Emerald Isle



◇ 1 ◇


 「ああ〜…今日もいい天気だわ…」
やり切れないと言った趣たっぷりに、シゲはそう呟いていた。
のっそりとベッドから起き上がり、カーテンを開けると素晴らしい日差しが室内に降り注ぐ。抜けるように真っ青な空にはとても正月とは思えない太陽がさんさんと輝き、気分的には初夏と言った感じだ。
日差しは確かに心地いい。寒さが苦手の冬嫌いな彼にとって、ここ、沖縄の地は天国とも思える陽気だ。
だから無理をしてでもと、必死で年末年始の仕事をしゃかりきにこなした。
南国リゾート気分が満喫出来る沖縄で、念願のダイバーライセンスを取得するべく三泊四日の日程を組み、楽しみにしていた筈の旅行だというのに…彼の顔にはありありと不満の色が浮かんでいる。
それもその筈だった。
ホテルの窓から蒼く輝く海を見つめては溜息を吐くシゲの右側顔面には、かなり大きなガーゼが当てられている。まるでもの凄い虫歯で顔が半分腫れてしまったかのような見てくれだが、別に虫歯ではない。
顔を二針程縫ったのだ。しかも数日前、年の初めの元旦にだ。


 2004年の元旦。この日は朝からテレビのロケで仕事だった。
大泉や女子アナの佐藤麻美と共にいつもの車に乗り込み、市内のコンビニで番組特製の福袋を売りさばくというもの。
この時まではもの凄く順調で、2004年も快調な滑り出しといったところだったのだが…その後が続かなかった。
夕方にロケを終えたシゲは、同じ市内にある実家へと新年の挨拶に顔を出すことにしていた。どうせ前日の大晦日も顔を出して親戚達と酒盛りをやったわけだし、わざわざ元旦だからと言って律儀に挨拶に行くことも無いかなぁ…などと思いつつも、本来の真面目な性格が彼をその日も実家へと向かわせていた。
で、結局数時間を実家で過ごし、明日からの沖縄旅行に備えてそろそろ引き上げようというその時。
運命の女神は彼を見放した。
いや、見放すどころか背後からそっと彼の背後に忍び寄り、思いっきり背中を蹴り飛ばしたらしい。
玄関を出て直ぐのたった3段の階段で、彼はこけた。それももの凄い勢いで思いっきり顔面からだった。
折しも冷え込みが厳しい夜。階段はツルツルに凍りつき摩擦が少なくなった状態で、シゲの足元を一瞬にして掬ったのだ。
あっと思う間もなく、シゲは一番下の階段に顔から落ちていた。
見送りに出た母親の証言ではそうだったらしいのだが、本人はその辺の記憶が一切無い。気が付いたら雪と氷の地面に転がっていた……それだけである。
しかも左脚のにもの凄い激痛が走っている。一人では到底起きあがれないような凄い痛みが襲いかかり、一瞬パニック状態になっていた。
背後にいた母親に抱え上げられるようにして立ち上がろうとして、下を見た瞬間………何やら赤いものが垂れていくのに気付いた。
白い雪の上に滴り落ちるもの。それは紛れもなく赤い血だ。
訳も分からないまま顔に手をやると、やけにぬるぬるする。そう言えば妙に顔が熱い。
はっと気付いて顔にやった手を見てみると、やはりそこにも大量の赤いもの。どこからどう見ても血だった。
背後では悲鳴ともつかぬ声が響き、慌てた家族が総出でシゲを囲んだ。
どうやら右頬を切ってしまったようで、そこから大量に血が流れてくる。それをタオルで押さえるが溢れてくる血はどうにも止まらない。
しかも転んだときに強打した左の膝がかなり痛み、動くに動けない。
結局元旦早々に救急センターに駆け込むという、とんでもない波乱の幕開けとなったのだった。
 傷は約1p程だったが、意外に深く切れていたらしく縫うことになった。
脚の方も酷い打撲だったが、シゲが思うよりは症状は軽いらしい。
だがその場で折角の『沖縄でダイビングライセンス取得バカンス』と言う彼の夢は脆くも潰えた。
