で………何らかの障害は残るだろうと、医者には言われていた。今のこの仕事には戻れないかもしれないと。俺もある程度の覚悟は決めていたが、リハビリできるくらいまで回復しはじめると、そのあとは元通りになるまで早かった。
 「安田さん入りまーす」
スタッフの言葉で、スタンバった顕ちゃんが現れた。
「すいません、遅くなりまして………」
腰を屈めながらスタジオに入ってきた。相変わらず腰が低いなあ、なんて見ていたら、こっちに気付いて、嬉しそうに笑った。
「どう?調子」
「うん………身体の方は絶好調。でもね………」
言い淀む俺を見て、顕ちゃんが一瞬、切なそうな顔をした。
「いいと思うよ、僕。思い出せなくても、生きていくのに何ら支障は無いでしょ?必要なら、いつか思い出すだろうし………焦んなくていいと思うけどな」
確かに、顕ちゃんの言う通りだとは思う。仕事のこと、生活のこと、全てちゃんと覚えている筈だし、支障はない。――――――ただ。主に顕ちゃんに関する、ここ数ヶ月の記憶だけが、すっぽりと…………抜けていた。事故の直前まで一緒にいたことすら、俺は覚えていなくて。人づてに聞いた話だと、事故に遭って救急車で搬送される間も、ずっと俺に付き添っててくれていたらしいのに、顕ちゃん本人にその話を聞いても、お茶を濁すばかりで。何かあるような気がして、気になって仕方無かった。かといって無理に思い出そうとすると、頭が痛みだしたりして。それに関する検査や治療も試みたことがあったが、結果には繋がらず、顕ちゃんの記憶だけが置いてけぼりのまま。ぽっかりと、穴が空いていた。
「琢ちゃん?どうしたの?」
「あ、いや……何でもない。そうだね。必要なら思い出すだろうし、思い出はこれからいくらでも増えてくし」
俺の言葉に、顕ちゃんは微笑んで………カメラの前に歩いて行った。リハが始まって、目の前のモニターに顕ちゃんが映し出される。
――――――何でだろうね、顕ちゃん。顕ちゃん見てると、無性に泣きたくなることがあるんだ。顕ちゃんは話してくれないけど、俺はきっと、大切なことを忘れてしまっているね………。顕ちゃんは知ってるんだろう?


 いつか思い出すだろうか。思い出したらどうなるだろうか。ちょっぴりもどかしいけど、顕ちゃんとこうしていられる今を、大切にしたいと思う………。  
End


   




<隠しページが解らなかった方は、此方 からどうぞ窓で開きます。>




テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル