HONOR
〜時の花火〜
◇1◇
※あらすじ・人物関係は此方でご確認下さい。
「………あんた、飲み過ぎだよ!」
酔いの回った千鳥足で太鼓の周辺を歩く秀一に、花男が見ていられないといった風に声を掛けると間髪無く返事が返ってきた。
「うるせえこのくそばばあ!」
そう言って背を向け、まだふらふらと危なっかしい足取りでうろつく秀一に愛想を尽かしたように花男も顔を背けて知らんぷり。
傍にいた高志はいつものことなので気にも止めない。
五十年近くもこの小さな村で繰り返されてきたお馴染みの光景だ。
高校を卒業してから村を出ていた3人が恵織に戻ってきたのは五作の入院がきっかけだった。
高志は慣れない営業の仕事で毎日人に頭を下げ続け疲れきり、光太は花火師になる夢半ばで先輩職人に怪我を負わせて挫折、花男に至っては夢のプロドラマーデビュー手前で詐欺に遭い有り金搾り取られる始末。
出直しを計った小さなゲイバーのショータイムでドラムを叩いていた筈が、気が付けばすっかりその道にはまり自らもオカマと呼ばれる姿形に変わっていた。
気が付けば女性のように爪先一つにまで神経を使って自分を磨き抜き、飾り立てるのが楽しくて仕方がなかった。
父が早くに亡くなったせいか、家にはいつも母と姉の女所帯の中で自然に身に付いたものなのか、それとも生まれ持った性質だったのか―――幼い頃から姉のお下がりの赤い物を身につけていた花男は、今も赤で身を装っていた。
初めて病院のロビーでそんな花を見かけた秀一は、それが花男だと全く気が付かなかった。
せいぜい、見かけない派手な女が居るな…くらいの感覚でいたに過ぎない。
以前偶然、街で花男と会っていた光太に教えられるまで、全く分からなかったのだった。
驚いてしげしげし見つめると、成る程顔立ちは以前と同じ花男のままだ。
だがきれいな輪郭を縁取る柔らかな色の緩やかな巻き髪と、きっちり施されたメイクで花男は見事に女性にしか見えない。
胸元の開いた派手な服を着込み、足元には煌びやかな赤いヒール。
口が開いたままぽかんとしてただ呆気にとられた後、思わず飛び上がった秀一に花男は昔とあまり変わらない笑顔で手を振る。
それは本当に屈託のない笑顔だった。
元気を無くし、記憶も曖昧になっていた五作を何とか元気付けようと村祭りの復活を計画した矢先に、五作は逝ってしまった。
四人の手作りオーロラを見届け、最後に本物のオーロラを置き土産にして五作はこの世を去っていった。
五作の愛弟子だった花男が五作の元に駆けつけた時には、五作はもう息をしていなかった。
半狂乱になって電話を掛けてきた花男の声がいつまでも秀一の耳に残る。
今まで師匠である五作から逃げ、太鼓を捨て、村に戻ることもしなかった自分の行いを後悔し懺悔する花男の泣き喚く悲痛な声はそれからずっと秀一の心を占めてきた。
今すぐその場に駆けつけて『お前のせいじゃない』と声を掛け、抱き締めてやりたい衝動に駆られたあの時から。
五作の葬儀が秀一達の出て厳かに行われた後、集まった仲間達はそれぞれ村に戻ってきた。
高志は新しい風を村に引き入れ、風通しを良くするためこの村を背負って立つ決意を胸に。
光太は培った花火師の技術で、自分達で復活させた祭を盛り上げる花火を造り上げるために。
そして花男は村の中心地からやや離れた場所に小さな店を開いた。
昼は師匠・五作から受け継いだ祭太鼓を次の世代の子供達に受け継いで貰うべく、子供達に太鼓を教える。
だがそれはあくまでもボランティアでしかない。
生活の糧は小さなスナックで賄っていた。
カウンター席の奥に設えられた古いドラムセットと白樺の太鼓。
街でやっていたようなショータイムの華やかなものではないが、客からの希望が有ればその腕前を惜しげもなく披露した。
店には秀一達や彼らのバンドをリアルタイムで見ていた先輩後輩達が集まり、昔話に花を咲かせた。
また時には祭の実行委員会寄り合い所となった。
そうしているうちに数年が過ぎていた。
