COMPOSER 〜不滅の恋人〜


◇ 1 ◇


* あらすじ *


 懐かしい声がふと聞こえたような気がして、うっすらと目を開けた。
もう耳も目もまともに機能しておらず、幻聴だと解ってはいた。けれどそれが幻聴でも構わなかった。
やや暫くして今度ははっきりと誰かが囁く。
霞む視界の先に誰かの指先がぼんやりと浮かんでいる。
ゴツゴツとして無骨な、それでいて実にしなやかに動く長い指先。数々の名曲を魔法のように奏で続けていた偉大な音楽家の手が、目の前に差し出されていた。
もう指先ですら自分の力では殆ど動かせなくなっていた筈なのに、渾身の力を振り絞るとゆっくりと右手が持ち上がった。
そのまま差し出される手を掴もうと、空に向かって必死に手を伸ばす。
指先に彼の指が触れたその瞬間、全ての世界が真っ白にかき消えていった…………。




 フランツは今朝も通りの朝市で買った新鮮な果物やパンを両手で抱え、通い慣れた道を早足で歩いてる。
もう慣れたものだ。
石畳の町並みは朝の活気で満ち溢れ、そこ此処から焼きたてのパンやスープのいい匂いが漂ってくる。
嗅覚が敏感にそれらの芳しい香りを捉え、ただでさえ空腹な腹が更に刺激された。
歩く速度が上がり、今はもう殆ど小走り状態で先を急ぐ。
目指す家はもうすぐそこだった。

 家の入り口を軽くノックすると、口数の少ない年輩の小間使いがすぐに出てきて無言でフランツを中に通した。
ロビー奥の階段を早足で駆け上がるとすぐ手前の部屋の扉に手を掛ける。
「お早う御座います、先生。失礼致します。」
慇懃に一礼をしながら中へと入った。
室内には先程目が覚めたばかりらしい男が扉に背を向けながらぼんやりとベッドの上に座っていたが、返事は返ってこない。
フランツは慣れた様子で入り口近くのテーブルの上に荷物をどさりと置くと、つかつかと男の側に近寄る。
だが男はその気配に全く気付く様子がない。
フランツはベッドの周りを半周して男のそばに近付いて正面に回り込み、ゆっくりもう一度「お早う御座います」と語りかけた。
ようやく男はフランツに気付き、「ああ、お早う」とだけ答えた。
フランツは軽く笑いかけながら胸元のポケットに入っていたメモを取り出し、さらさらと何かを書き留めてから男の前に差し出した。
男は目でそれを追うと、その内容に返事をした。
「………今日は随分と調子がいいようだ。胃もそんなに辛くはない。」
そう言って弱々しく笑った。
「そうですか、では今からすぐに朝食を用意しますから待っていて下さいね。ベートーヴェン先生。」
フランツはくるりと背を向けて階下の厨房へと急いだ。
これがいつもの二人の朝だった。
もうこんな事を一ヶ月以上続けている。

 男の名はルイ。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。つい先頃、新作の交響曲第9番の演奏会を大成功させたばかりだった。
元々体調があまりすぐれず、また最近は色々な心労が重なったこともあって、演奏会終了後に彼は意識をなくしその場に崩れ落ちたのだった。
そしてそのまま自宅で静養を続けている。
このルイの世話を毎日欠かさず続けているのが、新進気鋭の若手作曲家であるフランツ・ペーター・シューベルト。彼は元々ルイの息子であるカールの友人だった。
カールがフランツの目の前で自殺を図ったことが縁で、二人は初めて言葉を交わした。
といっても耳の聞こえないルイとは主に筆談だったのが。
目も見えず意識も戻らずに何かを呟く息子の言葉を何とか聞き取りたくて、ルイは見舞いに来ていたフランツにカールの言葉を聞き取ってくれるように頼み、その結果として第九がこの世に生まれる事となった。
耳の聞こえぬルイが内なる中に響き始めた旋律をフランツに伝え、フランツはそれを一心不乱に楽譜へと起こし始めた。
意識が戻らずともメロディに乗せてならその耳に届くかもしれないと、歓喜の詩を今も無意識に呟くカールへの精一杯の愛情をこめてその詩に旋律を乗せたのだった。
 そのままフランツはルイに深く関わることとなり、演奏会では耳の聞こえないルイの代わりに客席の一番後ろからオーケストラの連中を引っ張って指揮を執り、意識を失って倒れ込んだルイの看病をずっと続けてきていたのだった。
 ルイが三日三晩懇々と眠り続ける中、フランツはずっと側に付き添っていた。
時折ルイと懇意にしていたサリエリが交代してくれることもあったが、仮眠もそこそこにずっと傍らで過ごしていた。
彼が何故これ程までに献身的にルイに尽くしているかといえば、ひとえに罪悪感からだったとしか言い様がない。
ルイがここまで体調を崩したりしたのは、いやもっと遡ればその耳が聞こえなくなったことですら、自らのせいだと思っていた。
自分に取り憑いた悪霊の思うままルイを憎み、妬み、心の底で彼の不幸を願っていたのだと…自分を責めていたのだ。
悪霊は囁いた。
『お前の心は素直だ。貴様の心の中はあいつの不幸を喜んでいる…』と。
そんな醜い心を認めたくなくて、けれどもどうしてもそれを認めざるを得なくて……その結果、自分に出来ることは彼と彼の息子に対して自分が出来ることは何でもしなければいけないという、責務にも似た感情が生まれていた。
―――このまま自らの生活を全てなげうってでも、ルイの傍らで影から彼を支えていこう。
青白い顔のまま眠り続けるルイの傍らで、彼は秘かにそう誓っていた。