念のため海に入れるかどうかを医者に聞いてみたが、ただ呆れた顔をされただけである。
やはりどう考えても顔面に傷を負い、打撲の脚を引きずって海に入れる訳などありえないと言うことだ。

 で、現在のこの状況に至る。
折角の南国の日差しも蒼い海も、体調が万全ならばどんなにか素晴らしいだろうが、今のシゲにとっては生き地獄そのもの。目の前にぶら下がった美味しそうな餌を食べられずに嘆くような、そんな気分でしかない。
右半分の顔面を覆うガーゼの為に日焼けも御法度、脚はなんとか引きずりながら歩ける程度で、どうやったってそんな状況では楽しい筈も無く。
ただ眺めのいい場所で朝から晩までオリオンビールを飲み、趣味のカメラでちょっと気になったものを撮影し、暇にかまけては事務所のウェブ日記に書き込みをするだけである。
これのどこがバカンスなんだと自問自答しては落ち込むだけだ。沖縄まで来てこんなにもダラダラと無意味な時間を過ごしているとは…と。
「……なんで俺、こんなことになっちゃってるんだろ……」
半泣きの表情で、シゲはどこまでも青く広がる空を見つめて嘆いていた。


 そんなこんなで本日は沖縄滞在三日目。
明日は漸く札幌に帰れるというものの、飛行機の時間は午後三時近く。一体それまでどうやって時間を潰せばよいのかと考えあぐねて、結局今日もまた佐加伊氏にお世話になることにする。
彼は番組の沖縄ロケで知り合った水中カメラマンで、今回の旅では随分と迷惑をかけてしまっている。
何せほぼ全ての時間をスキューバに当てようと目論んでいたシゲにとって、観光の予定など何も有るわけが無く、那覇空港に降り立ってからずっと彼の親切に甘え、お世話になりっぱなしなのだった。
 ここ三日というもの同じ日本国内とは思えない陽気の中を悶々としながら、観光らしきものをし続けているシゲにとって、彼の好意は非常に有り難くもあり辛くもある。
昨日は那覇から少し離れた場所にあるビーチに案内された。ほんの一時間程車を走らせただけで、その場所はまるで異国のような雰囲気を漂わせている。
だが白い砂浜も、波の音も、さんさんと降り注ぐ太陽光すらもただ今のシゲには恨めしいばかりで、ビールの缶を呷りながら抜け殻のように茫然と景色を眺めては、溜息をもらすばかり。
流石にその様子を哀れだと思った佐加伊氏が、更にシゲに対して気を遣うのも心底申し訳なくて…心が痛む。
やり切れない思いに苛まれて、穴があったら入りたいし逃げられるものならダッシュで逃げ出したい気分だった。

 今日は昨日よりも歩けるようになってきているので、ホテルにほど近い波の上宮という神社に連れてきて貰うことにした。
神宮だというのだが建物はやはり沖縄風で、見ていて非常に興味深い。
シゲは早速この建物を自前のカメラに収める。この際写真を撮りにここまで来たと思って腹をくくった方が、流石に自分の精神上良いと考えたからだ。
そうと決まれば彼方此方ひょこひょこと歩き回っては、面白そうな被写体を探す。
公園内で気持ち良さそうに日向ぼっこをしている沖縄の野良猫。
のんびりと時間を潰している浮浪者らしい老人。
どう考えても『これを撮るなら沖縄でなくては!』的な被写体ではないのだが、今のシゲには沖縄らしいなど既にどうでもいいらしい。
はなから当初の目的など達成されるわけもないのだから。

 気付けば昼を過ぎ、時刻は午後三時少し前。
ベンチに座って、トイレに行っているシゲを待っていた佐加伊氏の携帯にメールが入った。その内容を確認している最中、突然公衆トイレから罵声のような声が聞こえて、佐加伊氏は慌てて其方に向かった。
勿論それはシゲの声だ。
「どうしたの? 佐藤君…」
