river…共犯者
2
あの夜から、佐々木は頻繁に九重の元を訪れた。
逢えば必ず、身体を求めてくる。
九重も拒むことなくそれに応じた。店じまいした後の店内や、九重の部屋で………佐々木はいつも言葉少なに、それでいて優しく九重を抱き締める。
計画実行までの数週間の間に、一体二人は何度身体を重ねただろうか。
九重は佐々木のことを殆ど何も知らなかった。だがそれでも良かった。知りたいとも思わなかった。
今、抱き締めあえる佐々木がいれば、彼の職業も消したい過去も何も知りたいとは思わなかったのだ。ただ一つの例外を覗いて。
佐々木が九重を抱いている間にも時折佐々木の携帯に入ってくる電話やメールが……否応なしに事実を告げている。―――彼女がいるのだということを。
九重が佐々木の彼女のことを気にしても、佐々木は寂しそうな笑みを少しだけ浮かべながらいつも『いいんだよ…』とだけ、呟く。
……そう。どうせ例の薬が手に入ればこんな関係など、泡と消えてしまう。
自分達にとっての不要な記憶は消してしまえる。簡単にリセット出来るのだ。
そうすれば、二人の関係は最初から何も無かったことになる。ただの小学校の時の同級生で終わり、彼女に対して後ろめたい事実など、何もなくなってしまう。
記憶を消すまでの間、その間だけの秘かな恋心。
たとえ今、多少胸が痛くたって……あと少しすれば永遠にそんな感情など失われるのだから――――
二人とも口には出さず、そんな思いのまま抱き合っていた。
…………忘れてしまえば、いい。それでいいのだ…………と。
計画実行の朝。それぞれが様々な想いを抱えたまま、目を覚ます。
九重は目覚ましを止めたあと、まだ気だるい身体に熱いシャワーを浴びて渇を入れた。
この湯の流れと共に、今までの全ての事を洗い流してしまおう――――そんな想いを抱えて。
胸の奥がちりちりと痛むのは、この朝を境に全てが消え失せるから。
計画通り製薬会社の工場へと潜入するのは佐々木・九重・藤沢の三人。
縫いぐるみに着替え、子供達に愛嬌を振りまきながら刻々と迫る計画実行の昼を待った。
その間も九重は自分の右脚が気になって仕方がない。こんな時になってまでこの脚が枷になるのかと思うと、やりきれない思いが押し寄せてくる。
休憩時間、弁当を配りに来たイベンターに発作的に脚のことを尋ねてしまった九重に対して、佐々木は咄嗟に『大丈夫だよ…』と声をかけた。
その言葉には痛い程の慈しみが込められている。それが九重だけには解っていた。
涙がこみ上げそうになるのを必死で堪え、九重は懸命に冷静な自分を取り戻していった。全ては計画遂行の為に。
縫いぐるみを脱ぎ捨てて工場の制服を着た三人は、急いで薬の保管庫へと向かう。
何とか例の薬を手に入れることに成功し、あとはこの場所から上手く立ち去って待ち合わせのあの場所へと向かえばいいだけだ。
彼等の母校…豊陵小学校へ。
大きな下水道の中に侵入し、ひたすら走った。
過去から逃げるように…必死で。
右脚が思うように動かない九重がどうしても遅れがちになっていたが、佐々木が一旦引き返して手を差し出す。
走っては転ぶ九重を助け起こし、ほんの一瞬ぎゅっと強く握ってから、手を離した。藤沢に気付かれないように………
九重を見つめる目が、握りしめてきた手の熱さが、今も尚『大丈夫だよ…』と九重に語りかけていた。
「…やばい事しちゃったよな。」
不意に藤沢が立ち止まり、呟いた。
「今から戻れば…何とか誤魔化せないかな……」
明らかに怖じ気づいている。こんな状況になってから言って良い言葉ではなかった。
「今更、何バカなこと言ってんだ!」
今まで必死で走ってきた九重の中に押さえきれないほどの怒りが湧いてきて、気が付けば藤沢に殴りかかっていた。
「やめろ! やめろって!!」
ずぶ濡れになってもつれ合い、互いに感情をむき出しにしている二人の間に佐々木が必死で割り入ってきて、渾身の力で引き離す。
だが九重の中には未だ怒りの炎が燻っている。それが全て幼い頃からの藤沢への不信感に繋がっていることは、薄々解っていた。苛立ちを隠せずにいながらも、今は計画の実行が先決と……九重は必死で感情を押し殺す。
やがて三人は表面的には冷静さを取り戻し、また下水道の中を走り出していた。
指定のマンホールから這い上がり、停車してあったワゴン車に乗り込む。三人とも皆、無言だ。
佐々木が運転し、九重は当然のように助手席へと乗り込んでいた。今はほんの少し、あと少しだけ残された時間を少しでも佐々木の傍で過ごしたかったからなのかもしれない………
ワゴン車はスピードを上げて街中を抜け出す。やがて窓の外にはのどかな風景が広がりだしていた。
暫く走ったところで車を停め、佐々木と九重も着替えをする。後部座席では先に着替えを済ませた藤沢が無言で座っている。
佐々木は胸につかえている疑問と後悔の念に、一人押し潰されそうになっていた。幾ら警察官失格とは言え、本当にこの流れに身を任せてしまっても良かったのだろうか? という疑問がうち消せずにいたのだ。