 眠り続けていたルイが目を覚ましたのは演奏会が終わってから四日目の夕方だった。
その時フランツはベッドから少し離れた窓辺の椅子に腰をかけ、静かに譜面を見つめては奥底から溢れ出ようとしている旋律を譜面に書き留めているところだった。
ふと窓の外に目をやると、ウィーンの町並みが夕日に染まり始めていた。暮れていく石造りの街に目をやった後、再び譜面に視線を落とした時、視界の端で何かが蠢くのを感じた。
顔を上げ寝ている筈のルイに目をやると、丁度ベッドから起き上がろうとする所だった。
慌てて立ち上がり、ルイの元に駆け寄る。
手にしていた譜面がふわりと舞い上がり、音もなく床に落ちた。
夕日が射し込む部屋で、やつれたルイが上半身を起こそうとしていた。フランツはそれを手助けし、小さく「良かった…」とだけ呟いた。
ルイは不思議そうな面持ちでじっとフランツを見つめていた。

 あれから一ヶ月あまり。遠慮するルイを後目に、フランツは毎日自宅から通ってきては何くれとなくルイの世話をしていた。
そうしたいからするんです…と、はにかんだ笑顔で答えながら。
最初は戸惑いと遠慮からぎこちない雰囲気だったルイも、毎朝決まった時間に訪れては身の回りの世話をし、夜にはまた自宅へと戻っていくこの律儀な青年に心を許すようになっていた。
もっぱら会話は筆談とジェスチャーが多かったが、日常的な事や簡単な言葉はルイが口許を読みとることも出来るようになり、もどかしくはあるがそれなりに意志の疎通は出来るようになっていた。
 ようやく少し動けるようになったルイはフランツに伴われてカールが居るサリエリの家へと向かった。
まだ意識を取り戻していないカールをルイの家に連れ帰ることも出来ず、あの演奏会からずっとサリエリが付き添いながら看病を続けていた。
「ルーイ! 良かった、随分と顔色が良くなったではないか! いやぁ、本当に心配したぞ。」
二人を笑顔で出迎えてくれたサリエリは両手を広げてルイを抱き締めた。
「さあさあ、奥の部屋へ。カールが待っておったぞ!」
 フランツに肩を支えられながらカールの車椅子へと歩み寄ったルイは、人目も憚らずにカールを抱き締め、優しくその手を握り締めた。
決して憎くて辛く当たっていたのではない。
父として…肉親として、ルイはただカールを愛していただけだった。
ただ、愛し方を知らなかったのだ。
冷ややかな家庭で父に虐待されながらがんじがらめに縛られて育ってきたルイには、どうやって子供を育ててやればいいのか解らず……手探りのまま互いに父子は衝突してしまったのだった。
フランツは二人のそんな姿を初めて間近で見ることによって、それをはっきりと知った。
そしてまた対立したままの父と自分とを二人に重ねて見ていた。
父とて自分が憎くて音楽家になることを反対しているのではないことも、もう本当は解っている。
ただ、互いに意固地になりすぎていた。
すれ違ったままもう何年も会ってはいない父に近いうちに会いに行こうと、ルイの背中を見ながら決心するのだった。
「……父さん?」