秀一はいつものように日々のお務めを終えた後、ふらりと寺を抜け出して花男の店『白樺』へと足を向ける。
今日も多分店内は客で一杯だろう。
花男の人柄や話術に引かれて、いつも小さなカウンターには空席がない。
「ぃよっ!花男くん。元気〜?」
元気良く声を掛けながら扉を開けて中に入る。
珍しく今日は花男一人だった。
「あら、いらっしゃい!毎日来てくれて、ありがとねー。」
花男が力なく笑った。
珍しく店内に他の客は見当たらず、がらんとした空間に花男の浮かない表情が物寂しさを誘う。
「…めっずらしーねえ、この店に人が居ないなんて。まあゆっくり座れるから良いけど。」
そう言ってスツールに腰をかける。
「そうねえ……秀一にはいつも店手伝って貰っちゃってるもんねぇ。時給出さないといけないくらい」
花男が微笑んだ。
忙しいとき、秀一は進んでカウンターの中に入り花男を手伝った。それは常連としての自負と言うよりは少しでも花男の傍に居て力になりたいとのささやかな男心でもあった。
そう、秀一はいつしか花男に心奪われていた。
多分十数年ぶりに再会したあの時から………。
酔った客から夫婦の様だとからかわれることにも照れと共に不思議な満足感が有った。
そうして出来ればいつか花男の気持ちを確かめたいとも思ってきたが、客がいつも切れることのないこの店で打ち明けることは到底無理に思われた。
だが今夜なら――――――!
ごくりと唾を呑み込み、秀一は花男の顔を見た。
客が居ないから浮かない顔をしているのかと思ったが、どうもそうではない雰囲気の花男。
「………花男くん? なんか元気ないけど……どしたの?」
本来聞きたかった質問も、こんな花男の表情の前では跡形もなく吹き飛んだ。
花男はふうっと小さな溜息を吐いて口を開く。
「ああ…ごめんね、なんでもないのよぉ………そんなにあたし元気なかった?」
無理して作り笑顔の花男に余計秀一の心が震える。
「何でもなくないだろ………花男くんがそんな顔するなんて滅多にないじゃん。僕で良かったら……」
そこまで言ったところで唇に冷たいグラスが押し付けられる。
なみなみと琥珀色の液体を継がれたグラスを花男が黙って差し出していた。
そのまま無言でグラスの中身を喉に流し込むと、爽やかなほろ苦い液体が炭酸と共に通り過ぎていく。
「ごめん………あたしが悪かったわ!何でもないのよ本当に………大したことじゃないの。」
花男が自分の分をグラスに注ぎながら呟いた。
「師匠もね………きっとこんな思いなんていっぱいとしたと思うし。だからいいのよ!心配しないで!!」
自分に言い聞かせるように小さく呟いてからヤケ気味に中身を呷った花男を見つめていると、扉にに付けられた鈴が涼やかな音色で来客を告げる。
誰か入ってきたようだ。
そして千載一遇の秀一の告白タイムは終わりを告げた。
入ってきたのは光太と高志。よりによってこの二人だ。一番知られたくない腹心の友二人の登場に秀一はがっくりと肩を落とした。
「花ちゃ〜ん! 喉乾いたからビールぅ!!」
「あー、僕も同じで!!」
どっかりと秀一の隣りに腰掛けた光太達を苦々しく思いながら、秀一は盛んに泡を吐き出す液体を全て呷った。
「なしたの? 秀一?」
悪気のない光太の笑顔に苛つく自分に自責の念を感じつつ、秀一は更にビールをおかわりする。
光太はきょとんとしながら出されたビールを美味そうに喉を鳴らして飲み干し手から花男に声を掛けた。
「花ちゃん……大丈夫? 落ち込んでない? なんか、子供達の親に文句言われたんだって?」
高志と秀一がぎょっとして光太を見た。
花男は慌てて唇の前に人差し指を当てて黙っているように促したが光太は更にきょとんとしている。
「何よ、どうしたのよ?」
高志が表情を固くしながら光太と花男の顔をそれぞれ見比べる。
秀一も光太の肩を抱き、耳元で呟いた。
「何があったか知ってんなら………今ここで全部吐け。」
その様子を見ていた花男が慌てて叫んだ。
