emerge
〜 その先に輝くもの 〜
◇ 1 ◇
闇の中、ほのかに灯るダウンライトの明かりに白い肢体が艶めかしく浮かび上がっていた。
組伏され、乱れたシーツの上で身を捩らせながら必死の形相で男を見上げる顔は……何とも言えないしどけなさを含んでいる。
たとえそれが男であったとしても………。
白くて滑らかな肌は汗にまみれながらシーツの上で蠢き続ける。頬を朱に染めて何かを訴えようとするが、その唇から漏れてくるのは嗚咽にも似た喘ぎ声ばかりだ。
「逃げようなんて小賢しい事しないって約束すれば……解いてあげてもいいですよ、佐藤さん。」
上半身を密着させるように覆い被ってきた男が耳元で囁くと、僅かに身体を震わせる。耳元にかかる息ですら敏感に感じ取ってしまう感度の良さに、男は思わず感動すら覚える。
「大泉………お願いだから…っ………」
息も絶え絶えといった感じでようやく言葉を吐き出す赤い唇は、うっすらと唾液で濡れていた。
――――そんな哀願するような目で見上げられると……ますますこのままにしておきたくなるわ。
大泉と呼ばれた男はそんな事を思いながらゆっくりと自分の唇を舐めた。目の前にある獲物をどう調理してやろうかと思いあぐねているようだ。
両の手首を自分のネクタイで縛り上げられてベッドに繋がれている佐藤は、実に悩ましげだった。
時折足掻くように身を捩る姿をしげしげと見つめながら、大泉はどうしてこんな関係になっているのか……そう思うと自分がよく解らなくなる。
どちらかといえば近づきになりたくない存在だった、あのダメ社員の見本みたいな「佐藤重幸」に――――。
大泉洋は安田商事の総務二課に所属するサラリーマンである。
表向きは上司の信頼も厚く、仕事はほぼ完璧にこなす自他共に認めるエリート社員だ。だがこの総務二課は社の内外に関するもめ事その他を特命により解決する極秘任務が課せられていることは、社内でもごく少数の人間にしか知られていない。
そして彼はこの二課を率いる安田係長直属の「特命社員」というわけだ。
この二課には現在四人が係長の下で日夜特命社員として働いている。
二人は先輩社員の森崎と佐藤。そして同期の音尾と大泉。
係長は表向きはダメ社員の筆頭のようなふりをしていて、とてもじゃないがその様な特殊な業務に就いている存在とは微塵も感じ取れない。
勿論社内の大多数の人間が、コネで入社したものの仕事の出来ない穀潰しの能なし係長だと思っている。
……が、ひとたび裏の顔を覗かせればがらりと顔つきまで変わる、実は凄腕の人間だ。
ところが先輩組である二人ときたら、表も裏も関係無しの落ちこぼれ組だった。
ようするに本当の「ダメ社員」なのだ。よくあれでクビにならないもんだと大泉はつくづく感心していた。
与えられた業務はそれなりにはこなしているようだが、大泉や音尾が日々こなしている業務内容に比べれば雲泥の差なのは火を見るより明らかだった。
二人とも、如何にも仕事が出来なさそうな身なりをしていて、いつも覇気がない。
あれでよく裏の仕事が出来るもんだと、いつも音尾相手に笑っていたものだった。
そんな風に人ごとでしかなかったこの「ダメ社員」が、よもや自分の身に大きく関わってこようとは夢にも思わずに。
そう……あの日までは。
「じゃあねぇ……今回はちょっと特殊だから……森崎君と音尾君で組んで、大泉くんは佐藤君とでお願い。」
係長は無表情にそう告げると、欠伸をしながら出ていった。どうやら一晩かけていつものやり口で情報を掴んだらしい。
反論は認められなかった。この課では係長が絶対であり、彼の命令に逆らうことなど出来はしない。