トイレの辺りから歩いてきたシゲの後ろには、ピッタリと見知らぬ男が張り付きながら何かを語りかけている。
「どうもこうもないッスよ!!」
怒っているのか半泣きなのかよく解らない表情を浮かべて、シゲが叫ぶ。
その間も背後の男はずっとシゲに何かを話しかけているのだが、シゲは全くの無視を決め込んでいた。
男はへらへらと笑いながら執拗につきまとい、土地の言葉でしきりに話しかけている。
――――どうやら、積極的なナンパをされているようだった。
「あら…こりゃあまた……」
氏はなんとも複雑そうな表情を浮かべながら、ベタベタとつきまとっている男に早口で話しかける。だがどちらの言葉もシゲにはまったく聞き取れない。
漸く男が離れると、佐加伊氏は『災難だったね』と言いながら困ったように笑った。
「もう俺……帰りたいっす………」
ぼそりと呟きガックリと肩を落とすシゲに対し、肩を叩いて宥めながらベンチに座らせた。
「まあまあそう落ち込むなって…きっともうすぐいいことがあるさぁ。」
「いいことなんて、今年に入ってからひとっっつも…無いんですが……」
虚ろな目をして眼下に広がるビーチを見下ろしていた。

 「あ…」
シゲの隣に腰掛けていた氏がポケットに突っ込んであった携帯を取り出し、顔の当たりにそれを持っていく。
「…お疲れー。ああ、うんそう。え? そうそう、そこ真っ直ぐで着くから…うんじゃあ宜しく。」
簡単な会話をして電話を切った。隣ではシゲがまだ溜息を吐きながら、それでも携帯を取り出してメールを打っていた。どうやらまたダイアリーに書き込みをしている最中らしい。
書き込みが終わるのを見計らって佐加伊氏は口を開いた。
「…あのさ、大変申し訳ないんだけど俺ちょっと用事が出来ちゃってさぁ………これから帰らなきゃいけなくてさ。」
そう言われたシゲの顔にぱっと驚きの表情が浮かぶ。迷惑をかけているのを心苦しく思ってはいたが、流石に一人にされると思っていなかったらしく、失意の色が見え隠れする。
「で……ね、代わりの人が来るから一旦ホテルに戻って待ち合わせって事でいいかな?」
代わりの人間と聞いてほっと安堵したような目をしながらも、シゲは言葉では『一人でも全然大丈夫ですから!』と断ろうとしていた。
「まあまあ畏まらないで。大丈夫大丈夫。さ、早く行かないと! 待ちぼうけ食わせちゃうとかえって相手に失礼だからさぁ。」
 結局彼の車に乗せられ、数分後には宿泊しているホテルの前に到着した。
そこでたった一人降ろされると、佐加伊氏は急ぎだとかで走り去ってしまう。何だかとり残されたようで、異様に心細い思いを抱えながらロビーに入った。
中には数人の利用客と思しき人間が立っているが、この中のどの人間が代理だというのか――――。
ぐるりと見回す。ロビーには女性が二人、男性が三人程。その中でやけに見覚えがあるような気がする男が一人。
「……………………………………………あれ?」
人間、予期せぬ事柄に出会うと言葉が出てこないことがある。
今のシゲもその状態。続きの言葉が思い浮かばない。
「…ぃよっ。」
右手を挙げてひらひらと降る。そしてスタスタと近寄ってくる背の高い男をシゲは確かに知っている。いや、良く知っている―――仕事も私生活も肉体的な事すら、ほぼ何も彼もを知り抜いているとしか言いようがない。
「お、茫然としてるなあ。悪いけど時間無いんだわ、しげ。お前早いとこ部屋行って荷物持ってこい。とっとと移動すっから。」
「…………………あ?」
「いいからホレ、ぼーっとするなって。」
矢継ぎ早に急かされ、慌てて部屋の鍵を受け取るとエレベーターに乗り込んだ。
「お前…何で………居るの?」
「んなもん後でゆっくり話してやっから。さっさと荷物まとめろや。」