「あーもう! 止めてよ!! 何でもないわ、大丈夫だって!!」
その夜、花男と光太から聞き出した事柄は花男が子供達に教えている太鼓の事だった。
子供達の親が、花男が夜の商売をしていてしかも男だか女だか分からない格好で子供達に接するのは教育上良くないのではないか、と反対意見が出てきたというのだ。
今までは学校に赴き放課後に教えていた花男だったが、女装で学校に出入りするのは好ましくないとの事である。
「…………あたしが悪いのよ。こんなナリと仕事してるでしょ、そりゃあ親としたら不安にもなるわよねー……オカマが教える祭太鼓って、何よそれ? って事になるじゃないやっぱり………」
無理して笑い飛ばす花男が痛々しい。
花男が身なりに随分と気を遣っていることは此処にいる全員がよく分かっていた。花男は学校へ出向くときは必ずきちんとノーメイクに男物の服装で質素にしていた。
それでもスナック「白樺」のママであるという偏見からか派手な身なりをして学校に出入りし、子供に接しているらしい…と、陰口を叩かれていたのだ。
「花ちゃんは全然悪くないよ………勝手に悪口言ってるヤツが悪いんだよ……」
光太が俯いた。
「いいの………本当にいいのよ…………ほら、あたし昔から師匠の弟子やってたから、そんなの慣れっこだし! ね! もう、今日は奢るからそんな顔しないで……みんな………」
かつて五作もいわれのない偏見で忌み嫌われ、その弟子である花男もそういった目で見られていた。
彼らはただ、次の若い世代に祭太鼓を継承させたいだけなのに――――。
「本当に有り難うね………あんた達が分かってくれてるから、あたし…大丈夫………」
花男がとっつておきのワインを持ち出してきてどんとカウンターに置いた。
「飲もう! ね? こないだ仕入れたばっかりのワイン……奢っちゃう。」
この店にいつも人がいるのはここに来れば花男が直々に仕入れた美味しいお酒が揃っているのも理由の一つだろう。
村の他の店にこんな洒落たワインがお目見えしたことなどない。
花男は地道にルートを開拓し、手ごろな価格で客に振る舞えるようにしていた。
その夜は遅くまで飲み明かした。
五作に指導を受けていた頃の思い出を肴に4人は大いに盛り上がった。
そのうち光太がぱっと顔を輝かせて秀一の顔を見た。
子供の頃のように目やや離れ気味の目ををキラキラさせている。
「秀一くんさあ………キミんとこのお寺って広いだろ? あれ使えない?」
「使うって何がよ?」
とろんとした目を光太のハナレ目に向けるが視点が定まらない。
「ああ、そうか!分かりましたよ光太くんっ!!」
酔いが回って更に声がでかくなっている高志が叫んだ。
「僕は分からないよ………」
秀一がぼそりと呟く。
「だからさあ………あんたんとこのお寺貸してくれればさあ、子供達に太鼓を教えるのにハナちゃんが学校に出入りしなくて済むじゃん。そしたら五月蝿いおばさんとかのPTAにも文句言われなくて済むでしょ!」
秀一が急に背筋をしゃっきりさせ、ぽんと掌を叩いた。
「お前!! なんで先にそれ考えねーのよ?」
光太の襟首を掴んで締め上げる。
陸に上がった魚の様に喘ぎながら光太が叫んだ。
「馬鹿この〜! 今気付いたんだから仕方がねーべや!! 手を離せぇぇぇ、窒息するぅぅぅぅ!」
口をぱくぱくさせる光太に慌てて手を離し、秀一は立ち上がって花男を見つめた。
「………気付かなくてごめん。明日、学校に一緒に行って、太鼓教室をうちの寺でやる事にするって言いに行こう!」
呆然とする花男の手をそっと掴み、強く握った。
花男は唖然としていたが掴まれた手を強く握り返してきた。
「あり………がと…………」
次の日、秀一の他高志や光太も従えて花男は学校に出向いた。
高志は今、かつての門田林業を再建した若き実業家。光太も同じく村の花火師として起業している。
秀一は村の葬儀を一手に引き受ける菩提寺の若き住職。