大泉は渋々佐藤とペアを組むことになったのである。
「よろしくな、大泉君。俺、君に迷惑かけちゃうと思うけどさ……その、何ていうか……足手まといになんないように、俺なまら頑張るから! だから君も遠慮無しに何でも言ってくれる?」
佐藤はそう言いながら照れ臭そうに右手を差し出した。
大泉は無言で右手を突き出し、佐藤の手を軽く握るとすぐに振り解いた。まるで汚いものでも触るかのような素振りだ。
「えーと………佐藤さん。」
仏頂面の大泉が自分より背の低い佐藤を上から見下ろしながら、ぶっきらぼうに呟いた。
「じゃあ俺、遠慮無しにやらせて貰いますから。」
じろりと睨め付けるように佐藤を見る。
くたびれた鼠色のスーツはよれよれで、アイロンをかけた跡など見当たらない。Yシャツはといえば同じくアイロンも糊付けもされた形跡が無く、辛うじて形を保っているような状態だ。
ネクタイもどうにもぱっとしない色と柄で、地味なスーツをより一層くたびれた雰囲気にしていた。
顔はといえば、汚れてこそいないものの無精ヒゲがうっすらと伸びていて、どうしても薄汚い印象を与える。
さらに冴えない印象にしているのが、佐藤愛用のメガネだった。
瓶底のように厚いレンズと、野暮ったいデザインのフレーム。これらが渾然一体となって佐藤の駄目さ加減に拍車をかけている。
――――このままでは業務に差し障りがある。
大泉は一見顔色を変えずに観察していたが、内心どうしたものかとパニックを起こしかけていた。
「……取り敢えず、行きましょうか。」
くるりと背を向けて課を出る大泉を、佐藤は慌てて追う。
そしてそんな大泉達の隣では、音尾が森崎を前に同じく頭を抱えていたのだった。
会社を出た大泉は大きい歩幅で颯爽とオフィス街を歩いていく。そしてその後ろにはその歩幅に合わせようと懸命に付いて行く佐藤の姿があった。
暫く歩いたところで大泉は立ち止まって息を大きく吐いた。
きっとあのダメ社員の佐藤のことだ、自分の姿を見失ってしまったかもしれない……そんな風に思いながら振り返ると、驚いたことに佐藤はぴったりと自分の後ろに付いてきていた。
「……ん? 着いた?」
佐藤が話しかけると大泉は大きなギョロ目を少しばかり見開くながらも平静を保って呟いた。
「佐藤さん………意外と脚が早いんですね。てっきり置いてきちゃったかと思ってたんスけどね、俺。」
大泉のそんな言葉の意味にも気付いているのかいないのか、佐藤は照れ臭そうに笑っていた。
「んじゃあ、もう少しで目的地に着きますから。」
それだけ言い放つと大泉は更に早足で街を闊歩し、とあるビルの前で立ち止まる。佐藤といえばやはり行きも乱さずぴったりと後ろに付いていた。
洒落たビルの入り口脇に螺旋階段があり、そこを駆け上がるとガラス張りの二階部分に着く。
中に入ると薬品とシャンプー剤の独特の匂いが鼻を擽った。
「オーナーいるかい? さっき電話しといた大泉だけど。」
奥から細身の男が出てきた。
「あらぁ、大泉ちゃん待ってたわ〜! さっ、入って入って!」
自分の手を胸の高さで握り締めてしなを作りながら細い腰をややくねらせて佐藤に近付く男は、いかにも美容師といった感じで上から下までセンス良くまとめていた。
突然の事に何が何だか解らないまま引きつった笑顔で挨拶する佐藤と、無遠慮に上から下まで見回してから突然営業スマイルで微笑む男。
大泉が一言二言言葉を交わすと、男はさらに輪を掛けた営業スマイルで微笑んだ。
「まかしといてっ! じゃ、早速やっちゃいましょうか!」
佐藤の方に振り返るとおもむろに手をきゅっと握り締め、その手を強引に引いて奥まで連れていく。