部屋に入りバタバタと荷物を鞄に詰めると、急かされて部屋を出る。そしてまたロビーへ。
「あ、チェックアウトお願いしますー。」
「いやちょっとマジで? …お前そんな事したら俺、路頭に迷うべや!!」
フロントで目を白黒させているシゲを余所に、着々とチェックアウトは行われた。そして腕を引っ張られて無理矢理ホテルから連れ出され、停めてあった車の助手席に押し込まれた。
「…何? なんなのよ一体これは。ちょっ…説明してや大泉さん…」
車が走り出してから、シゲは半分呆れ顔で右隣に居る大泉に話しかけた。当の大泉は呑気に鼻歌などを歌いながら快調に車を運転している。
「ん? 説明って何が?」
「何がじゃないでしょ? なんでアンタがここに居んのよ、なまらびびったじゃーないのよ。」
「おお、びびってましたなあ佐藤さん。鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してまあ…滑稽だったわ、随分と。」
口許に楽しそうな笑みを浮かべて話をはぐらかす。
「おまっ…さっき後で説明するっつったべや。」
「まあまあ佐藤さんってば、せーっかく何日かぶりに顔見れたんやから、もう少し嬉しそうな顔して欲しいわーまったく。」
そう言われればそうだが、一体どんな顔をして良いか解らないのも事実だ。何だか照れ臭くて。
わざわざ会いに来てくれたというのは容易に察しがついた。正月はゆっくりと実家で寝正月すると宣言していた筈なのに、きっと不安になって来てくれたに違いないのだと。
「………心配してたの?」
横目でちらりと見遣る。ハンドルを握っている大泉は顔色を変えずにふんふんと鼻歌を歌っていたが、暫く間を空けてから口を開いた。
「なーまら、な。」
ああやっぱり…と、思う。普段は散々本気とも冗談ともつかないくらいにしつこく苛めてくるのに、その実結構繊細で、もの凄く心配する質なのは良く知っている。基本的には優しい性格だと言うことも。
そのまま車内を沈黙が支配していたが、ふいに大泉が声をかけた。
「もうすぐ着くぞー。意外と那覇市内から近いんだよな、ここ。」
そう言われて窓の外を見てみると街中を抜け、海が広がっていた。
「あー良かったわ、まだ日が沈まなくて。焦っちまったからなー、流石に。」
そう言いながら車は海辺の公園を通りすぎて直ぐのホテルへと直行した。そこはビーチ沿いに建つかなり立派なリゾートホテルだ。
「お前もしかして…ここ予約したの?」
「昨日ね。いやもう慌てたわ! 何せこのシーズンだから空きがあるか冷や冷やもんやったけど、なんとかバッチリ取りましたですよー。いやー、さっすが洋ちゃん!!」
ふふんと自慢げに笑い、ちらりとシゲを見てくる。
「さあ到着しましたぞよ、姫。」



 辺りは夕暮れ一歩手前の何とも言えない雰囲気が漂い、異国ムードが漂っていた。
大泉はチェックインを済ますと直ぐにシゲを連れてビーチに向かった。ホテルの敷地内からすぐにビーチへと降りることが出来るようになっている。
正直、入れもしない海など辟易としていたシゲだったが、大泉がもの凄く嬉しそうなので文句を言うのは止めた。
何せせっかく自分のためにここまで来てくれたのだから。その気持ちを無碍にすることもない。
「トロピカルビーチって言うだけあるなあ、しげ。全く日本じゃないねえ、ここは。」
「確かになー…、しかも正月って感じでもねえし。」
そう言って改めて海を見つめる。日差しにキラキラと反射する淡いエメラルド色が本当に綺麗だった。
二人して白い砂浜に寄り添って座った。
端から見たらバリバリにホモのカップルって感じだろうが、ここではもうあまり気にしない事にする。自分達の事など誰も知らない人間達にどう思われようと、人目を気にせずに寄り添っていられる機会など滅多にないのだから。
