◇ 2 ◇
結局フランツはそのままルイの元に通い続けることになった。
一つはルイの強い希望が有ったこと。
君が迷惑でなければ…とルイは笑った。但し身体に負担がかからない程度に一日数時間程度でも来てくれればそれで構わない。我が儘だが、今までずっと側で自分の耳の替わりをしてくれていたフランツとはある程度の唇の動きだけででも意思の疎通が図れるので、自分としては時間のあるときで構わないのでこれからもお願い出来ないか? と言った事を丁寧に申し込まれたため。
そしてもう一つは……フランツ自身がやはり側に居続けたいと望んでいたことであった。
我が儘なのは解っていた。
傲慢だとも思っていた。
いつかは全てを彼に打ち明け、全ての罪の許しを請わねばならない。だが今はまだルイから望まれている限り、側に居続けたいとそう願って止まない自分がいた。
だからこそ、何よりも強くなろうと誓った。
悪魔の戯言に耳を傾け惑わされることによって、更にルイに負担をかけるようなことが有っては決してならない。
…………強く、ただ強く有りたい。
今はただそう静かに思うフランツだった。
穏やかな日々が過ぎていった。
あの演奏会からもう半年が過ぎ、ルイの体調も随分と良くなっていた。
側にはいつも、影のようにぴったりと付き従うフランツが居り、二人は互いに触発されながら静かに作曲を続けていた。
フランツはルイのその斬新な発想力や確かな蓄積に裏付けされた音の魅力にますます魅了され、ルイはフランツの若く生き生きとした生命力溢れる伸びやかな音の数々に、驚きと共に惜しみない賞賛を与えた。
心配されていたカールも怪我の方はすっかり良くなり、今は室内であれば車椅子無しでも歩けるまでに快復していた。
だがやはり視力の方はまだ戻る気配が無く、相変わらずサリエリの家から診療に通う毎日だ。
そんなカールの負担にならないように配慮をしながら、ルイの方からもたまにフランツを伴って顔を見せるようにしていた。
そんな様子をサリエリはわが子達を見守るようにいつも笑顔で受け入れていたのだった。
そんなある夜のこと。フランツが帰り支度をしていた時の事だった。
すっかり日も落ち、外は木枯らしが吹き荒れていた。フランツはしっかりと冬物の外套を着込み、つい今し方まで書いていた楽譜を手に持ってルイの部屋を出ようとしたその時。
不意に耳元で誰かが囁くのを感じた。
背筋に嫌な冷たさが走り抜ける。
慌てて辺りを注意深く見回したが、それらしき人影は室内には見当たらない。部屋の奥ではルイがまだテーブルに向かって忙しなくペンを走らせているだけだ。
用心深くもう一度ゆっくりと見回してから、フランツはルイの傍に行き軽く会釈した。
ルイは落としていた視線を上げ、フランツの顔を見ると上機嫌な様子で微笑む。
そんな笑顔を見て少し安心したフランツだったが、ふと何かに気付いたように近くにあったメモにさらさらと何かを書き殴り、目の前に翳して見せた。
ルイは途端に子供のようなふくれっ面になったが、ちらりとフランツを見てから渋々といつた感じで頷いた。
メモには『また隠れてワインなど飲まないように』と書かれていた。
調子が良くなってきたルイは最近フランツが帰った後で酒を飲むようになっていた。元来酒が好きな上に、ワインにはめっぽう目がなかった。
そんなルイの行動を度々窘めるのだが、なかなかこれだけは改められないようで、朝になってフランツが訪ねると決まって部屋の隅にワインのボトルが転がっているのだった。
再び会釈をしてから足早にルイの家を後にする。今はただひたすら自分のアパートメントに辿り着くことだけ考えていた。
案の定部屋の扉を開けた途端、背後から今度ははっきりと声が響いた。
「………元気そうで何よりだな、メガネ。何してんだ、早く中に入れ。ここじゃあ寒くてかなわん。」
図々しくも尊大な態度で言い放った悪霊に急かされるまま、フランツは部屋に入った。