「じゃあ…頼むわ、鈴井さん!」
大泉はひらひらと手を振りながら店を出る。
「オッケ〜、期待していて頂〜戴っv」
鈴井は振り返って大泉に投げキッスを飛ばした。
大泉は一人で今度の仕事の事前調査をした後、カフェで時間を潰してから美容室へと向かった。
あれから三時間はゆうに経っている。元が元だからあまり期待はしていなかったが、鈴井の美容師としての腕は多少なりとも信頼していた。
まあほんの少しでも見られる状態になっていれば御の字なのだろう…と自分に言い聞かせつつ螺旋階段を登り、ガラスの扉を開けた。
「あらっ、大泉ちゃんってばナイスタイミング! 丁度良かったわ〜。」
鈴井がくるりと振り返って微笑んだ。オネエ言葉を使わずシャキッと立っていれば相当にいい男なのに…などと思う大泉であるが、あえて口には出さずに愛想笑いで誤魔化した。
「……で………どうよ。」
恐る恐る訪ねた大泉の顔を鈴井は意味ありげに見つめると、口の端を意味ありげにつり上げた。
「どうよって……アナタの目の前にいるじゃない。自分の目で確かめたらど〜お?」
大泉はその言葉の意味を一瞬理解することが出来ず、慌てて店内を見回す。店内には数人の男性客と美容師が鏡の前にいるが、佐藤らしき人物は見当たらない。
目の前にって言われたってどこに居るか判らないっつの……と内心毒づきそうになったその時、ふとすぐ目の前のソファに男が座っている事に気付き、よもやと思いつつ目を馳せた。
涼やかな切れ長の目元がどこか印象的な所謂イケメン系の顔立ちと、やや色白の肌に明るめの髪が映える。
歌舞伎役者か宝塚の男役か……といった雰囲気の男が、大泉の顔を見上げながら立ち上がった。
「…………あれ、俺そんなに変わったか? 俺、今メガネしてないからよく解らないんだけど……」
その声に確かに聞き覚えがあった。だが今までとのあまりのギャップに、大泉の脳が混乱をきたす。
「どう? やるもんでしょ。褒めてくれてもいいわよー!」
鈴井が自慢げな笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「最初は正直どうしようかと思ったわよー。なんせあんまりじゃない? って位、さえないボウヤだったじゃない。」
大泉は呆然としながら無言で頷いた。ほんの数時間前までは視界に入れるのすら苦痛を感じるようなあの男が、まるで蛹から蝶に孵ったかのように劇的に姿を変えたのだから無理もない。
真っ黒な針金のように見苦しかった髪はやや明るめのオレンジ系ブラウンに染められ、野暮ったい印象しか与えなかった無精ヒゲが跡形もなく綺麗に剃られたせいか、肌はつるんと滑らかな玉子を思わせた。
「……………マジで佐藤…さん?」
ようやく理性を取り戻して佐藤に話しかけた大泉に、佐藤は困ったような顔をしながら頭をぼりぼり掻いた。
「マジで佐藤……なんだけど。そんなに変わったか? 俺。メガネ掛けてみてもいいかな?」
佐藤がポケットをまさぐっていると、その手をそっと上から押さえる鈴井。
「かけちゃだめよー、折角のトータルバランスが崩れちゃうでしょ。あんな瓶底……フレームからレンズがはみ出るにも程があるわよ! って感じじゃない。」
口を尖らせてポーズをとる鈴井。
大泉はまた呆然と佐藤を眺めていたが、正気を取り戻して頭を一回ぶるっと震った。
「じゃあ次、メガネ新調しますか。あと、そのうす汚いスーツももう少しマシなものにして貰いますから。」
冷たく言い放つとスーツのポケットに手を入れて壁にもたれ掛かった。
大泉の正面に座った佐藤は本当に今までとは全くの別人に見えた。あの僅かな時間に整形でもしたのかと思わざるをえないくらい、だらしなかった面影は見当たらない。
