LOOSER 〜時空(とき)の彼方に〜






◇其の壱◇


LOOSERの簡単なあらすじは此方でどうぞ



 仄かな闇の中に、鈍く光る刀が翻った。
必死で遮って自らの身体を盾にしたシゲの耳元に、ひゅんと風を切る音が響き……肩口に妙な衝撃が走る。それはどちらかといえば棒か何かで叩かれたような、重い感触だった。
衝撃はあっと言う間に左の首筋から右の脇腹を突き抜けていた。
目の前にある般若のような顔は、土方歳三。新選組の副長を務めている男だ。
鬼気迫る顔つきの彼の中に、ほんの一瞬だけ何かの表情が浮かんで消えたのを見ながら、シゲは自分が斬られたのだと言うことをその時になって漸く理解した。

―――俺の大義は……今、この場から桂さんを逃がす事だ………―――

身体からはゆっくりと力が抜けていく。だが気力を振り絞って、シゲは無我夢中で再び土方に取り縋った。
けれども最早その腕に力など籠もるはずも無く、あっさりとはね除けられてその場に崩れ落ちた。
斬られた身体は、燃えるように熱かった。
自分の身体ではないような感覚がじわじわと首筋から広がり、そのまま前のめりになって足元に突っ伏する。
霞んでくる目にもう辺りのものもはっきりとは見えないのだが、畳の上にじわじわと流れ出しているものは、多分……血だ。
妙に鮮やかな色合いの赤い液体は、まるで生き物のように畳の上を這い、ねっとりとした赤い水たまりを作り出していく。
 この時点になってから漸く自分がここで死ぬのだと言うことを、シゲは実感し始めていた。
確かにあの歴史書にはこう書かれてあった。『吉田稔麿は池田屋事件にて斬殺』と。
目の前に広がり続ける赤い闇にとらわれながら、シゲはほんの少しその顔に笑みを浮かべた。
此処で歴史書通りに自分が死ねば、桂は必ず後世に生き残り、のちの木戸孝允となる。そして明治という世の礎を築く筈だということを、シゲは知っていた。
シゲの目の前には、どの教科書にも載っている筈の百五十年後に残る筈の真実だけがあった。だからこの場で死を迎えることも、最早厭わないとすら思えてくる。
今まで何を望もうとも、何をなし得ることもできなかった人間が、その後の日本という国の基礎とも成るべき時代に、陰でとはいえ関わることが出来るのならば、ここでひっそりと死んでいくのも構わないのではないだろうか……そんな思いに満たされながら、目を閉じる。
俊太郎が命を賭してまで助けた桂を、この場で無惨に散らすことなく逃し仰せたことに、自分を誉めてやりたい気分だった。
多分俊太郎が生きていれば、そしてもしも彼がシゲと同じ立場であったなら……きっと同じことをしただろう――そんなことを思いながら唇を噛みしめた。

 徐々に意識が遠ざかる。もう何も見えはしない。
もう赤い色すら見えなくなった闇の中に引きずり込まれながら、シゲはぼんやりと思っていた。

―――――吉田稔麿も、教科書には名を残してはいなかったな…………と――――――。



 弾かれたように飛び起きると、そこにはびっしょりと汗をかいてベッドの上に上半身を起こし、茫然としている自分が居た。
訳が解らないまま茫然と辺りを見回す。確かにそこは自分の部屋の中で、窓の外から差し込んでくる外灯の灯りだけが、ぼんやりと薄汚れた室内を照らし出している。
まだ額から幾筋もの汗が滴り落ちていた。喉もカラカラだ。
水を飲もうと立ち上がった瞬間、不意に、斬られた時の感覚がリアルに戻ってきて、小さな叫び声をあげながら思わずその場にしゃがみ込んだ。
慌てて首筋や胸元を指先でまさぐってみたが、傷らしきものの感触は当然ながら感じられない。
…………そう、全ては薬がもたらしたであろう、非現実の出来事なのだから。