フランツの耳に飛び込んできたその響きは本当に小さかった。
「カール!? ……もしかして……っ!?」
フランツが慌ててルイの前にメモを差し出し素早く何かを書き付けた。
その言葉を素早く目で追ったルイは、唇をわなわなと震わせながら語りかけた。
「………カー…ル…………解るのか……?…………………お前…父さんが………………解るか?」
ぎゅっと手を握り締めた手が弱々しく握り返された。
「うん………解るよ、父さん。……………父さんだよね…………この手は父さんの手だ。」
まだ痛々しく包帯が巻かれた顔が僅かに動き、頬の当たりにぱっと赤みがさした。
その言葉を素早く紙に書き取ってルイに渡しながら、フランツはサリエリの顔を見る。
「……サリエリ先生…………っ…………」
サリエリの表情には、してやったりと言った雰囲気が感じられた。
「昨夜だよ。カールが意識を取り戻したのは。」
口許には嬉しそうな笑みがこぼれていた。
「なっ………なんでもっと早く教えてくれないんですか先生!」
フランツが呆れたように声を荒げたが、当のサリエリは何処吹く風と言った感じでにこやかにそっぽを向く。
「いや、色々と大変だったのだよ。夜中に医者に来て貰ったりバタバタしておってな。それに夜中に君らを呼びつけたりして、かえってルイの具合が悪くなったら困るであろうが。」
そんな様子にフランツは小さく溜息を吐いた。
「まあまあ。どうせ君らが今日来るのは決まっておったことだし。どうせなら驚かした方が良いだろうと、ちょっとした茶目っ気なのだからそんなに怒るものではないぞ、フランツ。」
はっはっは…と楽しげな笑い声を上げてサリエリはルイの側に近付いた。
ルイはただ言葉もなく、カールを強く抱き締めていた。
「ちょっ…痛いってば! 父さん………」
腕の中でカールが苦しげに藻掻いている。
「これこれカール、我慢しなさい。ルイがお前の事をどれだけ心配し続けたと思っているんだ。子を愛しく思わない親など居ないのだぞ、カール。」
その言葉がフランツの胸にもじわりと突き刺さる。
「ましてやお前は父にどれだけの苦しみを与えたと思っているか解るかね? ……だから今は大人しくルイのしたいようにさせてやりなさい。」
サリエリの言葉に従い大人しく抱き締められていたカールは、自分を強く抱き締める父が小さく震えながら泣いているのに気付いた。
見えない暗闇の中に響いてくる父の嗚咽は本当に小さくて…弱々しく思えた。
どうして良いか解らず、込み上げてくる熱いものを必死で堪えながらカールもまたしゃくり上げ、小さな声で何度も「ごめん…」と呟いていた。
耳の聞こえぬ父にその声は届かずとも、気持ちは届いている信じながら。


 カールはそのままサリエリの元に預けられる事となった。
目が見えない息子と耳の聞こえない父では暮らしていきようがなかったのと、フランツの負担が大きくなるからとサリエリが押し切った。
それからはサリエリがカールを連れて散歩がてらにルイの元を訪ねてくる事が日課となった。
穏やかな日々だった。