眼鏡の加工に少し時間がかかるためコンタクトを購入した佐藤は、あちこち店を歩き回ったせいか多少疲れた顔をしていたが、それでも先程までと違って目を背けたくなるような嫌な印象は与えない。
昼休みには少し遅い時間だったが、お気に入りのイタリアンの店にぎりぎりで飛び込んでランチコースを選んだ大泉は、目の前でグラスの水をごくごくと飲み干す白い喉を見つめる。
余程喉が渇いていたのか一気にグラスの中身を空にしてから、佐藤はようやく人心地ついたと言わんばかりの顔をして無邪気な笑みを浮かべた。
一瞬のその表情に思わずどきりとしながらも、大泉は辛うじて仏頂面を保つ。
「それにしても腹減ったなー……あ、今日は色々と有り難うね。何か俺……まだ信じらんないわ。まさか俺がこんなに変われるなんてさ。」
やや身を乗り出すようにして大泉に語りかけてくる。
「―――――――いや別に。変わって貰わないと仕事に差し支えが出ると思ってやっただけですから、礼を言われても困るんですけどね。」
ぴしゃりと言うと大泉もグラスを鷲掴み、喉を湿らせた。
「あ……ああ、まあ………そうだよね。うん、確かにそうなんだけどさ…………何て言うか、やっぱり有り難うな。」
佐藤は急に真面目な顔になって頭を下げた。
大泉は少々面食らいながらもだまってそんな佐藤を見ていた。
―――――大体プライドってもんが無いのだろうか、この男は。後輩の自分に対して威張るどころか対等に接してくる。
いや、ともすれば低姿勢過ぎてどちらが先輩か解らないほどだ。
そんな事を考えながら運ばれてきたサラダを口に運んだ。
食事を終えた二人は更に手頃なスーツを買いに行き、気が付けば夕方近くだった。
買い揃えたものを両手に抱えて社に戻ると安田係長は仕事で出ており、残っているのは森崎・音尾組だった。
「佐藤、大泉……只今戻りました。」
そう言いながら佐藤が二課に入っていくと、残っていた二人が当然ながら唖然としている。
「えー………………え〜…………………?」
首を傾げる音尾と、口をぱくぱくしている森崎。
「もう一度言いましょうか?」
佐藤が屈託なく笑うと、森崎が肩をがっしりと掴んで叫んだ。
「……本当〜にお前………佐藤か!? いや〜、なーまら驚いたわ!」
肩を掴んでがくがくと揺さぶられた佐藤はやや困り顔だが、森崎は一向にお構いなしだ。
「ちょっとちょっと森崎さぁん…佐藤さんが死んじゃうでしょ、そんなに揺さぶったら。」
慌てて音尾が間に入り、森崎を引き離してから佐藤に向き直った。
「それにしても本当に別人みたいだねぇ、佐藤さんってば。何、どしたの?」
離れ気味の目を好奇心できらきらと光らせながら詰め寄る音尾と、垂れ気味の目をまん丸に見開いて隙あらば音尾の前に出ようとする森崎のコンビにたじたじの佐藤を、大泉は少し離れた場所から見ていた。
まぁ二人が驚くのも無理はないなどと思いながらも、仕掛け人の大泉でさえ実はまだ内心動揺を隠せないでいる事など、その場にいた誰もが全く気付きもしなかったのだが。
佐藤が劇的な変化を遂げてからそろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。
その間に彼を取り巻く状況は一変し、今では女性社員の口の端にも度々上る存在となっていた。
況や仕事の状況も変わり、大泉が望んだように通常業務や調査活動に於いてもめざましい成果を上げるようになっている。