 佐藤重幸はきわめて平凡な今時の人間であるといえる。
何かをやり遂げようと思っても結局何も上手くいかずに、途中で諦めて投げ出してしまうような、無軌道で無計画なな人間のうちの一人だった。
三十歳になった今も定職にも就かず、気の向くまま適当にバイトをし、明確な目標も持たずにぶらぶらと生きている。
この歳になっても自分の人生には何もないのだから、この先ももう何も起こるわけがない、生きる価値など見付かる筈もないだろうと、捨て鉢で時を過ごしている。
いい加減で適当で、何があっても無関心で無気力な毎日。
美味しいものを食べようとか、楽しいことを見つけようとか、そんな当たり前のことすら億劫になるほど、自分という存在にすら執着していない。
見てくれが良くて一見明るい雰囲気なので、常に女性にも不自由はしない。当然彼女と呼べる女性もいる。
だがその彼女に対してですら、何の情熱を持てずにいた。
最初のうちは多少なりとも興味を示しても、付き合いだしてすぐにその感情は色褪せてゆく。空気のようにどうでもいい存在に堕ち、ぞんざいな態度しか示せなくなってしまう。
会って話していても、ときめかない。
身体を重ねてみても、何の感情も思い出せない。
ただ快楽を追い求めようと思っても、殆ど全くと言っていい程気が乗らない。
だからそのうちそんなことすら億劫になって、次第に同じ時間を過ごすのですら苦痛に感じる始末だ。
自分の事すら投げやりなのだから、他人への興味が持続するわけがないのも当然なのだが。

 流石にそんな自分に嫌気がさして、シゲは今までに二度程、怪しげな例の薬を手に取った。それは狸小路をあてもなくぶらついていた時に出会った黒ずくめの汚らしい男から、半ば強引に押しつけられた代物だ。
最初は面白い幻覚を見せて貰えればそれでいいと、軽い気持ちで飲んでみた。
二度目は空虚な自分から必死で脱したくて、飲み干した。一包み飲めば十年時を遡ることの出来るという白い包みの薬を、一気に十五包み。
飲めば再び幕末の時代へと舞い戻る事が出来る。何かを探しに。いや、自分を捜しにともいうべきか。
今まで何一つまともに生きることの出来なかった無気力な自分にも、きっと何かが出来るような気がして。
自分の人生にはきっと何かがあると思いつつも…やはり何があるわけでもなく、ただ死んだようにしか生きることの出来なかった自分に、シゲは自分自身でもずっと嫌気がさしていたのだ。
 現に幕末に行くことにより、長州藩士達や新選組の隊士達と触れ合うことで、シゲは自分に欠けていた何かに気付き始めていた。
真剣に国を憂い真摯に生きている幕末の彼らの生き方に、心の奥底で眠っていた何かを揺り動かされ、何らかの衝動に突き動かされる自分に出逢えたのだった。


 古高俊太郎の思いに触れ、その死に直面することによってシゲはあの夜、自ら池田屋に出向いた。
行けば確実に死ぬことを解っていて。
決してあの時のシゲの中で、投げやりな思いなど微塵もなかった。ただ、俊太郎の思いを無駄にしたくなかった。
あの夜……桂の、俊太郎の、そして土方のめいめいの思いが交錯したあの池田屋で、シゲは自らの命を桂の前で盾にしたのだった。


 あの瞬間、確実に死んだと思った自分は今………死んではいなくて。
もとの時代に戻ってしまえば、あの時の思いを身近に感じることなど当然出来はしない。
だからこそ、シゲはもう一度戻りたかった。自分が漸く生きるということの何かを本気で感じられたあの時代に。
もう少しあの場にいれば、自分の人生の中で失ってしまっていた大事なものを取り戻せるかもしれない……。そんな思いに駆られ、シゲは三度あの包みに手を伸ばしてみる。
白い包みはあときっかり十五包みしか残っていないから、これがきっと最後の体験になるだろう。
山南であり稔麿であったシゲはあの池田屋で死んでしまったのだから、今度は誰になるか解らないが、それもまた少し楽しみな気がする。
乾いた音を立てる包みを開き、シゲは口の中に粉末状の中身をさらさらと滑り落としていた。