 それからまた数ヶ月後、フランツが夜遅くに自宅のアパートへと戻ると、久し振りに部屋の中にはあの男が立っていた。
「よう、メガネ……久し振りだな。」
男は我が物顔でフランツの質素な部屋の中を歩き回ってはきちんと整理された譜面を手に取り、それを眺めては次々に床に投げ捨てていた所だった。
「何してんです、あなたは。勝手にひとの部屋を荒らさないで下さいよ!」
ぶつぶつと文句を言いながら床に散乱している譜面を拾い上げ、男を睨み付けた。
「…せーっかく久し振りに出てきてやったのに………随分な歓迎の仕方じゃないか、メガネ。」
「出てきてくれって頼んでませんよ。大体あなたはベートーヴェン先生に負けたんですから、もう僕達の前になんて出てこられないんじゃないですか? 何でまた………」
憎々しげに言いながら全てを拾い、テーブルの上にきちんと揃えて置いた。
「負けちゃあいないぞメガネ! 今の言葉は聞き捨てならんな。撤回しろ!」
もの凄い勢いで噛み付いてくる。
「……知りませんよ、勝手に怒ってればいいじゃないですか。ねぇ、モーツァルト先生。」
フランツはちらりと一瞥をくれてから着ていたフロックコートを脱ぎ、ハンガーに通して壁に掛けてから小さくのびをした。
「僕、もう寝たいんですよね、疲れてくたくたなんですから。早いとこ消えてくれませんか?」
そう言われたモーツァルトの目に鈍い光が輝いた。
「貴様最近……随分とあいつの側にいるようだなぁ、おい。」
にやりと口許が歪む。
「…………それで許されると思ってんのか? ん?」
首のタイを解いていたフランツだったが、にわかに表情を強張らせた。
目を合わさないように必死で顔を背け平静を装うが、タイを持つ指先が小刻みに震えている。
その様子を面白そうに見ていたモーツァルトの悪霊が、尚も言葉を続けた。
「貴様がしたことを忘れたのか? 心の底であいつらを妬んでいたのはどこのどいつだったっけ?」
悪霊の声が静かな部屋に高らかに響いた。
「妬ましかったんだよな? ……あの息子が。何も努力しなくても立派なピアノも練習する時間も高名な親も持っているあいつが。お前の努力も才能も認めてくれない父親と違って、サリエリの元に通わせる父親がいるあいつが!」
フランツは唇を噛み何も答えなかったが、悪霊は尚も続けた。
「あの父親もお前は恨んでいた筈だ! 貴様の曲をろくに見もせずけなすだけの、あの頑固で偏屈なガチガチ頭の作曲家を! お前はあの親子が不幸になればいいと望んでいた筈だ。あの息子の目が見えなくなってしまえばいいと……そしてあの男の耳なんて聞こえなくなってしまえばいいと!」
自らの言葉に興奮してどんどん音量が上がっていく悪霊の言葉に、フランツは思わず両手で耳を塞ぎ咄嗟に叫んでいた。
「違うッ! そんな事、ちっとも望んじゃいなかった! 僕は………僕はただ………………」
その先の言葉が続けられず、フランツは口ごもって床にしゃがみ込んだ。
「望まなかったとは……言わせないぞメガネ。あいつさえ居なくなれば貴様の前に出る音楽家などたかが知れている。貴様はそれを知っていた筈だ。ましてやあの男は貴様の母を殺したフランス軍の将、ナポレオンを崇拝する曲まで作っていた。貴様がそれを恨んでいた事も知っているぞ………」
いくら耳を塞いでも悪霊の言葉はダイレクトに頭の中に響いてくる。そしていつまでも消えずに脳内で渦巻いていた。
「………違う………………違う…っ……………もう止めてくれ………………お願いだから…………」
耳を塞いだまま床に突っ伏し、フランツは呻いた。
その様子を悪霊は満足げに高みから見下ろしている。
「忘れるな、メガネ。貴様がいくらあの親子に尽くそうと、貴様の罪など少しも贖えるわけがない。」
そう言い残して悪霊は静かに姿を消した。
後には幻聴のように耳の中に木霊する嘲笑だけが残っていた。