 「ごめんなー…大泉。心配かけて。」
シゲがぽつりと言いながら、そっと大泉の肩に頭をくっつけた。自分でも随分と大胆だな…なんて思いながら。
「おお、ビックリしたわマジで。」
そう言ってそっとシゲの肩に手を伸ばした。
「いや俺さー、二日の夜に何気なーくCUEダイアリー覗いたっけお前の書き込み見てびびっちゃってさー、もうマジで慌てたわ。しかもメールしたらもう沖縄に着いてるって返ってくるし。」
「だって…旅行キャンセルするわけにいかないでしょ。金も勿体ないし。」
「だからってお前、無謀過ぎじゃボケ。随分と心配かけさせやがってまぁ…」
肩に置かれた手にきゅっと力が籠もるのを感じて、流石の意地っ張りなシゲも胸が熱くなった。
「ちょい…傷…見してみ。」
大きな目玉でまじまじと顔を覗き込まれる。
「う〜わー、でっかいガーゼ…」
「今はね。でもあと何日かしたら大きめの絆創膏で済むらしいから平気だよ、洋〜ちゃん。んな、心配しなくてもいいからさ…その……」
「あら…珍しくしおらしいじゃないの、佐藤さん。」
にんまり微笑み、頭を撫でてくる。
「ばっ…か………いくらここが北海道じゃないからって、あんまりベタベタすんなや。」
途端に顔を真っ赤にして見上げる瞳はほんのり潤んでいて、可愛らしい。とてもプレイボーイで名を馳せている男には思えない対応だ。
「お前は気にするかもしらんけど、俺は全〜然平気。だからいいべや、これくらい。」
そう言って左頬に軽く口付けをする。ぱっと顔を赤らめたシゲを見ながら大泉はまた頭を撫でた。
「なーしげ…折角だから足首だけでも海に浸けてこようや!」
言うが早いかシゲの腕を引っ張って立ち上がらせ、左脚を引きずるシゲを気遣いながらゆっくり波打ち際に歩いてゆく。
「…やめようって大泉ぃ。んな…足だけ入ったって面白くも何ともねーって。」
ブツブツ言うシゲの足元にしゃがんで大泉は丁寧にシゲの靴を脱がせ、カーゴパンツの裾を捲ってやった。そして自分も靴を脱いでジーンズの裾をクルクルと捲り上げ、すっと立ち上がる。
「いーからいーから。せっかく海に来て眺めるだけっつーのも淋しいって。ほら遊ぶべ!」
右手を差し出し、シゲの手を取った。ぎゅっと指を絡ませてしっかり握り締めたらゆっくり水の中に踏み込んだ。
「おお…水があったかいわ!! すげえ!!」
「そりゃあそうでしょうよ…ここ、沖縄よ…アンタ。」
半分呆れながら笑うシゲ。そんな姿を見ていたら大泉も少し胸が熱くなった。
 実は二日の夜に、大泉は慌てて沖縄行きのチケットその他諸々を手配し始めた。怪我をしたまま一人で旅立ってしまったシゲが心配で心配で、居てもたっても居られなくなったのだ。
だが流石に翌日の航空チケットもホテルの空き室も取れずに苛々は募るばかりだった。シゲにメールをしても電話をしても簡単な返事しか返ってこず、詳細はちっとも解らない。ただ『心配ないから大丈夫!』の一点張りで。
そんなとき、シゲが元旦に言っていた言葉をふと思い出した。『あっちに言ってる間は佐加伊さんにコーディネートして貰う』と…。
慌ててそちらに電話をしてみると、シゲは大丈夫どころか相当な落ち込みようだと言う。こりゃやはり行かなければと、必死でツテを頼り何とか今日の千歳発直行便のチケットを手に入れることが出来たのだった。勿論、ホテルも那覇から近いこのビーチのリゾートホテル、しかも結構良い部屋を押さえることが出来た。
普段ケチだの金の亡者だのと散々言われているが、金はこういうときにこそ使うものだと実感する大泉だ。

 透き通る水と白い砂が足元で煌めいていた。
ゆっくりと沈み始めた太陽は辺りを穏やかな茜色に染め始めている。ほんの少し前まで日の光で燦々と輝いていた辺りの空気は、緩やかに夕暮れの色を湛え始めていた。