 この世界に来て約一年が経とうとしている。本当にタイムスリップしてきているのか、それとも目覚めればただの一夜の夢なのかは、シゲには未だに解りはしない。だが、今肌で感じている事柄の全ては、シゲにとってはひしひしと感じられるリアルな現実である。

 薬を飲み干した後は毎度のことだが意識が朦朧とする。どの位の時間が経過しているのかは定かではないが、やがてふっと意識が戻ってくると、大概自分が居るべき場所の前に立っているのだ。
今回も気が付いた時、何処かの屋敷の前に立っていた。だがその場所に全く見覚えはなかった。
見慣れた京の都はもっと柔らかく雅な雰囲気を纏った土地であったが、この場所はどちらかというと無骨でがっちりとした男性的な造りの建物が並んでいる。
どうやら此処は新選組の新しい屯所のようであった。
「あのー……」
門の前で見張りとして立って居るであろう隊士には、どこか見覚えがある。口ごもりながら話しかけると、返ってきた隊士の口調は刺々しさが感じられた。
「鉄之助! 一体お前、何処に行っていた。先程から副長が探しておったぞ!」
「……てつ…のすけ?」
その様子に隊士はポカンとしながら背中を強く叩いた。
「どうしたよ、しっかりしろ鉄之助。ぼうっとしてる暇なんてありゃしないぞ。」
やけに周囲の人間は皆殺気立っているようで、ただならぬ気配だけが漂っている。
屋敷に入り色々な隊士に探りを入れながら話をしてみて解ったのは、どうやらここは関東らしい事。
今度の自分の名は市村鉄之助という土方付きの小姓で、随分と土方に可愛がられているらしい事。
そして姿が一切見当たらない隊士のうち、沖田は肺の病を悪化させ千駄ヶ谷で療養中で、古参隊士の中核を担っていた永倉や原田達が、つい先だって新選組と袂を分かったとも聞かされた。
あまりの情勢の変化に混乱しまだ訳も解らないままのシゲの耳に、突然奥の座敷から聞き慣れた声が響いてきた。
「誰か……誰かいるか!」
その声の響きは、忘れようとしても忘れることなど出来ない。
あの池田屋の夜、新選組の名を上げるために桂の命を狙い、挙げ句にシゲを斬り捨てた男に他ならなかった。
ガタガタと襖がなったかと思うと、勢い良く開かれた。
「おお鉄之助。此処にいたのか。探したぞ、今まで何処に行っていた。」
脳裏に焼きついた般若の表情からはほど遠い、土方の優しげな笑顔がそこにあった。
「ひじ……かたさん……」
今のシゲにはそれだけを言うのが精一杯だ。唇が微かに震えてしまう。
土方は訝しげにシゲを少しだけ見つめてから、つかつかと近寄ってきて肩に手を置いてきた。
流石にびくっと身体が震える。
今も目を閉じればあの時の記憶が鮮明に蘇ってくるのだ。
闇の中で獣のように目をぎらつかせ、刃を翻した鬼の形相を……きっとシゲは一生忘れることはないだろう。
「……どうした?」
肩に置かれた手にぎゅっと力が篭められるのを感じて、シゲは思わず身体を強張らす。
「沖田の所へ見舞いに行こうと思っていたのだが……体調が思わしくないようだな。お前は休んでいろ。」
肩から手を離してその場を去ろうとした土方の背中に、シゲは恐々と声をかける。沖田の見舞いと聞いて、勇気を振り絞ってみたのだった。
所詮この時代に戻ってきたので有れば、どうしたって土方と出会わないわけにもいかない。そう思って一応覚悟は決めてきた。これしきのことで怯んでなどいられない。
「いえ……お供いたします。土方さん。」
慌ててそう言い、怪訝な顔をしてこちらを見る土方を真っ直ぐに見つめ返した。