これからの村を背負って立つであろうメンツに、教師達やPTA達も無碍な態度はとれなず、太鼓教室の寺境内への移動を認め、更に生徒達をきちんとそちらに送り届ける約束をせざるを得なかった。
花男は週に数回、秀一の寺へと通ってくることになった。
勤行を終え、急な法事の無いときは秀一も稽古に付き合った。昔の自分達のような子供達に丁寧にかつ根気強く教える花男に感心しつつ、その光景を熱に浮かされたような目で見つめた。
勿論すっぴんにラフな格好で化粧っけの全く無い花男だったがそれにも関わらず何故かやけに綺麗だった。白くてすべすべの肌は昔と何一つ変わらず、Tシャツから覗く鎖骨が眩しい。
夜は華やかな雰囲気を醸し出す綺麗な髪もきっちり後ろで縛られ、女の色気など微塵も感じさせないというのに――――飾り気のない花男も何故だか艶やかだった。
子供達の前では女言葉も使わずにいる花男だったが、秀一と二人になると甘えたようないつもの言葉遣いに戻る。
それが秀一には嬉しかった。
「花男先生、あのね…」
稽古を終えた生徒達が解散していく中、一人の低学年の少女が懸命に花男に話しかけている。花男は満面の笑顔で答えていた。
「大〜丈夫!女の子だって太鼓は叩けるよ。頑張ればちゃんと上手くなるからね。」
絹糸のような少女の髪を撫でながら言う。
「先生の先生のそのまた先生は女の子だったらしいよ…村一番の名手だったんだって。だからアッちゃんも頑張ろうね!」
言われた少女は頬を紅潮させて頷き、大きく手を振って帰っていった。
「五作さんの師匠って…」
「ちえさん……らしいよ。師匠、たまに「ちえ」って呟いてたなあ…そういえば。」
花男が眩しそうな顔をして境内から見える七色台を見つめた。
「あの半天にも名前が縫ってあったね。」
秀一も懐かしそうに呟く。
遠い昔、その二人に何があったのか―――思いを馳せながら暫く無言で白樺に覆われた七色台を見つめていた。
「オ茶、飲マナイカイ? 二人トモ。」
縁側で秀一の母ダバコが声を掛ける。
「いつも有り難う御座います、おばさま。五月蝿くありませんでした?」
花男がその名の通り、花のような笑顔でそう言って縁側に近付いた。
「大丈夫ヨ、チットモウルサクナイネ。アノ音聞イテルト…五作サンヲ思イ出スヨ。」
ダバコは懐かしそうに目を細めながら、お茶菓子を差し出した。
「おー大福美〜味そ〜う、母ちゃん僕のは?」
縁側に腰を掛け、茶を啜っていた秀一が子供のように手を伸ばす。
「残念、お前ノ分ハ母チャンガ食ベチャッタヨ、ゴメンネ〜!」
けらけらと笑いながらダバコは唇の端に粉を付けたまま、そそくさと立ち上がる。
「このくそ婆! なんで僕の分喰っちゃうのさ!」
悪態吐く様が子供の様だと思いながら、花男が自分の大福を器用に千切って半分を手渡した。
「はい、怒らない怒らない。一緒に食べよ。」
そう言ってニッコリ微笑まれて秀一はのぼせ上がったように耳まで赤くしながら黙ってそれを受け取る。
花男は楽しそうに大福を頬張る。秀一もそんな花男を見ながらかぶりつく。
薄桃色の花男の唇に白い粉が塗されていく様をつぶさに見つめていた。
花男がそんな秀一の目線に気付く。
「何? 何か付いてる?」
慌てて口許を指の背で拭い、片栗粉に気が付いて指先で払い落とす。
「やぁだ意地悪ねぇ、秀一ってば。」
拗ねてみせる花男。
「ち………ちがっ…………」
まさか可愛いと思って見とれていたとは言えなくて口ごもってしまう。ましてや拗ねてふくれっ面の花男も尚可愛いと思ってしまうだなんて、死んでも言えない。
花男は残りの大福をぽんと口に放り込んでからお茶を美味しそうに飲み干した。
「さて、あたしそろそろ行かないと…………秀一、来るでしょ?」
やや首を傾げて蠱惑的な目で見つめる。
花男にその気がなくても今の秀一には充分すぎるほど魅惑的な誘いだ。
「勿論行くよ! 行かないわけないべや。」
その言葉に花男は満足げに頷く。
「そうね、目下皆勤賞だもんねー。いつも有り難う御座いま〜す。」