そんな夕暮れの海も益々美しくて、大泉は思わずシゲを抱き寄せた。
足元にまとわりつく小さな熱帯魚を見て楽しんでいたシゲが何事かと顔を上げたが、そのまま引き寄せられて大泉の腕の中にすっぽりと収まる。
「……あらちょっと…大胆過ぎじゃない? 大泉。」
「いいから…」
うち寄せる波の音にかき消されそうな小さな囁きと共に、大泉の唇がシゲの唇を塞いだ。そしてやや暫く重なり合う。
息苦しさに藻掻き始めたシゲをそれでも話さず何度も唇を舐りながら、大泉はつい癖で腰に廻していた手を更に下まで移動させ、撫で回していた。
流石にそれは抵抗があったのかシゲは慌てて身を捩るが、左脚にあまり力が入らずに砂に足を取られ…思わずよろめく。
「…あっぶね………ッ………!」
大泉も慌ててシゲを支えようと手を出したが、時既に遅し。完全にバランスを崩したシゲがどさりと大泉に向かって倒れ込み、それにつられて大泉もよろめいた。
気が付けば二人とも浅瀬の水の中に座り込んでいる。
顔の傷を濡らすまいと必死でシゲの上半身を抱え込み、大泉は暫く茫然としていた。
「……あーあ、やっちまったよ。何してくれんのよお前。」
「どっちがよバーカ! こういうこと、マジでやめてくれる? 大泉。」
腰まで水に浸らせて、二人で顔を見合わし暫くにらみ合った後、お決まりのようにふざけて首を絞め合う。水の中で暴れながらじゃれ合い、結局大笑いの末にまた抱き締め合っていた。
「やめろ馬鹿泉! 顔の傷開いちゃうって!」
「平気だーそのくらい。死にゃあしねえっつの。」
「そんなこと言ってさ、俺の顔に傷が残ってもいいのかい? 大泉さんってば。」
意味ありげな目線を送り、シゲは含み笑いをする。その視線に大泉もにやりと笑った。
「いいよー俺は別に。お前のタレント生命が断たれたって全〜然、関係ないもん。」
「…何よソレ。腹立つ言い方しやがって。」
口を尖らせてむくれたシゲの唇にそっと人差し指が当てられた。
「…………………責任取って嫁に貰っちゃうもん。」
シゲはその言葉にまたかあっと顔を赤らめる。
「ふ…っざけんな! ………誰がヨメよ、この阿呆が!!」
叫くシゲを軽々と抱え上げ、びしょ濡れの身体を乾かすべく大泉はデッキチェアに向かって歩きだしていた。



 もと来た道を戻りホテルの敷地内に入るとすぐ、屋外プールやサイドガーデンがある。そこを通り抜けると吹き抜けのアトリウムガーデンが広がっていた。キャンドルの灯りがロマンチックなムードを湛えている。
ホテルはどこを見渡してもリゾート気分が満喫出来るよう仕立てられていて、ふさぎがちだったシゲも目を輝かして雰囲気を楽しんでいた。
 夕食にと琉球料理と和懐石に舌鼓を打った二人は、ラウンジで食後のティータイムと洒落込みライトアップされた庭を眺めていた。
「ねえ大泉…」
シゲがふと飲んでいたコーヒーカップから口を離し、話しかけた。
「……ありがとね。」
「な…何よいきなり。気持ち悪いわお前。」
突然真面目な顔をして言われたので、流石の大泉も少しばかり照れてしまう。
「散々心配かけちゃった上に、こんなに気を遣って貰っちゃってさ…なんかすっげー申し訳ないっつーか……」
そこまで言って、後はふいっと顔を庭の方に向けた。
「あらっ…そんな事言って貰えると俺も頑張った甲斐あったわー。ま、可愛い可愛いしげちゃんの為なら、優し〜い洋ちゃんは何だってしてあげますわよ。」
「……うん、ホント。優しいよね…あんた。」
照れ臭いせいかいつものようにおちゃらけてお茶を濁そうとしているのに、シゲからはまたもや予想外の言葉が返ってきて、大泉は流石に真面目な顔になった。