 沖田は見る影もなく痩せていた。青白い顔には血の気が無く、目には弱々しい光しか宿っていなかった。
前に壬生の屯所にいたときは生き生きと輝いていた彼だったが、病に蝕まれた今はあの時の面影もない。
だがそれでも土方の顔を見ると、嬉しそうに身体を起こして出迎える。労咳に効くという虚労散薬と共に手土産にと持ってきた菓子を、子供のように喜んで眺めながら、彼は再び元気になり必ず新選組に戻ってみせると何度も何度も呟いていた。
まるでお呪いのように。
――――誰もが解っていた。もう、沖田の余命が幾ばくもないことを。
だが懸命にそんな事を打ち払おうとする沖田に、シゲは自分が一体どんな顔をしていいのかすら解らずにいた。
「鉄之助。」
ふと沖田に名前を呼ばれ、つい身を乗り出す。
「……ああ、あんまり近付いちゃいけないよ。この病は伝染るから。」
その言葉に思わずうろたえてしまうシゲに、沖田は静かに微笑んで語りかけた。
「土方さんを頼むね。この人さぁ……本当、無鉄砲だから。いざとなったら君が止めるんだよ、いいね?」
沖田はそう言ってから土方に顔を向ける。
「土方さん。」
「総司、お前何を改めて言ってやがる。訳の解らん事を言う前に、とっととその身体、綺麗に治して戻ってこい!」
土方が顔色も変えずに言った言葉を、総司は笑顔で嬉しそうに聞いていた。
「隊が大変なときに、お傍に居られなくて本当に申し訳ないと思ってます。必ず僕は身体を治して隊に復帰しますから……貴方もそれまで決して死なないで下さいね、土方さん。また、みんなで殿様遊びやりましょう。今度は鉄之助も交えて……また、昔みたいに。」
時折苦しげに咳き込みながら総司はゆっくり言い終えて、また微笑んだ。その笑顔だけは、芹沢や近藤や土方と戯れていたあの遠い日と少しも変わってはいなかった。