「相変わらずあのモジャモジャの側に居るとは……お見それした! いや〜…お前がそこまで図太い人間だとは思っても見なかったぞ! メガネ。」
フランツは静かに外套を脱いで椅子の背もたれに乱暴に掛ける。銀縁眼鏡の下の瞳は冷ややかにモーツァルトを見つめていた。
「お! なんだ? 無視か!? この私を無視するとは、貴様も随分と偉くなったご様子で。」
煽るような口調だが、フランツは小さく溜息を吐くだけで答えようとはしない。
「貴様がそのつもりなら私にも考えがあるぞ………いいのかな?」
にやりと口許を歪めた悪霊に、フランツはもう一度溜息を吐いてから重い口を開いた。
「………もう金輪際、僕や先生に関わらないでくれませんか。」
真っ直ぐに悪霊の目を見つめた。
「これはこれは――――――何を今更。」
青白い顔の奥の瞳が不気味な輝きを湛えてフランツを見据える。その口元は今もまだ薄い笑いを浮かべたまま歪んでいる。
「あなたが何を望もうとあなたの勝手です。ですが…………僕も先生も、ようやく落ち着ける時間と場所を見つけることが出来たんです。あなたの望むような絶望の旋律は、僕にも、そして先生にも到底継ぐことは出来ません。」
静かにそれだけを言うと、フランツは再び口を閉ざした。
モーツァルトは意味ありげな笑みをまだ貼り付けたまま暫くフランツを凝視していたが、やがて鼻でせせら笑う真似をした。
「ふん! 貴様、堂々と開き直りおって。」
その言葉にフランツはホッと安堵した。どうやら悪霊は自分に見切りを付けてくれそうだと胸を撫で下ろす。
だがやはりそうは上手くいく筈もなかった。
「メガネ。貴様…………………あいつがそんなに大事か?」
フランツの顔色がさっと変わるが、モーツァルトはお構いなしに続けた。
「前にも言っただろう、貴様の心などお見通しだと。」
入り口付近に立っていたモーツァルトが、立ち竦むフランツにはお構いなしとばかりに部屋の中を気ままに歩き回り始めた。
「貴様の心の中は今やあの耳の聞こえない男の事で一杯だ! そんなにあの惨めな音楽家の成れの果てに肩入れしたところでどうする? 最早あいつの時代は終わったではないか。奴など後は醜く朽ち果てて行くのみだ。」
大仰な身振り手振りを交えながら、悪霊はさも親切で言っているというポーズをとった。
「これからは貴様の時代だ! いつまでもあんな男にくっついていたって、貴様が目指す高みには到底近付けよう筈もない。貴様に必要なのは………誰だと思う? そう、この私だ。私の求める旋律を作るがいい。さすれば自ずと名声は付いてこよう! 貴様の望んだ大作曲家になれるのだぞ。」
自分で言った言葉に酔いしれるかのように悪霊は更に身振りを付けて雄弁に捲し立てていた。
「…………大体、許されるものではない。貴様の想いなど。」
立ち竦んだままのフランツの表情が更に固く強張るのをちらりと見ると、お得意の薄ら笑いを口許に浮かべる。
「言えるのか? 貴様は…………………どの面下げて。」
したり顔のモーツァルトがくるりとフランツを振り返り、一歩近付いた。それに怯えるようにフランツが一歩下がる。
「言ってやろうか? 貴様の心の中を洗いざらい全部、此処でぶちまけてやろうか? ん?」
じりじりと近付く悪霊から二歩、三歩と後ずさったフランツは入り口の扉まで追い詰められ、そのまま着の身着のままで木枯らし吹き荒れる夜の街へと飛び出していった。
まだ人通りや馬車なども少なくない町並みをあてもなく全力で駈け、気が付いて辺りを見回すと自分の部屋からは随分と離れていた。
幸いな事にすぐ目の前には以前良く通っていた馴染みの酒場があった。古い作りの建物の地下へと伸びる石段を冷えた身体を引きずるようにとぼとぼと降り、くすんだ色の木の扉を開ける。
中には見慣れた顔の友人が数人、安いワインのグラスを傾けながら陽気に談笑している最中だった。
「フランツじゃないか! 元気だったか!」
「随分と顔見せなかったなぁ。みんな心配してたんだぞ。」
口々に話しかけてくる。フランツは疲れた笑みを浮かべながら友人達の席に座った。