立ち上がり、軽く頭を下げてから花男は花のように微笑んで手を振った。
「お店でお待ちしてまーす。」
くるりと背を向けて素っ気なく去っていく花男を見つめながら、秀一は小さな溜息を吐いた。
胸の中の想いは募るばかりで、一向に伝えることも出来ない。
せっかくこうして二人っきりになれても勇気が出せず仕舞いだ。
花男恋しさに毎日欠かさず店に通ってみても、大勢の馴染みの客に囲まれている花男に想いなど伝えることなど出来はしない。
見つめているだけで満足だと必死に自分を誤魔化しながら秀一は今日も「白樺」へと向かう。
一方花男は大急ぎで「白樺」へと戻り、二階へと駆け上がる。
村には生まれ育った家も有るが、母や姉に迷惑をかけるわけにはいかないと、都会で働いて貯めた資金を使い、民家を丸ごと買い上げて一階部分は店舗に、上階は自宅へとリフォームしていた。
戻ってきた花男は汗をかいた身体をシャワーで清めた後、手際よく身なりを整え華やかな装いをする。
クローゼットの中を物色し、お気に入りの赤いチャイナドレスを取り出すと身に纏った。
それに合わせて髪も軽く纏め上げ、華やかな髪飾りと大きめのピアスを着ける。
どこから見ても完璧に女性に見える事に満足しながら、花男は鏡の前でもう一度入念に自分を見つめ、大きく深呼吸して階下に降りていった。
昼のうちに仕込んでいた小料理などを温め直し、グラスや酒ののチェックを終えて一息ついたところで本日最初の客が現れた。
軽やかな鈴の音と共に数人が入ってくる。
狭い村内、大概の人間は恵織中学で先輩後輩にあたる。ましてやバンド活動で村の人気者だった花男達は今でも人気者だ。
「花ちゃ〜ん、今日も綺麗だね〜!」
「美味しいお酒飲ませて欲しいな。なんか珍しいの無い?」
口々にそんな事を言いながら笑顔で集まってくる客を花男も笑顔で迎える。
「ありがと〜v」
「丁度今日来たばっかりのお薦めのがあるわよぉ。飲む?」
今夜も「白樺」からは笑い声が絶えない。
秀一が扉を開ける頃にはいつもの如くほぼ満席。
「ちょっとぉ、遅いじゃない秀一! 席もう無いから、あんたは中入んなさい!」
少し酔っているらしい花男が、命令口調でカウンター内に強引に招き入れた。
「は…い………」
自分一人特別扱いに内心喜びながらも、仕方がないな…といった風情で狭いカウンターの中に入り、カウンター隅の最早専用になりつつある小さなスツールに腰掛けた。
スツールと言っても下が収納になっているもので、見かけは殆ど箱としか言いようのない物なのだが。
「ピルスナーがいい? それともレーヴェンにする?」
忙しく動きながら花男が振り返って聞いてくる。
「あー、レーヴェンがいいかな。」
花男がサーバーからよく冷えたビアグラスに手際良くビールを注ぎ、笑顔と共に差し出す。
「はい秀一。今日も一日お疲れ様v」
際どいスリットの入ったチャイナドレスが花男の華奢な肉体を綺麗に包みながら、匂うような色香を漂わせていた。
裾を翻して背を向けた姿を目で追いながら、琥珀の液体を口に含む。
長い手足を窮屈そうに縮こまらせて座りながらドイツビールを喉に流し込むと、ほろ苦くて爽やかな後味が身体に染み渡る。
ほうっと一息つき、楽しそうに忙しくしている花男の姿をぼんやりと眺めながらグラスの中のビールを飲んでいたらあっと言う間に飲み干していた。
自分でサーバーからビールを注ぐ。花男ほど上手には入らないで若干泡が多いがそれでもまあまあだ。
その場にいた光太からもビールを頼まれ、そちらも注ぐ。
「秀一から渡されても色気無くてつまんねえぞ〜!」
「うるさいわ! 色気が欲しいならこっちに頼むなや。」
そんな事を言いながら笑って手渡す。
カウンターに寄りかかりながら光太と取り留めのない話をしながらも、目は花男を追っていた。
花男はかつて後輩だった客に口説かれている最中だ。
「馬鹿ねぇ……あんた奥さんいるじゃない。あーんなに可愛いのが。」