 翌日の朝、いつもならほぼ正確に訪ねてくるフランツが姿を見せないことに、ルイは不安を感じていた。
昼近くになっても現れないフランツを心配し、壁に掛けてあった外套を羽織ると久し振りに一人で街に出てみる。
ここ数ヶ月フランツが献身的に尽くしてくれたせいか随分と体調も良くなり、胃の痛みに悩まされる子とも殆ど無くなっていた。
 街には人や馬車が溢れ、さぞかし賑やかであろう事がうかがえる。
ルイは久し振りの雑踏の雰囲気を肌で感じながら、音のない町並みを急いで歩いた。
フランツの借りていたアパートはルイの家からさして遠くない場所にあったが、一度も訪ねたことのない場所を住所を頼りに、ましてや耳の聞こえないルイが探して歩くのには少々大変な作業だった。
ようやく見つけたアパートの一室は粗末な石造りの建物の3階にあった。狭い階段をゆっくり登り、表札替わりの名前を書いた小さなメモがピンで留められただけの質素な木の扉を軽くノックした。
幾度か叩いてみたが、中から人が出てくる気配は一向に感じられない。
出掛けているのかと思いながらノブに手を掛けると、ぎぃ…と軋んだ音をたてて扉がゆっくりと開いた。
建物自体も質素だったが室内はもっと質素だった。くすんだ色の漆喰に所々剥き出しの壁、粗末な木のテーブルと椅子が一組。奥にはこの殺風景すぎる部屋には少しばかり不釣り合いな小さなピアノが一台置かれ、その更に奥の窓際には今にも脚が折れてしまいそうな小さなベッドが一つ。
入り口から部屋をぐるりと見回すが、人の気配はしなかった。
テーブルの上には最近ルイの家で書き溜めては持ち帰っていたのであろ楽譜がきちんと揃えられた状態で置かれ、それ以外には壁に掛けられた昨日着ていたフロックコート。
コートが掛かっているということは外出していない…?
ルイは恐る恐るフランツの名を呼んだ。
「フランツ………居ないのか…………私だ。ルイだ…………」
ゆっくりと部屋を見回しながら奥へと進む。
窓から斜めに陽が射し込み、きちんと整えられたベッドの上のシーツを照らしていた。遠目に見ても寝乱れた様子はなく、きちんとベッドメイクされたままの状態で茜色に染まっている。
やはり出掛けているのだろうと諦めると共に、寝込んでいるのではなかった事に安堵しながら、何の気無しにふと視線を床に落とした。
陽が射し込んでいる場所とは対照的に薄暗い床の暗闇の中に、白いものがぼんやりと微かに光って見えた。そこは小さなピアノの奥とベッドの狭間に生まれた闇の中だった。
そっと近付いてみる。
白いものには見覚えのあるグリーンのタイが絡み付き、床にはらりと落ちて闇に熔けかかっている。
闇の中でうすぼんやりと光っていたものは………フランツの指先だった。
「フランツ!?」
直ぐさま駆け寄って床にしゃがみ込み、狭い隙間に倒れ込んで殆ど見えなくなっていたフランツの手を取る。
まだ温かい。脈も打っている。
ほっと胸を撫で下ろしながらその腕を掴み、ルイは久し振りに渾身の力を篭めてフランツを引っ張り出した。
「フランツ……フランツ! 大丈夫かッ!?」
慌てて抱き起こすと、フランツは微かに目を開け口をゆっくりと動かした。
その口許から「大丈夫です、先生」と読みとると、途端に鳥肌が立つような感覚に襲われた。
ちゃんと生きている。
そう感じた途端、ルイは例えようのない想いが自分の内を駆け抜けるのを感じた。
いつの間にかすっかりフランツは、自分にとってなくてはならないかけがいのない人間になっていることに気付き、かかえた身体を抱き締めた。
「良かった……………フランツ。本当に…………良かった。」
何かを言いかけようとしたフランツがまるで眠り込むかのように意識を失った。
ルイは何度かフランツを揺すったが目を開けようとはしない。
「フランツ!?」
ルイは半狂乱になりながらフランツを背負い、立ち上がった。
背中に感じる微かな体温を信じながら。


 「全く無茶をしおって、二人とも……」
サリエリが呆れた顔をしながらルイのベッドを覗き込んでいた。
ベッドには意識を取り戻したフランツがすまなさそうに寝ている。サリエリはそのままこんこんと説教を続けた。
「体調が悪いなら悪いで何故誰かに言わんのだ。倒れ込むまで我慢しおって! 医者も呆れておったわ。」
サリエリの後ろからスープを運んできたルイが顔を覗かせた。
「おおルイ、スープが出来たか。」
身体を起こしてスープを受け取ったフランツが、サリエリとルイの顔を交互に見ながらどうして良いか解らないといった表情をした。
「本当に……申し訳御座いませんでした。僕の不徳の致すところで………」
口ごもりながら頭を下げる。
「不徳とかそういうものではなかろう、フランツ。ルイがどれだけ心配したのか解っておるのかね? ルイときたら無我夢中で君を背中に背負って此処まで来たのだ。全く無茶をしおる。」
呆れた口調で言いながらもサリエリは少し嬉しそうだった。
「まあそれだけルイの体調が良くなったということだから、それはそれで良いのかもしれないがね。」
そのやりとりが聞こえないルイがサリエリに訪ねるとサリエリが慌ててメモに書き留め、目の前に差し出すとルイは朗らかに笑った。
「全くですよサリエリ先生。何から何までフランツのお陰ってやつですかね。ああ…すまなかった、フランツ。スープが冷めるから早く食べなさい。君ときたらあまりにも軽いものだから、背負うのも随分と楽だった。これからはもう少し食べて貰わないと、また倒れられても困る! ……なーんてな。」
安心したせいかやけに上機嫌なルイがフランツの頭を撫でた。
ルイの無骨な指がまるで幼い頃の父親を思いだして、フランツは胸に熱いものが込み上げてくるのを感じながらスープを啜った。
胸の奥底の罪悪感がまだちりちりと痛むのに、苦しいのはそれだけではないような気がしていた。