「最近ちっとも来ないから今もお前の話をしてたんだよ。聞いたぜ、お前あのベートーヴェンの所に通ってるんだって?」
屈託のない笑顔で一人に話しかけられ、フランツは顔を強張らせながら小さく頷いた。
「やっぱり本当だったんだ! へー……すごいじゃんお前。昔からずっと憧れてたんだろ? 確か。」
「あれ、でもベートーヴェンって女の弟子しか取らないって聞いたぞ………お前よく弟子にして貰えたなあ。」
矢継ぎ早に話しかけられ、少し困った顔をしながら頷いたり相づちをうっていた。
「……いや、本当は弟子とかそういうんじゃ……ないんだ。その…何て言うかただ先生の手伝いをさせて貰いながら、合間に曲を見て貰ったりしてるだけでさ………だからみんなが期待してるような凄い事じゃないんだ。」
はにかみながら答えると、友人達は更に口々に色々な事を聞いてくる。
フランツはそれらにまた小さく頷きながら、勧められるままにワインに口を付けた。
「でもあれだろ、あのベートーヴェンだろ。やっぱり大変じゃないのか? 噂だとさぁ、もの凄〜く頑固で、しかめっ面の扱いづらい男だって聞いたけど。」
「そうそう、第一耳が聞こえなくなっちゃったんだろ……それって音楽どころか会話一つするのですら大変そうだよなぁ。お前そんなんで平気なの?」
フランツがぴくっと顔を歪めた。
持っていたグラスに口を付けるとぐいっと飲み干し、友人達の顔を一人一人見た。
「…………頑固とか扱いづらいとか、そんな事無いよ。」
静かな口調で言いながらワインのボトルを手に取り、空になった自分のグラスに勢い良く注ぐ。
「先生はちょっと変わってるって思われてるけど……本当は凄く優しくて繊細な人だよ。それに凄く寂しがりやなんだ。」
安いワインで満たされたグラスを少し乱暴に持ち上げ、フランツは更に喉の奥へと一気に流し込んだ。
「大体耳が聞こえないからって……何だってんだ……………先生はそれでもまだ凄い曲を書いてる。」
グラスをどんっとテーブルの上に叩き付けた。
「おい…フランツ?」
ただならぬ様子に友の一人がフランツを覗き込んだ。色白の端正な顔はほんのり紅潮し、眼鏡の奥の切れ長の瞳はとろんとしていた。
「あーあ、なんて無茶な飲み方してんだよ……もうその辺でやめとけ、フランツ。」
慌ててグラスを取り上げた友人を、フランツはきっと強く睨み付けた。
「……俺は先生が……大事だよ。ああ、あいつの言うとおりさ! それの何が悪い! ……教えてくれよ。」
突然泣き叫ぶようにそんな言葉を吐いて、テーブルに突っ伏する。
周りの友人達は唖然としていた。
「……あいつって…………誰よ?」
「さあ………大体、何言ってんだ、こいつ?」
首をひねりつつフランツの肩を軽く叩くと、ゆっくり顔を上げた。幸い酔ってはいるものの、まだ酔い潰れる程ではないようだった。
「送るよ、フランツ。ほら、立ちな!」
一人がフランツに肩を貸し、ふらふらと酒場を出た。
「お前んちって……どっち?」
足元のおぼつかない酔っぱらいを抱えながら、言われるままに人気の無くなった通りを歩く。
「あー……えーと………そこ。そこ曲がってすぐの道を真っ直ぐ行ったとこの家。」
フランツが赤い顔をしてへらっと笑いながら指さしたのは、前に来たことがある建物とは全く違うしっかりとした作りの家だった。
「あれ……お前引っ越したの? こんな立派なアパートだったっけ…?」
恐る恐る真鍮制のノッカーを数回叩くとアパートの大家なのか年輩の男が寝間着のまま出てきて、無言のまま訝しげにじろじろと顔を見比べていた。
「あの……フランツ君の友人なんですが、彼の部屋は………」
そう言いかけると男は何も言わず扉を開ける。
通されたロビーを見渡しながらもう一度フランツの部屋の在処を尋ねるが、老人は何もも言わずに正面の階段をゆっくりと上がっていった。
腰が極限まで曲がっていて、辛そうな様子だ。