やや呆れた口調でさらりとかわしている。慣れたものだ。
「でも……今は花男さんが好きなんですってば! 俺、真剣なんです!」
後輩は秀一達の一学年下で、昔から花男に憧れていたのも知っている。もっとも昔の憧れはドラマーに対するものだったが。
「有り難う。こーんなオカマのこと好きだって言ってくれるなんて、ホンっトに嬉しいわ。」
花男はにっこり微笑む。
「でも他人様の家庭を壊すようなのはイヤ。」
きっぱりと言い切り、まだ何か言いたげな後輩の言葉を続けさせない。
「大体あんた酔っぱらってこんなところで告白なんて……味気ないわねぇ。奥さんにもそんなことしたんじゃないのぉ?」
後輩は図星を指されたようで黙って僅かに頷いた。
「本当にあんた馬鹿ねぇ………女の子は夢を食べる生き物なのよ! 結婚したからって安心してたらどんっどん干涸らびちゃうのよー! 分かった!?」
いつの間にか好きな女に説教を喰らい、後輩は泣きそうな顔をしている。
そんな後輩の頭を優しく撫でながら、花男は小さくごめんね…と呟いたのを秀一は聞き逃さなかった。
花男はほんの一瞬だけもの凄く寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻っていた。
「よっ、花ちゃんいい女だね!」
光太がいつもの調子ではやし立てると、花男は途端におちゃらけたポーズを取った。
「でしょ? もっと褒めていいわよ〜光太。」
投げキッスすら飛ばす勢いだ。
他の客も同じようにはやし立てる。花男はそれを気持ち良さそうに一心に浴びている。
「でも花ちゃん…オカマには見えんよなあ……本気で惚れんのも解るわ。俺も時々勘違いしそうになるし。」
客の一人がしみじみ呟いた。
「花ちゃん、前の店でずっとナンバー1だったんだよ。俺びっくりしたもん。全然知らないでお店に行ったとき。」
光太がしたり顔で説明する。
「や〜だ止めてよ、光太。」
照れ笑いしながらも嬉しそうな花男。
「俺ね、友達に連れて行かれたんだけど最初ゲイバーだって知らなくてね……お店に飾ってある写真見ても全然花ちゃんだって気付かなかったさ。」
その店でナンバー1と紹介されて席に着いたのが花男だった。花男が光太に気付いて声を掛けなければ光太は多分永遠に気付かないままだっただろう。
程良く夜も更けた頃、客は一人…また一人と家路に着く。
その全てに笑顔で送り出す花男。
気が付けば残るは高志と秀一だけになっていた。
秀一はカウンターから抜け出し、カウンターの一番奥に腰掛けて高志となにげない話をしていた。
「ほらほらあんた達も明日仕事でしょ、早く帰りなさいよー。お店閉められないじゃないの全く。」
口ではそう言いながらも花男は気心の知れた連中だけなので、嬉しそうにくつろいで水割りを美味しそうに飲んでいる。
「もう一杯飲んだら帰りますよ。花ちゃんが水割りにしていたこれをロックで。」
花男は頷いてグレンリベットをグラスに注いで高志に出した。
「あんたは何がいい?秀一。」
花男が秀一の顔を見つめる。ほんのり赤らんだ顔が色っぽいな…なんて思いながら暫く見とれてしまう。
「ちょっとぉ…要らないのぉ? 秀一! 秀一ってば!!」
「酔っぱらったんですかねえ?」
高志と花男の二人で声を掛けてようやく現実にもどった秀一は慌ててカクテルを注文する。
「なんでもいいって…どんなのが飲みたいの?」
花男が困り顔で訪ねる。
「あ、じゃあ花男くんが一番得意なヤツ。前に一回作ってくれたアレがいい!」
花男はにっこり笑ってシェーカーを取り出す。
慣れた手つきで全ての酒とレモン果汁をシェーカーで振り始めると、きりっとした顔つきになる。
凛とした表情にまたもや見とれてしまう秀一と、そんな様子を面白そうに見ている高志。
グラスの中身を飲み干すと、何やら言いたげな笑みを浮かべながら静かに席を立つ。
「じゃあ僕、帰りますね。お金はここに置いておきますから。」
「はぁい有り難う! 夜道、気を付けて帰ってね。」