「ば……ばか…お前、真面目にそんなこと言うなって……」
柄にも無くどぎまぎしている大泉をちらっと見て、また視線を逸らすシゲ。お互いに照れて顔を合わせようとしない。
そのまま、シゲは言葉を続けた。
「本当はさ――――俺、なまら淋しかったんだ。最初はライセンス取るので忙しいから淋しいなんて思ってる暇なんか絶対無いと思ってて、余裕ぶっかましてたけど……いざこっちに来たら何〜にもすること無い訳でしょ。でさ、ずっと傍に大泉が居てくれたらなぁって…思ってた。」
「…それ言うなら俺だって………どんーーーーーーーーーっっっっだけ! 後悔したと思ってんのよ。無理してでもお前の休みに合わせて一緒に来てれば良かったって…ずっと悔やみっぱなしだったんだからな。お前ときたら『全然平気だから心配すんな!』だの『結構楽しんでる』だの嘘ばっか言いやがって。」
そっぽを向いていたシゲの顎を大きな手で掴み、大泉は自分の方に向けさせる。だがシゲの目線はテーブルの上に落ちたままで、目を合わせようとしない。
「何で…解っちゃうのかな、大泉には………。俺ってばなーまら平気な演技してたのに。」
視線はテーブルの上に落ちたままだ。
「――――――何年お前見続けてると思ってんだ、解らない訳ねーっちゅの!」
視線がそうっと上がり、大泉の目に向けられた。
「うん、だから嬉しかったんだ。ありがとね、大泉。」
照れ臭そうに目を細めたシゲの笑顔は、散々心配かけさせられたことも全て帳消しになるほどの価値を持っていた………。


 大泉が必死で押さえた部屋はコーナースイートと呼ばれる角部屋で、テラスが二カ所についているなかなかのものだった。室内もゆったりと広く作られており、コーナーというだけあって部屋の形も扇形に近い。
部屋に戻ると、豪華な室内にはしゃいでいるシゲを余所に大泉は浴室へと向かった。
「おお! ここ、風呂?」
暫くしてからそれに気付き、ひょいっと脱衣所を覗き込んできたシゲの顔にもうもうと湯気がまとわりつく。隣の浴室ではバスタブにもの凄い勢いでお湯が張られていた。
「あー、俺…風呂はさぁ………」
すまなそうに口ごもるシゲをちらっと見てから、大泉は何事もなかったように作業を続けている。お得意の鼻歌を楽しげに歌いながら。
お湯が溜まったところで大泉が振り返った。
「しげ、お前頭とかどうしてんの?」
「どうしてんのって…洗面所で片手でシャワー使ってますけど。」
「あっそ。」
素っ気なくそれだけを言うと浴室から出てきて、シゲの目の前でさっさと服を脱ぎだした。
「何やってんのよお前、早く脱げって。」
もたもたすんなといった表情で見てくる。仕方なくシャツに手をかけながらシゲは呟いた。
「あのねー、大泉さん。悪いけど今日は…なんにも出来ないよ。」
「出来ねえって何がよ。いいから早く脱げ。」
「……はいはい、わーかりましたよー。」
急かされるまま仕方がなくシャツに手をかけ、右頬に気を遣いながらそっと脱ぐと次にズボンに手を掛けた。
「…………あらあ。こっちにも随〜分とでっかいのが………」
大泉が面白そうにしげしげと眺めているのは左の膝小僧に張られている湿布だ。打撲で内出血が酷いために病院から処方されたものである。
「おう、見てみろやこれ。」
べりべりとそれを剥がすと、なんとも形容のし難い痣が姿を現していた。どす黒いもの、赤紫なもの、青紫なもの。全ての色が微妙に混じり合った複合体の痣。
「すーげえなあ、この色。しかもなーまら腫れちゃってる!」
「うん腫れてるよ。だからあんまし曲がんないし痛くてねえ、これ。もう最悪よ。ま、こんなんでも大分腫れは引いた方なんだけどね。」
他人事みたいにあっさり言いのけて、シゲは笑っている。
「ああ〜、そうかそうか。んじゃもうチョイぬるくすっか。」