調査活動とは所謂調査対象の相手側の女性から寝物語的に社内機密などを聞き出す等のもので、やはりどうしても個人の資質如何にかかってくる。当然ながら今までの佐藤にそんな芸当など出来よう筈もなかったのだが………今の佐藤は水を得た魚の如く、易々と女性達を陥落させては自在に情報を操った。
人の目を惹く容姿と、何よりも自信を手にした男は、破竹の勢いで経験を積み重ねては着実に全てを自分のものにしていた。
当然、突然コンビを組まされた大泉にとっもそれは大いに有り難いことでもあり、何より望んだことでもあったのだが―――――何故か大泉の心には得体の知れないもやのようなものが立ちこめている。
釈然としないといった面持ちで、どうにもスッキリとしない。
仕事に関して佐藤は期待以上の成果を上げている。そのせいか思ったより早く目処がついたところでもあるのに、暗く重苦しい感情がじわじわとはびこっている。
―――――そして、その理由も自分でよく解っていた。
嫉妬、だ。
今までエリートと呼ばれ、同期はおろか先輩達も誰一人として自分の前に立ちはだかる者など存在していなかった人生に、よもや自らの手によって今の自分を脅かすであろう存在を造り上げてしまった事による後悔の念と、これから華々しく業績を上げて行くであろう男への夥しい嫉妬の念。
しかも佐藤はどう見ても自分よりも容姿が良い。
すらりと背が高くモデルのようにバランスの取れた恵まれた体型をもつ大泉ではあったが、如何せん顔は人並みだと自分でも理解している。
加えてクセの強い天然パーマの髪は、大泉が鈴井と共にどう努力したとしてもすぐにその存在を誇示しては、どこかしら楽しげな印象を与えてしまうのだ。
それに比べて佐藤は……今では寸分の隙も与えないような雰囲気まで醸し出し始めている。
それは大泉が常日頃望んで止まない……そしてほぼ絶対に手に入れることの出来ないものですらあった。
これらの事柄がない交ぜになり、大泉の心の内に晴れることのない黒雲をもたらしているのは明白だった。
自分でも小さい人間だということは承知している。
………………………だが、彼はどうしても許せなかったのだ。
黒雲のような嫉妬の心を断ち切れぬまま、大泉は今日も佐藤と打ち合わせをしている。
すぐ近くに座って熱く言葉を吐き出す佐藤は、大泉の目から見ても魅力的な男へと成長していた。淡く光るうす桃色の唇が、調べ上げてきた調査内容を話し続けている。
内容も良くまとめられ、おそらく佐藤一人でももう少し時間をかければ完璧にこなすであろう事は容易に想像出来る程の完成度だった。
……そんな事が一つ一つ癇に障り、大泉は前にも増して仏頂面を続けていた。
そんな大泉を佐藤は様子を窺うように時折見ては、少し間を置いて言葉を続ける。
「……なぁ、大泉君さぁ…………まだ、俺のこと嫌い?」
突然佐藤が真っ直ぐ大泉の目を見つめ、言いにくそうにその言葉を口にした。
片や大泉といえば、ちらりと佐藤を見遣るとすぐにぷいっとあらぬ方向に視線を反らす。
「大泉君…………いや、もういいや。大泉!」
突然呼び捨てにされ、大泉は流石に驚いて佐藤に視線を合わせた。
「あ、やっとこっち見た。」
佐藤は照れ臭そうに笑いながらそう呟いた。そんな笑顔はあのダメ社員の見本のような頃から、少しも変わってはいないようだ。
「――――めっずらしいじゃあないですか………佐藤サンが俺を呼び捨てにするになんて。こりゃまた随分とお偉くなられたようで!」
嫌味たっぷりにそう言うと、佐藤は少しムッとしたのか眉間に皺を寄せながらも言葉を続けた。
「そうじゃねえよ、そんなんじゃねえ…………………俺はただ………」
「ただ?」
侮蔑の表情をありありと浮かべながら佐藤を見つめ続ける大泉に、佐藤はふっと視線を外すと俯いた。