暫くするとバタバタと扉の開く音。そして階段からガウンを纏っただけの男が慌ただしく降りてきた。
「あの………フランツ君の部屋は…………」
友人の言葉を遮るように降りてきた男が叫んだ。
「フランツ!?」
血相を変えて近付いてきた男は友人の腕からするりと酔っぱらいを抱き取ってから、向き直った。
「彼が面倒かけてすまなかった。ここまで連れてきてくれて有り難う……」
友人が言いかけようとする言葉を尚も遮るように、男は言葉を続けた。
「申し訳ないが私は耳が不自由で、君の言葉が全く聞こえない。手間を掛けるとは思うがまた明日にでも訪ねてきてくれないだろうか? その時きちんと礼をしたいと思う。」
そう言って大きな手を差し出してきた。
咄嗟にこの人物がベートーヴェンだと悟った友人は飛び上がるほどに驚きながら握手だけをし、慌ててこの家を後にした。
再び人気のない寒空のウィーンに佇みながら、ひっそりと思う。
……確かにフランツの言うとおり………悪い人物じゃあなさそうだ。
不思議な気分に包まれながら、友人は夜の街を一人で歩き出した。
「フランツ…ほら、ちゃんと歩きなさい。もうすぐだから……ほら。」
肩を貸して歩こうとするがフランツは何やら聞いているのかいないのか、半分目を閉じた状態で歩く気など更々無いようだった。
ルイは仕方なくフランツを両手で抱え上げて一歩、一歩と慎重に階段を上がる。
全くなんでこんな深夜に……と、少々ぼやきながらも、子供のように抱き上げられている姿は普段の生真面目でしっかりしたフランツからは到底想像が出来なくて、自然に笑みがこぼれてくる。
そういえばカールも小さい頃はよくこうやって抱っこしてやったものだ…と、ふと療養中の息子の面影を追いながら、もう一度しっかり抱え直した。
「落ちると危ないから私にしっかりしがみついていなさい。」
耳元で囁くと白い指先がするっと首に巻き付いてきた。
「………本当に子供のようじゃないか………」
苦笑しながら階段を登り終え、寝室の扉を開ける。そのままよたよたとベッドに近付き、ゆっくりそっと抱え降ろした。
寝かせてみて初めて気付いたが、フランツは着の身着のままで外套も何も羽織ってはいなかった。
「どうりで氷のように冷えた身体をしていると思った。」
胸元を少し緩めようとタイに手を掛け、シャツの襟元をほんの少しはだけさせると下からは透き通るように白い肌が現れた。
咄嗟に何か禁じられたものを見てしまったような衝動に襲われる。
高鳴る鼓動をを感じながら、震える指で掛けていた眼鏡を外しサイドテーブルの上に置く。ことりと小さな音が静かな室内に響いた。
うっすらと赤く眼鏡の跡が残る白い鼻筋に、薔薇色に染まった頬。
乱れて額にかかる淡い金茶色の前髪を掻き上げると、綺麗な形の額も透き通るように白かった。
自分の中の何かが抑えられなくなりそうになり、ルイはそっと額に唇を押し当てていた。
途端にはっと我にかえり、慌てて顔を離す。
フランツはすっかり寝入ってしまったようで、ぴくりとも動かない。
気付かれなかったことに胸を撫で下ろしながらそっとシーツをかけ、自分もその隣りに潜り込む。
わざと背中を向けたまま目を瞑ったが、その夜はやや暫く寝付くことの出来ないルイだった。
「す……っ…………すみませんでしたあ…っ!」
フランツはひれ伏さんばかりの勢いで床に両手足をつけ、ルイの足元に居た。
ルイは穏やかな笑みを浮かべながらそんなフランツの腕を取りその場に立たせたが、フランツは俯いたまま顔を真っ赤にして再び謝罪の言葉を口にした。
辛うじてその唇の動きを読んだルイが、フランツの肩にぽん…と手をかけた。
「謝らなくて良い。少々驚きはしたが、大した迷惑などかけられていない。」
紅潮した顔のままフランツがルイの顔を見た。今にも泣き出しそうな情けない顔をしていた。
「まだ二日酔いなのだろ? 下の部屋で入浴でもするといい。特注のバスタブがある。」
夜中に酔っぱらって押しかけてきた上に、貴重なお湯を使っての入浴など……と、更に萎縮するフランツの手を強引に引っ張り、ルイは上機嫌で階段を降りた。