そう言って浴室に入りバスタブに水を足して調節した後脱衣所に戻り、シゲにホテルのタオルを二つ重ねて渡した。
「ほいこれ。顔に当ててれ。」
言われた通りそれを顔に宛い、右手でタオルを押さえて浴室にそっと入る。
「そこ座れや。」
促されるまま、洗い場に座る。一体何を企んでいるのかとおっかなびっくりのシゲとは正反対に、大泉は余裕綽々で手桶に湯を組んだ。
そして静かに肩から流し始めた。絶対に顔に飛沫がかからないよう、細心の注意を払ってくれているようだ。
「え!? なになになに? 何これ…どうしたの大泉さん!!」
「いいから大人しくしてれって。顔濡らしたら困んのはお前だろ?」
丁寧にかけ湯してから、備え付けのボディソープで全身を隈無く洗ってくれている。勿論いつもの下心付きのいやらしいねっとりとした洗い方ではなく、あくまでも事務的に淡々とだ。
予想していた自体とは全く正反対だった為、シゲは言葉もなくただ茫然としていたが、これも大泉の優しさなのだとやや暫くしてから気付く。
元旦の夜から満足にゆっくりと風呂にも入れず、顔の傷を気にしながら身体や髪の毛を洗ったりするのはとても疲れることだった。一日二日なら風呂くらい我慢も出来ようが、暑いくらいのこの島の陽気の中でそれをやるわけにもいかず、シゲは必死の思いで毎日シャワーを使っていたのだ。
恐らくはそれを慮っての行動だろう。それにしても一言くらい言ってくれても良さそうなものなのだが、そこは大泉のこと。何を考えているか読めない突飛な行動は今に始まったことではないし。
 「うーん…何だか俺、王様になった気分かも。これ爺、もそっと丁寧に洗え!」
折角の大泉の好意、大いに甘えさせて貰おうと腹をくくり、シゲはわざと偉そうな態度をしてみる。
「調子に乗んなバーカ。」
そう言って笑いながらも随分と丁寧に隅々まで手を伸ばし、ピカピカに洗い上げてくれる。これは怪我が治ったら同じ事してやらないといけないなーなんてぼんやりとシゲが思っていたその時、大泉の指先が敏感な部分に滑り込んできた。
「いや…あの……っ…………あのさ、そこは…………いいわ。自分でやるから………」
逃げようと身体を後ろにずらしたが、呆気なく捕まってそこも懇切丁寧に洗ってくれる。
いくら事務的に淡々とやられようが、その部分の刺激だけは敏感に受け止めてしまうわけで――――泡の中でシゲの分身は徐々に硬くなってきていた。
「………おお、元気があって結構結構。あとでゆーっくりと可愛がってあげるからね〜………」
意味深な笑みを浮かべながら大泉はテキパキとこなし、泡まみれになった白い身体を再びお湯で洗い流した。
「よっしゃ終了! んじゃ次、頭な。」
苦しいくらい前屈みにさせられ、髪の毛にも慎重にお湯が掛けられた。そうして大泉はシゲの髪の毛を綺麗に洗い上げると、髪の毛から雫が垂れないようにバスタオルで水分をよく拭き取ってから、身体をふわりと抱え上げていた。
リゾートホテルだけあって大きめのバスタブは辛うじて男二人が入ることが出来る大きさだ。
シゲを抱えて湯船に脚を踏み入れると、ゆっくり膝の上に乗せて湯に浸かる。
「左脚、ちゃんとお湯に浸けないようにしとけ。」
膝の上に乗せられたまま、身体をピッタリと密着させる。
言葉はお互い殆ど無かった。何も言わなくても二人とも構わなかった。
シゲは大泉の優しさが身に染みて嬉しかったし、大泉は傷だらけのシゲに何かしら出来る事をしてやりたかったのだから。
ゆったりとした空気が辺りを支配しているのは、南の島特有の魔法なのかもしれなかった。







     




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