「……………お前にはもの凄く感謝してるんだって、マジでさ…………」
小さな声ではあったがハッキリとそう告げると、佐藤は突然立ち上がり大泉の腕を掴んだ。
「メシ食いに行くべ、大泉! 話がある!!」
会社から少し歩いた場所にある小さなダイニングバーで、佐藤は大泉の真向かいに座っていた。
定時を過ぎてからの打ち合わせだったせいか、時間は既に午後八時を回ったところだ。
無理矢理連れてきた佐藤も連れてこられた大泉もお互いに無言のまま、黙って黙々とメニューを選んでいた。
見たところ、石窯で焼く自家製ピッツァと生パスタがお薦めのようだ。
パスタが好きで自分でも休日にはよくパスタを茹でて食べている大泉は、この時だけ仏頂面がふっと緩み、佐藤へのわだかまりなど何処かへ消え失せてしまっていた。
あれこれ真剣な顔をして慎重に選び抜いているその真向かいで、佐藤はそんな大泉の様子を怖ず怖ずと見守っていた。
ようやくメニューが決まり注文を終えると、にわかに思い出したのか大泉はそっぽを向いて口を尖らせている。
「あのね………大泉。」
佐藤がゆっくりと話しかける。
「俺さ……本気でお前に感謝してるんだわ。今まで俺ずっと、お前に教えられるまできちんとした格好もしてなかったし、仕事も何て言うかちゃんとやってなかったって言うか。けど、お前と組んで色んな事を吸収させて貰ってさ…………なんか、何て言ったらいいんだろ……………今のままじゃ絶対いけないんだ! って気付かされたって言うか。お前見てて思ったんだわ。だから、その……………」
ためらうように言葉を区切りながら、どうにか理解して貰おうと苦労する佐藤を横目で見ながら、大泉は大きく息を吐いた。
「…………で? だから何だっちゅーんです? だから俺に『はいそうですか』って言って欲しいわけですか? 佐藤セ ン パ イ!」
我ながら何て度量の狭さだ…と大泉は思うのだが、どうしても気持ちが抑えられない。
先輩とは言え自分よりずっと劣る人間だと思っていた佐藤に、自分の全てが足元から救われそうになっているのだと、信じたくもないしそれを易々と許したくもなかった。
「………あのさ、大泉……………俺ね、本当は先輩でも何でもないんだよね。」
敵意を露わにしていた大泉の前で、佐藤が困ったように笑いながら呟いた。
「お前さ、四十八年生まれでしょ? ……………実は俺も同じ。」
予想もしていなかった言葉に大泉は呆気にとられるが、佐藤はそのまま言葉を続けた。
「俺さ、大学一浪したの。だから同期の奴よりいっこ上で入社したのよ。」
その言葉に大泉は胸の内を透かされたような思いがして、唇を噛みしめた。
「だから…………だから何だってんですか? あんたが一浪していようが何だろうが、俺にはひとっつも関係無いんじゃないですか!?」
言葉を荒げながらも視線が自然と泳いでしまう。
そんな大泉をじっと見ながら佐藤はまた呟いた。
「ん………そうなんだけどさ、同い年のお前に先輩って呼ばれたくないなー…なんてさ。」
目を細めて照れ笑いをする佐藤を、大泉はただ黙って見つめていた。自分のコンプレックスを全て見透かされているような感覚に囚われながら、ただ唇を震わせていた。
「だから俺のことは呼び捨てにしてくれないかな…………佐藤でも、シゲでも何でもいいんだ。俺にとってお前は恩人だし、しかも仕事の上ではどっちかっていうとお前の方が先輩みたいん感じだしさ………」
ぽりぽりと頭を掻きながらそう言うと、佐藤はビールが注がれていたグラスに手を伸ばし、中身を一気に飲み干した。
「うはー…なまら美味いッ!! 言いたいこともようやく言えたし、なんかスッキリした!」