やや狭い感じのその部屋の中央に、鋳物で出来たバスタブが設えてあった。下には真鍮製の猫足が四つ付いているが、全体的にはシンプルな雰囲気だ。
ルイは予め小間使いの老人に湯を沸かすよう命じていたのか、すぐにでも入れる状態だ。
「……驚いたかね? 私もカールもサリエリ先生の影響ですっかりジャパンに影響されてしまったのは知っているね。どうやらジャパンではこまめに湯を浴びて身体を綺麗にするのが「粋」らしいと聞いてな……馴染みの職人に頼んで「風呂」と言うものを作らせてみたのだ。今では曲作りに煮詰まったりすると、頭を冷やすために水を被ったりしているがね。」
ご機嫌の様子で説明してくれるルイが子供のような笑みを浮かべるのを見て、恐縮し続けていたフランツの顔にもいつしか笑みが浮かんだ。
「ゆっくり入るといい。」
ルイは笑顔で部屋を出ていった。
じっくり湯に浸かって身体を清めたフランツがルイの元に戻ると、丁度昼食の容易が出来たところだった。
白身魚のソテーと野菜の付け合わせ、それにパンとスープがテーブルに並べられている。
食事を取り終わると、何事もなかったように二人はピアノの前に向き合ったりテーブルの上に楽譜を並べたりしながら、めいめい作曲に励んでいた。
いつしか日も落ちる頃、薄暗くなった部屋の中ではフランツの繊細な指先が滑らかな動きで鍵盤を叩いていた。
それを傍らで譜面に目を落としつつ見つめるルイ。
その眼光は鋭く、指先の動きと音符を交互に見比べる姿はやはり威厳有る作曲家のものだった。
最後まで弾き終えたフランツが額から溢れる汗を手の甲で拭いつつルイの顔を振り返る。ルイは口許をきゅっと固く結び、やや難しい顔をしていた。
「あまり……良くないでしょうか…?」
恐る恐るいったその言葉を読みとったルイが、やや暫く黙り込んでから口を開いた。
「君らしくない…………としか言えないな。」
明らかに意気消沈した表情のフランツに、先程の険しい表情を解いたルイが笑いかけた。
「今日はこのくらいにしよう。そろそろ腹も減ってきたところだ。」
食事が終わるとフランツの顔が益々暗い表情に満たされた。
いつもであればそろそろ帰る仕度をする時間帯だ。
のろのろと席を立ったフランツの肩を不意にルイが掴んだ。
「少し……話さないか? 君が良ければの話だが。」
小さく頷いたフランツの背にそっと手を沿え、ダイニングを出る。静かに階段を登り、寝室兼仕事部屋の扉を開けた。
散らばっていた譜面を片付けたテーブルの上に、ルイがボトルを置いた。高級そうなワインのボトルだった。
「何処に隠してたんです……こんな………第一先生は飲んじゃいけないっていつも言ってるでしょうが。」
呆れ顔で立っているフランツを手でチョイチョイと招き寄せ、嬉しそうに笑うルイ。
「君は今何か文句を言ったのかな? そんな長文じゃ意味は解らないなあ。」
口許ににやりと笑みを浮かべながら、さらに言葉を続けた。
「本当なら君に隠れて楽しもうと思っていた取って置きのトロッケンだ。」
子供のように笑いながら慣れた手つきで栓を開けると、キャビネットから出してきた二つのグラスに静かに赤い液体が注ぐ。深紅のルビーよりもなお赤い、輝かんばかりのワインだった。
それを手渡すてからルイはフランツの背を軽く押して傍のカウチに座るよう促した。
言われるままに渋々腰掛けると、すとんと左隣りにルイが腰を下ろす。
「さあ、ゆっくり飲みなさい………少しは気が楽になる筈だ。」
優しく囁かれてグラスに一口、口を付ける。
昨晩の安いワインとは雲泥の素晴らしい味と香りがふわりと口中に広がり、思わず感嘆の声が漏れた。
そんな様子を眺めながら満足げにルイもグラスを口に運んだ。
「前々から聞こうとは思っていた………君はいつも一体何を恐れている?」
ルイが静かな口調で切り出すとフランツはにわかに顔を俯かせ、グラスの中の赤い液体をじっと見つめる。