手を止めずに花男が答える。
高志は秀一に近づき、そっと静かにそう囁いた。
「お邪魔者は去りますから……頑張って下さいね。」
肩に軽く手を置いて花男に聞こえないよう小さな声でそう告げると、含み笑顔で立ち去る。
「…………あのやろ。」
秀一が顔を真っ赤にしていると、カクテルグラスに淡い紫色の液体が静かに注がれた。
「はいお待たせ。ブルームーンって言うのよ。」
柔らかな笑顔で差し出されたそれを受け取り一口含むと何やら華やかな香りが広がる。甘すぎず、辛すぎない不思議な風合いのカクテルは以前花男が得意だと言って出してくれたものだ。
綺麗な色合いと花のような香りが花男を思わせる。
「………美味しい?」
隣りに音もなく腰をかけ、やや首を傾げながら聞いてくる。夜半も過ぎ、ややほつれ気味の纏め髪が緩んで花男の白い顔に幾筋か掛かり、妖艶な雰囲気を醸し出している。
「なまら美味しい………花男くん、何でも器用にこなすよねぇ……。」
秀一がうっとりとした目つきで呟く。このカクテルは飲み口は良いがかなり強めなので、酒は好きでも弱い秀一はあっと言う間に酔いが進んでしまう。
アルコールの勢いと花男のしどけない雰囲気が秀一の自制で抑えていた理性をかき消していたのか、今まで聞きたくても聞けずにいた言葉がするりと口をついて出た。
「ねえ花男くん………花男くんはさぁ、好きな人とかいないの………?」
とろんとした目で花男をちらりと見ながらグラスの残りに口を付ける。
「何よ突然………………いないわよ、そんなの。」
花男がほんの僅かに表情を固くした後、慌てて笑いながら否定した。
その態度に秀一にはぴんとくるものがあった。今まで何度もその手の質問をされても一切笑みを崩すことの無かった花男を傍で見てきただけに、その微かな表情で解ってしまったのだった。
「あー………そっかあ。やっぱり好きなヤツいるんだぁ………花男くん。」
アルコールがどんどん回り、秀一はカウンターに上半身を突っ伏させた。
好きな男がいると確信してしうと、どうにもやるせない気持ちになってしまう。
「どんなヤツ? 俺の知ってるヤツかい? ここ来たこと有る? 街にいたときから好きなの?」
一旦身体を起こし矢継ぎ早に質問を投げかけるがどうにも目頭が熱くなるのを止められず、秀一は再び突っ伏して花男には解らないように溢れてくる涙を袖で拭った。
「…やぁねえ…………酔っぱらい。」
呆れたように言いながら、グラスの水割りをぐいっと流し込む花男。
身体の大きな秀一が背中を丸めて突っ伏している様をぼんやり眺めていたがそっと手を伸ばして肩に手を置く。
びくっと震えた大きな身体をゆっくり撫でながら呟いた。
「秀一……………」
花男は子供を寝かしつけるように優しく背中をさすりながら、更に呟く。
「起きて………ほらもう帰らないと………」
「やだ、帰んねえ!」
子供の時と全く変わらない口調で駄々をこねる秀一に花男は笑みを浮かべながら、根気よく話しかけていた。
「ねえ秀一………お願いだから起きて……起きないと――――キスしてあげちゃうんだからあッ!」
そう言って無理矢理頭を抱え、その時ばかりは男の力で抱き寄せた。
秀一の涙とアルコールで真っ赤な目を見て一瞬怯むが、極上の笑顔のままで両手で挟み込んだ秀一の顔に自分の顔を近付けるとそっと頬に唇を押し当てた。
秀一がふらふらと夢見心地の足取りで帰ってから、花男は店の奥の扉を開け自宅スペースへと戻る。
着替えも何もせずベッドに潜り込んで自分の両肩を抱え、膝を縮めて胎児のように丸くなっていた。
「………………何なのよ……………あいつ……………」
時折小さく呟きながらまんじりともせず、時折頬を涙が伝う。
僅かにしゃくり上げながら明け方まで過ごしていた。外が白み始めた頃、ようやくベッドを抜け出してシャワーを浴びる。
熱い湯が白い身体を勢いよく伝うのを感じながら、思いの全てを洗い流してくれるように願っていた――。