そんな佐藤の様子をやや虚ろな瞳で見ながら、大泉もグラスに手を伸ばして中身を少し口に含んだ。ビールは思ったよりも苦い味がする。
確かに大泉は四十八年生まれだった。そしてその彼が佐藤より一年後輩で入社しているということ――――即ちそれは彼が二浪していたことに他ならなかった。
大学受験に失敗し、望む大学に行けぬまま地元の滑り止め大学に入学した大泉は、入社後にその事を他人に語ったことはまず殆ど無かった。
なのに何故か佐藤が知っている。
どうにかして佐藤の口を封じなければ――――積み上げてきた全てのものが崩れ落ちてしまう。
大泉はビールを舐めながら、やや自分を取り戻し始めていた。気ばかり焦っても仕方がない。とにかく今は冷静に対処し、今の自分の立場を守りつつ不安材料を撤去するにこしたことはない。
幸い目の前の佐藤はどうやら自分を信頼しているようだ。それどころか恩人だとも思っているらしい。
だとすればこのまま放って置いても害はないのかもしれない。
………だかやはりうっかりどこかで口を滑らせたりしないとも限らない。
ともかく不安材料は全て撤去するに限る。
――――――或いは、『同化』
アンティパスト、パスタ……と続いて目の前に運ばれてきた料理は、大泉の舌に適うものだった。
大泉は新鮮な魚貝類をふんだんに使ったオリジナルのパスタを、佐藤はもぎたてのトマトとモツァレラチーズを使ったシンプルなパスタをチョイスしていたのだが、どちらも実に色鮮やかで食欲をそそるものだった。
「気に入って貰えた? 大泉……パスタとか好きそうだったから、ここを選んでみたんだけど。」
自分の好みを知らずに悟られていた事に苛立ちを感じながらも、大泉は努めて平静を保つよう努力した。
ここで失敗しては後々に差し障りが出ることを承知していたからだ。
如何にも美味しいパスタで機嫌が直ったように見せかけねば意味がない。そしてこんな事は普段から裏の業務をこなしている大泉には朝飯前の事だった。
「………何だか気を遣わせちゃったみたいで申し訳ないね、佐藤さん。」
大泉は少し顔の表情を緩め、ほんの僅かな笑みを浮かべる。目の前の佐藤は途端にぱっと明るい表情をになった。
「いや、気を遣ったなんてそんな事全っ然、無いから! むしろ俺こそ、今まで色々と気を遣わせたりしちゃっただろうし…………今日は俺が持つから、な!」
単純とも言うべきか、佐藤は今までの重石が取れたかのように和らいだ顔をして上機嫌で喋り出す。
「…………いいんですか? いやーかえって申し訳ないなあ………佐藤さん、俺がこの前沢山お金を使わせちゃったから、支払い大変なんじゃないですかあ?」
打ち解けてきたかのようなニュアンスを交えて茶化すように言うと、二杯目のビールをぐいっと煽った佐藤が照れ笑いしていた。
「んー、まあ分割にして貰ったし………何とかなるって、まあ。」
大泉の命令で支払った美容院代や眼鏡、コンタクト、スーツ一揃えや靴、小物に至るまで相当な出費だった筈だ。
勿論安田商事はあまり使い物にならない社員であった佐藤にも、それなりのサラリーを支払っている筈ではあるので、いきなり生活が出来なくなるといったことはないのであろうが。
「……じゃあ、遠慮なくご馳走になりますから。」
口許に笑みを浮かべてそう言うと、佐藤は本当に嬉しそうに微笑む。大泉の真意など全く気付かぬままに。
嬉しそうに白身魚とホタテのグリルに舌鼓を打つ佐藤を冷ややかな目で観察しながら、大泉はワイングラスに口を付けた。
こちらは和牛を良質のワインでじっくり煮込んだ赤ワイン煮を味わいながら、極上の獲物を目の前にした時の高揚感のようなものがふつふつと沸き上がってくるのを感じている。