綺麗なクリスタルの中で深紅の液体が微かに波打っているのは、持つ手が小刻みに震えているせいだ。
「前に倒れたときも、何やら相当深刻な悩みを抱えているように見えたが……君は一向に話してくれようとはしない。」
ルイの静かすぎる言葉を聞きながら、フランツは極上の液体を一口含んでからソファの傍に有ったサイドテーブルの上に静かに置いた。
そして静かに深呼吸をする。重く澱んたまま溜め込んでいた事を全て、これから正確に伝えなければいけない重圧に胸が押し潰されそうになるのをそうやって必死に打ち払っていたのだった。
幾度か深呼吸を繰り返した後、ゆっくりといつも会話に使っている手帳を取り出し、躊躇いながら文字を綴った。
静かな室内に便先が滑る音と二人の呼吸の音だけが響く中、ペン先がぴたりと止まりメモがルイに渡された。
『僕はあなたの傍に居てはいけない人間だからです。』
その文字を直ぐさま目で追ったルイは呆気にとられた顔でフランツを見つめてから、小さく笑い出した。
「……何を言っている? フランツ。君が何故私の側にいてはいけないのか……その根拠は?」
フランツは力なく頭を数回横に振った。
「全く意味が解らない。何故だ…………何故自分をそんなに卑下する?」
流石に戸惑い始めたルイがフランツの肩をぐいっと掴み、俯いたままの顔を無理矢理自分の方に向けさせた。
まるで怯えた子供のような表情で、おどおどとルイの目を見つめる瞳。
それは今にも泣き出しそうな色合いを湛えていて、ルイの心に否応なく何らかの感情を与えないではいないような……そんな力強さとはかなさを併せ持っていた。
「先生………僕は罪を犯しています。貴方と……貴方の息子さんに対して。」
今度は唇を読み取る。途端にルイの顔色が変わった。
フランツは蒼白ながらも覚悟を決めた面持ちで全てのことを書き綴り続けた。
それらを全て目で追いながら、ルイの顔色がどんどん変わっていく。
ペン先はフランツのカールへの妬みを、そしてルイに貶されたたと思い込み憎しみを抱いた事、更には自分の背後に今も取り憑いているであろう悪霊とその野望を書き殴るように綴り続けた。
そして……その悪霊に手を貸したが故に起きた二つの悲劇に話が及び、フランツは時折唇を噛みしめていた。
ペンを握る指先は今にも血が滲みそうな程になり、時折文字が小刻みに震える。
ルイはただ黙ってそんなフランツを見続けながら、綴られていく文字をひたすら読み進めている。
いよいよ話が佳境に入り、フランツの指先はカールの自殺は自分がカールを追い詰めてしまった事が原因だったと明かした。行くあても帰る場所も無くし、絶望して自殺を図ったカールに対して『君が羨ましい…君のは甘えだ』などと追い打ちをかけ、引き金を引こうとするカールを止めることが出来なかった事。
ルイの耳にしても、悪霊に手を貸した末にルイの心を掻き乱し、絶望へと追いやってしまった事。
これらの事柄に関わり挙げ句の果てに二人を絶望のどん底に叩き落とした張本人が自分だと綴り、フランツはようやくペンを膝の上に置いた。その顔には最早何の表情もなく、血の気の失せた青白さが彼の端正な顔を作り物のように見せている。
書き綴られたこれらの言葉に全て目を通したルイは静かに立ち上がり、テーブルの上に無造作に置いてあったワインをひっ掴んでまた戻ってきた。
どさりと腰を下ろし、勢い良く自分のグラスに注ぐとまるでビールのように一気に呷った。
隣ではフランツが抜け殻のようにただ座っている。
もう全てが本当に終わったのだと、ぼんやり考えていた。
悲しみも今はもう麻痺していた。全ての感情がペン先から言葉になってこぼれ落ちてしまったかのように。
自分がしたことの責任をとらされて、此処で殺されるかもしれない。
……それならそれで別にいい。
そんな事を纏まりもなく、ただぼんやりと思う。
ルイはといえば無言のまま更にグラスにワインを注いでそれをまた呷る。だが流石に今度は一気に飲み干すことは出来なかったようだった。