 フランツはルイのベッドに寝かされていたようだった。
それに気付いたフランツが慌てて飛び起きようとして、サリエリとルイの二人に制止され、仕方がなくそのままでいる。
「暫くここにいるといい。私と一緒でむさ苦しいかもしれんが、我慢してくれ。あっちの部屋にもベッドはあるか、あれはちょっと使わせるわけにはいかないのでな……」
サリエリが帰った後、ルイが少々意味ありげな笑顔でそう言った。
多分カールの部屋のことを言っているのだろう。例え友人であっても、カールの部屋を使わせるわけにはいかない…と、そう言いたいのだと感じ取り、フランツは小さく頷いた。
 部屋を照らしていたランプの明かりが落とされ、枕元の燭台のみになった。
暗がりでウトウトと眠りに落ちかけていた時、ごそごそとシーツが蠢く感覚に意識が呼び起こされてそちらに目めを向ける。
仄かな明かりの中でルイが潜り込んできているところだった。
「う…………わあああああああ………………」
――――てっきり簡易ベッドでも用意してそちらで寝るかカウチソファ辺りで寝るのだと思っていたルイが、まさか一緒のベッドで寝るつもりだったとは全く考えが及んでいなくてフランツは思わず大声を上げた。
……が、当然その叫び声はルイの耳に届く筈もなく、ルイはそのまま何食わぬ顔で微笑むとごろりと横になった。
元々広いベッドの端と端なので二人ぐらい容易に眠ることは出来るのだが、流石に想定外のことが起こると人間というのは混乱してしまうものである。フランツもまた混乱したままシーツを思いっきり引っ張って顔を隠した。
隠したところで元々暗がりの上、そろそろ蝋燭の明かりも尽きる頃だ。
ましてや隣りに居るルイがわざわざ顔を覗き込むわけもないのだが、とにかく気恥ずかしいのとベッドを奪ってしまった申し訳なさで、今にも逃げたくなるなるような気持ちで一杯だった。
そんなフランツの事情にはお構いなしのルイは、早くも隣で寝息を立て始めている。
シーツから目だけを出し、そっとそちらに顔を向けて様子を窺う。ゆらゆらと消えかかりの明かりの中にはルイの疲れたような顔がぼんやり照らし出されていた。
まさか自分のために部屋にまで来てくれるとは、思っていなかった。
しかもわざわざここまで背負ってきてくれたのも、信じられなかった。
ずっと長年の憧れだったベートーヴェン先生に、何とか近付きたかった。
例え息子を利用する形になったとしても。
自分の醜い陰鬱な心が呼び寄せた悪霊のせいで、ルイもカールの運命も大きく変わってしまった。
自分さえカールに近付かなければ、今の二人の苦悩は無かった筈なのに…………。
心の底から申し訳なくて、フランツは胸が焼け付くような痛みに襲われた。
もう今はここでのうのうとルイの側にいてはいけないのかもしれない。ましてやこんな形で迷惑までかけて良い筈がない。
夜が明ける前に此処を出ていこうと、そっと決心する。
暫くはルイやサリエリからも離れ、父親の望む教師にでもなってどこか遠い田舎町で細々と作曲でもしていくしかない。自分だけが音楽家としてやっていこうと思うのは、最早罪でしかない。
そこまで思い詰めていた。
小さい頃からの夢だった作曲家への夢を諦め、ひっそりと世間の片隅で生きていこう。
何度も何度もそう心の中で繰り返し、自分に言い聞かせようと試みる。
いつしかフランツは声を殺したまま嗚咽を漏らして泣いていた。
我慢しようと目を固く瞑るが、涙は止め処もなくその瞼からこぼれ落ちて枕に染みを作っていく。