何も知らずに自分を信用しきっている愚かな男。しかもそれが自分を脅かし始めている目障りな相手とあれば、素晴らしい食材を手に入れたときの一流シェフのようなものだ。
如何に手懐け、裏切り、完膚無きまでに屈服させた上で従順な下僕に貶めてやろうかと、内心舌なめずりをしながら見つめているというのに、獲物はそんな事には少しも気付くことなく無防備な姿をさらけ出し、何杯目かのビールを呷っていた。
小さな顔が上に向けられる度白い喉が露わになり、液体を飲み下す為に喉仏が上下に動く様はやけに扇情的にですらある。
一つ一つの仕草をだまって観察していると時折心臓を鷲掴みにされたような感覚すら感じられて、大泉はゆっくりと視線をワイングラスに移した。
今はとかく冷静に…ただ冷静に事を運べばいい。
今まで数え切れない程こなしてきた仕事と同じ事……違うのは今度の相手が職場の同僚であり、『男』であるということ。ただそれだけだ。
柔らかい光を放つクリスタルのグラスの中で、深紅の液体がさながら宝石のように輝いていた。
上機嫌でビールを飲み続け、趣味の話などをほぼ一方的に際限なく続けていた佐藤だったが、流石に酔いが回ってきたのか飲むペースが急に落ちたかと思うと、とろんとした目つきになっていた。
「……佐藤さん、そろそろ飲み過ぎじゃないです?」
大泉の言葉に目を細めて笑う佐藤は完璧に酔っぱらいだった。
「やー…だなぁもう大泉ってばぁ! 呼び捨てにしていいってさっきからずっと……言ってんのに! 先輩の言うことが聞けねっつーのかあ!?」
何が嬉しいのか皆目分からないが、とにかく佐藤は楽しそうに笑っている。
今にこの笑顔が引きつった泣き顔に変わるのかと思うと、大泉の背筋にぞくりと快楽のようなものが走る。
それを必死に押さえながら、大泉は静かに微笑んだ。
「先輩だとか言いながら呼び捨てしろってか………どっちなんだ、一体あんたは。」
如何にも苦笑してますといった表情を作りながら、大泉は佐藤の腰に手を廻して寄り添う。
このままタクシーに連れ込んでしまえば、ようやく次の段階へ進むことが出来る。
店員にタクシーを呼んで貰うと、大泉は酔い潰れた佐藤を抱えて乗り込んだ。
静かに行き先を告げてから、全体重を預けてもたれ掛かってくる男の顔をゆっくりと手で押しのける。だが車の振動具合ですぐにその顔はまた肩にぶつかって乗っかり、そのままになってしまう。
何度かそんな事を繰り返して諦めた大泉は、鬱陶しそうに佐藤の寝顔を見つめた。
小さなその顔が車の窓から入り込むネオンや外灯の明かりに照らされるたび、くっきりと白さを浮かび上がらせる。
まるで化粧でも施しているかのような滑らかさだが、別段そんなわけでもない。今まで三十年以上もほったらかしにしてきた割りには、滑らかですべすべとした肌だった。
大泉の肩を枕に眠る佐藤は、この先自分の身に降りかかってくるであろう災難など全く知らずに幸せそうな小さな寝息を立てていた。
車は繁華街から少し離れたホテルの前で静かに止まった。
まだ寝惚けている佐藤を肩に掛けて降りると、フロントで手際よくチェックインを済ませる。
通された部屋は豊平川越しの夜景が素晴らしいのと、内装がかなり豪華な事でかつ過ごしやすい空間に仕上げられている事が気に入って、普段から仕事で此処をよく使っている。
今日も同じ手筈で予約を入れていたのだった。
そう、これはあくまでも職務の延長上の事――――――。
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