耳が痛くなるような静けさの中、ルイが大きく息を吐く音が響いた。
「…………フランツ。」
息を吐いた後、ルイが呟く。フランツは途端にびくっと身体を震わせた。
「モーツァルト先生は今もまだ君の後ろに居るというのか?」
フランツは再びペンを握った。
『今は居ません……ですが、きっと何処からか見ていると思います。』
ルイはそれを見て小さく笑い出した。
「……絶望のメロディだと…………確かに魅力的な言葉だ。そして実に面白い。」
そう呟くとまるで気でも違ったのかと思わせるほどの大声で笑い始めた。フランツはそんなルイをぼんやりと眺めている。
突然耳をつんざくような高い音が足元から響いた。ガラスが割れる独特の金属音にも似た響き。
ルイが持っていたグラスを足元に叩き付けた音だったのだと、暫くしてから気が付く。クリスタルグラスは粉々になり、鋭利な破片がいくつも辺りに散乱していた。
また、中に入っていた赤い液体が床に放射状にぶちまけられている様は、さながら血のようだった。
割れたグラスの欠片で喉をかっ切られるのも悪くはない………そうすればこの深紅の神の血の象徴に、自分の汚れた赤い血が重なって、きっとさぞかし綺麗なんだろう……。
フランツは機械仕掛けの人形のようにそっと目を閉じた。
「………聞いているか悪霊! 貴様にフランツは渡さない! 今すぐここに姿を表せ! いや、すぐにでも何処かへ消えてしまえッ!」
ルイはいつの間にか立ち上がり大声で叫んだ。
「いいかフランツ、お前に罪はない! 悪いのはお前を巻き込んで掻き回したモーツァルトだ!」
のし掛かるようにフランツの両肩をがっしりと掴んだルイが、顔を覗き込むように尚もそう叫んでいた。
凄まじい力で握られた肩がギリギリと痛かった。だがその痛みに感情を呼び起こされるかのように、フランツの顔に色が戻ってゆく。
いつしか視界がうっすらと潤んで、何も見えなくなった。
ルイの指先には更に力が篭められていく。気が付けばルイは床に膝を付き、フランツを引き寄せて抱き締めていた。
きつく抱き締められた身体が………熱かった。
「――――ほう。この私を呼び捨てに出来るとは……偉くなったもんじゃねえか、モジャモジャ。」
不意に地の底から響いてくるような陰気な声が何処からともなく聞こえてくる。
途端にフランツの身体が強張り、ルイは慌てて辺りを見回したが彼には悪霊の姿は見えなかった。
「ここだ、貴様らの目の前にいるぞ。」
モーツァルトはいつの間にかカウチのすぐ傍に佇んで居る。それを見たフランツが小さく悲鳴をあげた。
「相変わらずモジャモジャには見えないようだな。だが、声はまだ聞こえるようだ。」
口の端を歪めるように笑いながら、フランツの顔を覗き込んできた。
「…………メガネ……………貴様、この私が怖いか。」
フランツは顔を引きつらせながら、ただ間近にある悪霊の顔を見つめた。
「私はいつまでも消えることはない。そして貴様から離れる事も無い。」
その言葉にルイが反応した。
「………離れる事は無いだと! 貴様、一体何故そうまでしてフランツに付きまとうのだ!」
何も見えぬ中空を睨み付けながら窓が震えるほどの大声で叫ぶが、当のモーツァルトは今度は少し離れた場所に立ち、その様子を面白そうに眺めていた。
「知れた事よ。メガネが私の姿形を知覚しうる絶対聴力の持ち主だからだ。貴様が為し得ることの出来なかった絶望の旋律を……メガネに引き継がせる事が我が望みにして最大の野望! 邪魔だては無用だ。」
ルイの顔が怒りのためか赤黒く変色していく。ついには手近に有った会話用の手帳を手に取り、見えない相手目がけて力一杯投げつけた。
「………馬鹿が。そんなとこに投げたところで当たるわけもない。まぁいい、今日は消えておいてやるが私はメガネが死ぬまでは離れることはない。それだけは……覚えておけ。」
右手をすっと胸の高さまで上げた悪霊モーツァルトは、不気味な笑みを浮かべたまま小さく手を振って消えていった。