 「どうした……眠れないのか?」
ふいに声をかけられて目を開ける。既に明かりも消え、窓から差し込む淡い月の光だけが室内を静かに照らしているだけで、当然ルイの顔も殆ど見えはしない。
「いえ…あの……」
慌てて否定しようとして言いかけたが、暗がりの中では唇の動きを読むことも出来はしない。フランツは咄嗟に軽く顔を横に振った。
「そうか………ならいい。」
静かな声が闇に響いた。不思議な程に心地良い響きだった。
一時は誤解で恨み蔑もうとした事もあったが、やはりずっと幼い頃から憧れ続けていた大作曲家をそうそう憎み続ける事など出来はしなかった。
ましてやここ数ヶ月ほぼ毎日通い詰めては世話をしてきた中で、堅物ではあるけれども実直で、何よりも音楽に対して真摯な姿勢と朴訥で少々荒っぽい性格も子供のような気性の激しさも、その全てにおいて愛すべき人物であると感じ始めていた。
ようやく本当の意味で、ベートーヴェンという人間に近付けたような気がしていた。
だがそれももう終わりだ。
自分は側にいて良い人間ではないのだと……思い知らされた。
彼らの側にいて手助けをするのが罪滅ぼしだなどとは実におこがましい思い上がりだった事に、気付いてしまった今では………。
 唇をきゅっと固く結び目を閉じる。
この闇が明けないうちにそっと出ていこう。
もうきっと二度と会うことも無いが、どこかの片田舎でルイとその息子の幸せを願っていよう。
自分の背後に潜む悪霊は大騒ぎするかもしれないが、もしかしたら見切りを付けて離れていくかもしれない。
いや、そうでないと困る。
彼が味わった絶望の続きを綴るメロディなど、自分に書けるはずもないのだから。
 眠らないようにそんなことを考えながら、今度は涙など流さぬように小さく深呼吸をして、感情の高ぶりをやり過ごしていたフランツの前髪が突然、くしゃ…と大きな手で触られた。
驚きのあまり再び目を開けたすぐ目の前に、ルイの顔があった。
「せん……せい…………」
ルイは困ったように笑っていたように、フランツには見えた。
「驚かしてすまん…………ただ、君が………………」
びくっと身体を強張らせると、ルイはゆっくりその続きを口にした。
「君が………どうも泣いているように見えたから………………」
そんなこと……と言いかけたが、再び大きな手で髪を優しく撫でられた。
「今は何も考えず…………ゆっくり寝なさい。何も考えなくて良いから。」
無骨だが優しい動きだった。
「君が何を悩んでいるのかは知らんが………あまり自分を責めるもんじゃない。」
ルイの響きはこの上なく優しくて、その言葉に我慢していた熱いものが喉まで込み上げてきた。そのままフランツは小さくしゃくり上げていた。
「………泣くなら思いっきり泣きなさい。我慢しなくて良い。」
堰を切ったように涙が溢れてきて、フランツは久し振りに子供のように泣いていた。
そんなフランツにルイは小さく「大丈夫だ…」と囁きながら、彼が眠りに落ちるまで何度も何度も頭を撫でていた。


 カーテンの隙間から差し込んでくる光が室内を淡い色に輝かせていた。
ゆっくりと目を開ける。
自分の顔のあまりにもすぐ近くにルイの寝顔があって、フランツは口から心臓が飛び出そうな程に驚き、慌てて身体を起こした。
その振動で目が覚めたのか、ルイがもそもそと起き出した。
「おはよう……昨夜はぐっすり眠れたかね…………」
寝惚け眼のままルイが笑い、頭をぼりぼりと掻いた。
「おは……おはよう………………………ござい…ます。」
どうして良いか解らずそれだけ呟くと、まるで魚のように口をぱくぱくさせながら呆然とするフランツ。
夜が明ける前に此処を抜け出す筈だったのに、気が付けばルイに慰められてぐっすり朝まで寝てしまったのである。
自分の迂闊さ加減を心底呪っていた。
「………おお、見事に腫れぼったい目をしてるな、君は。」
面白そうにフランツの顔を覗き込んできたルイが、昨夜のようにまたくしゃっと前髪を触ってきた。
指先の温もりが額に感じられる。
「腹が減ったろう。昨夜の残りのスープがあるから待っていなさい。今、温めなおしてこよう。」
それだけ言うとルイは反対側から床に下り、大きく伸びをしてからクローゼットの前に立つ。
手際よく着替えると、もう一度大きく伸びをしてから部屋を出ていった。
後に残されたフランツは未だに茫然自失状態だった。




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