秀一は突然の頬の口付けと酒の酔いで半ば呆然としながら寺へと戻り、布団に辿り着く前に自室の前の廊下で行き倒れているところを母・ダバコに早朝発見された。
いい歳をして母親に尻を叩かれ布団へと這っていく。
そして朝のお勤めをすっぽかし、昼近くまで布団の中で過ごした。
目が覚めると見事な二日酔い。
酔いを醒まそうとシャワーを浴びるが、一向に頭はスッキリとしなかった。
何か大事なことがあった筈だが一向に思い出せない。
ぶるぶるっと頭を振り闇雲にシャンプーを手に取って髪を洗うが、多すぎる溶剤に溢れ出し垂れてきた泡が目に染みてそれどころではなくなった。
どうにかスッキリしたところでぱりっとした作務衣に着替え、遅めの朝食を取る。
「随分飲ミ過ギタネ……弱インダカラ余リ無理シナイ。仏様怒ッテルヨ…朝ノオ教モアゲナイナンテ!」
ダバコが呆れながらも心配そうな口調で食後のお茶を差し出す。
無言で頷きながら出されたお茶を一口啜ったところで、昨夜の事をぼんやりと思い出した。
花男に半ば強引に頬にキスをされた事を。
慌ててその部分にそっと掌で触れてみた。昨夜唇が触れた部分がまだあの温もりを覚えている。
途端に顔が緩みっぱなしになる秀一にダバコは不思議そうな顔つきで眺めている。
暫くニタニタしていた秀一だが、ふと花男のあの時の顔の強ばりを思い出し、途端に表情を無くした。
自分の頬を撫でながらかを顔を緩ませたかと思えばいきなり無表情になる我が息子を、ダバコは暫く不審げに見ていたが、小さく呟いて立ち去った。
「ドウシチャッタノカネ…コノ子ハ……?」
その夜、「白樺」にいつものように訪れた秀一は扉を開ける前に大きく深呼吸をした。
花男に好きな人がいて当然だ。男なら好きな相手の幸せを願うべきだ―――――そう思い、必死で心を落ち着ける。
自分は傍で見ているだけで満足だ。
何かあったら守ってあげられればそれでいい。
近くにいられるだけで充分すぎるほど幸せだ。
そう何度も何度も繰り返し呪文のように自分に言い聞かせてから扉を開けた。
「遅〜い秀一! 早く飲むべ〜!!」
明るい光太の声が響き、花男はカウンターの中で水割りを作っている。
ちらりと秀一を見遣り、いつもの花のような笑顔で『いらっしゃい』とだけ言う。
光太が一つ奥に詰めて隣を空けてくれたので、そこに腰掛けると花男をじっと眺める。淡いサーモンピンクに同色の大きな花の模様が縫いつけてあり、ビーズやスパンコール等で飾られたホルターネックのロングドレスを着ていた。
間接照明に布地がキラキラと反射して花男の白い肌にとても良く映えている。
「………何飲む? ビール?」
ミキシンググラスを片手に花男が聞いてくる。
「あ、今日はピルスナーがいいなー………」
精一杯の作り笑顔で秀一が答えると、花男もいつもの笑顔だ。
サーバーからグラスに綺麗な金色のビールが注がれたかと思うと目の前に差し出された。
「はい迎え酒。昨夜は無事に帰れた? 珍しく随分と酔ってたわねえ。」
そう言うとくるりと背を向けた。
「あれ? 何よ秀一……そんなに昨日酔ってたっけ?」
何も知らない光太がきょとんとした顔でグラスの中身を呷る。光太の隣りにいた高志がちらりと秀一を見遣ると小さくウインクした。
『ちゃんと言えたか?』
その眼差しはそう語りかけているようで、秀一は咄嗟に俯いて首を小さく横に振った。
「あれぇ…あれあれあれ、なしたのぉ? 秀一……何かあったのかい?」
興味深げな光太を制するように高志が違う話題を振ると、光太の興味はあっと言う間に反れた。
ホッとしながら会話にさり気なく混ざる。
途中ちらりと花男の方を見ると花男は別の客を相手に楽しげに笑っている。
―――――何があってもこうやって見守るって……やっぱりしんどいわなあ…………。
秀一が小さく溜息を吐いたのを高志だけが気付いていた。
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