総司がひっそりと息を引き取ったのは、それから僅か二ヶ月足らずの事だった―――――。



 それからの状況は、もの凄い勢いで激流を流されていくかのようだった。
近藤が処刑され、沖田が病死し、土方はその身を負傷していた。
会津に入ってひっそりと療養を続ける土方の顔からは、以前の鬼気迫る迫力は次第に失せていくのが常に傍で見ているシゲにはよく解る。
当初は戦線を離脱した焦りや苛つきを見せていたのだが、土方はその目の中に徐々に諦観にも似た穏やかなものを宿しつつあった。
「土方さん……薬、持ってきましたよ。」
常に笑顔でいるように、シゲは務めている。出来るだけ土方に不安を感じさせないように。
幕府方の旗色はますます悪くなるばかりで、今やこの会津でも彼らの身は安全とは言い難くなってきていたのだが、今はとにかく怪我を治すことにのみ専念して欲しかった。
「ん? ああ、有り難う。」
身体を起こして庭の花を眺めていた土方が、シゲをちらりと見遣ってから静かに呟いた。
「この庭も、随分と綺麗な花が咲いてきましたね。」
努めてさり気なく言いながら盆に乗せた少量の酒と薬をそっと枕元に置き、シゲはその場に座った。薬はかつて土方が各地を売り歩いていたもので、今も隊士の打ち身や接骨などの治療薬として、土方の生家から取り寄せている。
「そうだな……随分と、綺麗だな。」
かつて鬼と恐れられていた男は、いつの間にか大人の落ち着きをはらんだ瞳で夏の庭を眺めていることが多くなっていた。優しい瞳で花を愛でているような気がして、思わずシゲは無意識に笑みを漏らしていた。
「どうした鉄之助。何がおかしい?」
「…いえ、大したことでは。」
はにかむように笑いながら、薬の包みを渡そうとした手が、ふいに土方の大きな手に掴まれた。
「そういう悪戯っぽいお前の目は……なにか、遠い日を思い出させる。」
じっとシゲの目を覗き込みながら、土方は懐かしそうに呟く。
「子供の頃を……ですか? こんな顔したご友人でもおられましたか?」
ドキリとしながらも、何事もないようにさらりと受け流す。
「いや……さして遠い昔でもないさ。ほんの数年前のことだ。だが、私にはもう遙か遠い事のように思えて仕方がない。」
土方の目はシゲの目を見つめながらも、その奥に何か違うものを見ているような遠さを感じさせていた。
「お前のような目をした隊士が…いた。無邪気で無鉄砲で一途な、時折壮大な夢物語をまるで本当のことのように語る夢想家が……お前と同じ目をしていた。」
その言葉にシゲは僅かに身を強張らせた。
土方が気付いている筈はない筈だ。自分で鏡を覗くとその中にはちゃんといつもの自分の顔がそこにはあるが、どうやらこの時代の人間には、全く違って見えているらしい。
恐らくあの時の山南と、今の鉄之助では全く違う姿を持っていたであろう事は間違いないと思われた。
絶対に気付く筈もないのだ。こんな荒唐無稽な出来事には。
「……光栄です。」
一言だけ言って、シゲは土方の手の中に包みを置くと手を引っ込め、今度は燗された酒を渡した。
「―――すまんな、変な話をしてしまって。別に他意はなかったのだが。ただ、どうも床でじっとしていると考えなくても良いことまで考えを巡らせてしまうようでな。」
そう言うと、土方は穏やかな顔で酒と散薬を口にしていた。



 ある程度傷が癒えた土方は、その後幕兵達と共に果敢に戦闘を繰り返しつつ進軍していく。
会津から猪苗代を経て仙台へ。そしてついには戦艦大江へと乗り込んだ。
時代は既に明治を迎え、旧幕兵達は逆賊として追われる身となっていた。土方は榎本武揚らが築き上げようとしていた蝦夷共和国に賛同し、箱舘を目指したのだった。
 勿論シゲは片時も土方から離れず、常に付き従っている。
泥に塗れながら転戦北上を続け、何度も危ない目に遭いながらも尚、土方の傍を離れることなく一緒に泥水を啜る。
この先に何が待ち受けているのか――――勿論解ってはいた。だが今は、ただ土方と共に懸命に行く末を模索していたかった。


 「…此処にいたのか。寒くはないか?」
夕闇が迫る頃、一人で甲板から海を眺めていたシゲに背後から声をかけたのは、土方だった。
船はゆっくりと箱舘港に向かっていた。新撰組隊士の生き残りを乗せて。
「はい大丈夫です。土方さんは?」
春とはいえ海の上の風はまだ断然に冷たい。それを察したのか、土方は自分の来ていた外套をシゲの肩に掛ける。
「私なら……平気だ。」
夕暮れの海だった。辺りが暗くなりきる直前の、僅かな淡い茜の色が空と海を染め上げている。
波を蹴って箱舘港へと向かう船は、重たい疲労感の中でしんと静まり返っていた。
「鉄之助……」
土方がゆっくりとその名を口にした。
「お前は箱舘に着いたら、再び船に乗って……帰れ。」
「土方さん!?」
突然の言葉にシゲは動揺を隠せず、土方の顔を見つめた。此処まで来て、逃げるわけなどいかないというのに。
「…この戦……勝てぬ。お前だけはどうか生き延びて欲しいのだ。解るか? 鉄之助。」
「解りません! 私も最後までお供いたします……どうか……どうか傍にいさせて下さい!!」
穏やかな口調で微笑む土方に、シゲは懸命に懇願したが、一向に土方は首を縦には振らない。ただ淋しそうに微笑んでいるばかりで。
「ならぬ。お前には私の遺言と遺品を……私の家族の元に届けて欲しい。」
じっと目を見つめた後、土方は更に続けた。
「昔……百五十年後の世界を語る隊士が居た。荒唐無稽なことばかり言っていたが……今はあの者の言っていた言葉が身に染みて解る。」
土方はその時のことを思い出すかのように、遠い目をして夕闇を見つめた。
「彼奴があまりにも百五十年後のことばかりを語るので、私も随分と気になってな……」
着ていた黒い上着のポケットから黒い包み紙を一つ取り出し、シゲの方をちらりと見て笑った。
「それは……」
「なあに。ただ一夜のうたかたの夢よ。」
意味ありげに言ってから、そっと薬を再びポケットに戻した。
「だが戯(ざ)れた夢にも、何かしら意味はある。あの世界が……この国の行く末だというならそれも一興。」
「……土方さん………」
身体が小刻みに震えた。
もしかしたら土方はずっと気付いていたのか―――解っていて、この戦いに参加していたのだとしたら………それはあまりにも残酷なことだ。
「……すまん。訳の解らない話をしてしまったようだな。」
海風で冷えてしまったシゲの髪を軽く掻き上げた土方の指先もまた、ひんやりと冷たかった。
「早く中へ入りなさい。風邪を引くぞ。」
そう言ってくるりと背を向け、土方は艦の中へと消えた。
淡く残っていた茜色も今はすっかり消え、辺りは濃い藍色に染められていくばかりだった。


 翌日、大江は無事に蝦夷地の港、鷲ノ木へと到着した。多くの負傷者を抱えても尚、土方は戦いを止めることなく再び精力的に動き始めた。一行は行く先々で新政府方の松前軍と小競り合いをしながら、周囲の地を鎮撫してゆく。季節は既に秋から冬へと移り、寒々しい雪が舞い散る中の進軍だった。
 その後五稜郭が無血占領され、その後榎本が高らかに蝦夷平定を宣言した。新選組は箱館市中取締を任ぜられ、土方は陸軍奉行並に就いた。
それはほんの僅かな平和に過ぎなかったが、それでも戦いを続けていた隊士達には久し振りの休息とも言える時間となった。箱舘の町は賑やかに活気づき、シゲはそれを穏やかな目で眺めていた。
 だがそんな情景も本当にささやかな時間でしかなく、時は確実に明治の世へと移行していく。
もうこの歴史の流れを止めることなど、誰にも出来はしないのだから………。

 新政府軍の追撃が激しさを増してくると、土方は新選組の一部の者や伝習隊、衝鋒隊など三百余名を率いて箱舘から江差へと向かう山道沿いの天狗山に前線基地を配置し、二股口台場にいくつもの胸壁を築き上げた。
この場所は新政府軍との筆舌に尽くせぬ激戦地だった。危うくシゲも銃弾に巻き込まれるところだったが、間一髪土方の手により助け出され、事なきを得たりもしていた。
あの大江の甲板で交わされた土方の言葉は、半年以上を経た今も今のところ実行には移されず、シゲは内心ホッとしていた。このままあの言葉は無かったことになればいいと…一人ひっそりと願っている。
鉄之助が年若い為にその命を惜しまれているので有れば、遺言と遺品を日野の土方の親族に届けるのは同じ年頃の別の者であっても良い筈だった。
一度はその命を土方によって奪われ、瀕死の境地は嫌と言うほど味わった身である。今更この戦地で果てることなど、恐れてなどいなかった。
今恐れているのはただ、土方の傍から引き離されること。それだけだ。
何故それを恐れているのか、シゲ自身には明確な答えは解らなかったが、今この地を去るということはたった一人取り残されて生きていくことと大差ないからだと、漠然とそう思っていた。

出来れば最後まで……この戯れな夢の中であらん限りの生き方をしてみたいのだと、そんな思いを胸にしていた矢先、遂にその時は来たのだった。





◆小説◆  ◆戻る◆  ◆続く◆





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