そんな佐々木の横では着替えを終えた九重が一息を付いているところだ。その横顔を眺め、今度はずきりと胸が疼く。あと少しで……九重と肌を重ねた全ての記憶が、忌まわしい過去と一緒に消え去ってしまうのだから。
通りかかる車もほとんど無い田園の中、一旦停車させて佐々木が車から降りた。未だ胸の奥に燻り続ける九重への想いを断ち切ろうと、外の空気を吸う。
九重と藤沢にも声をかけるが、藤沢は首を横に振って顔を伏せた。仕方が無く九重と二人で土手に立って、催した尿意を処理しながら、そっと不安を声に出してみた。
「…臭かった。」
佐々木の言葉に九重は怪訝な顔をしながら返事をする。
「罠の臭いがした……」
九重の顔がさらに怪訝さを増す。
「……横井だ。」
「横井? まさか!」
九重は全く気付いていない風だった。全く予想だにしていなかった横井の名に、少し動揺を隠せないでいる。
ぽつぽつと合点のいかない部分の考えを伝えると、九重はいつもの自嘲気味な笑顔を見せて呟いていた。
「……見るからに過去を消したい男だもんな……俺は。」
九重の言葉に、今すぐ抱き締めてやりたい思いに駆られた佐々木だったが、藤沢がいる以上それはもう無理なことは解っていた。
「……用心した方がいい……」
「でも、そこまで知っていて何故……この計画に参加した。」
九重の目の奥に何かが浮かんだのを、佐々木はこの時気付けなかった。九重は本当に何も知らないと信じていた。
『参加したのは自分の問題』だと簡潔に伝え、佐々木は川塚に連絡を取るため携帯電話を手に取る。九重はその間にワゴン車の中へと戻って、藤沢が姿を消していることに気付いた。
慌てて佐々木に伝え、二人で車に戻るがやはり藤沢の姿は見当たらない。しかも藤沢は佐々木の上着を着て逃げていた。
「慌てて間違えたか。」
佐々木が言った言葉に対して、九重が真っ向から否定する。
「いや。パクったんだ!」
九重の脳裏に、小学生時代の藤沢の所業が思い起こされる。先程からの苛立たしさも重なって、九重は苦々しく吐き捨てた。
「……昔からそうだ。」
車に乗り込んでからも九重は苛ついているようだった。
スピードを上げて水田地帯を走り抜けながら、佐々木はちらちらと九重の方を窺っていた。
先を急がなければならない状況なのは解っていた。だが先程から膨れ上がりつつあった想いを押さえきれずに……車を路肩に停める。
佐々木は一瞬躊躇したものの、助手席にぐいっと身を乗り出した。
「佐々木…!?」
流石に驚いて目を見開いた九重の顔に自分の顔を重ね、唇を貪る。九重の唇はいつもと同じく柔らかい。
「……時間……無いんじゃ……ないのか…………」
唇を離すと、息苦しげに言葉を紡いでくる。だがその顔はうっすらと上気していた。
「大丈夫……あとで必死に飛ばすさ。」
ふっと笑って佐々木は九重の前髪を手で掻き上げた。
愛しさが止まらない。
弄ぐる度指先に吸い付いてくる肌が、心を狂わしていく。
「佐々木………やっぱ、まずいって………こんなところで………」
車は車道の端に寄せて停めてはあるが、まだ日も高い。幸い行き交う車も殆ど見当たらないが、もしあれば丸見えの状況だ。
「いいよ……別に。誰に見られたって俺は。」
気恥ずかしさに身体を捩ろうとする九重を上から押さえ込んで、ベルトに手をかける。素早くジーンズのジッパーを降ろして、九重自身を握り込んだ。
「達也………」
指先に絡み付く先走りの液体が、九重の想いを代弁していた。
佐々木の掌の中で九重自身がどんどん熱を帯びてゆく。たくし上げたシャツの下から覗く二つの突起を口に含みながら、佐々木はありったけの思いを込めて感覚を煽ると、絶頂へと導いた。
「……ぅ…ッ……………」
熱い吐息をゆっくりと吐いて、九重が手の中に白い精を吐き出す。
倒したシートに身体を預けながら肩で息をする姿が妙にいやらしくて、佐々木はごくりと喉を鳴らした。
掌の中から滴り落ちる九重の精を、奥まった秘部に擦り付けては入り口を指先で解す。今までと違って性急に指で掻き回され、九重は苦しげに呻いた。
「ごめんな………ちょっと辛いな。」
だが手は緩めない。
頃合いを見てジーンズを全て引き剥がし、ダッシュボードの上に脚を掛けさせた。
「……ささ………き…………」
潤んだ目が見つめてくる。多少の抗議が込められた複雑な色を帯びて。
こんな人目に付く場所で、しかも車の中で行為に及ばされている恥辱と……これで最後の交わりだという切なさが、今の九重の中でグチャグチャに絡み合っているに違いない。
「達也が………好きだ。どうしようもないくらい…………」
唇にそっと口付けてからそっと囁いた。
九重の唇が微かに動く。その動きを見届けてから、佐々木はゆっくりと九重の中に押し入った。
押し殺した悲鳴を身体の下で聞きながら、正確に怒張した自分のモノを出し挿れする。深く、深く繋がるために。
すっかり奥底まで収めてから、佐々木は愛おしげに口付けを繰り返した。舌を絡め、唾液を絡ませては互いを貪る。
荒い息づかいの中で応えようとしてくる九重が心底、愛しかった。これが正真正銘最後であり、罠かもしれないという不穏な動きのこの状況にあって……本当に最後の絆。
動きを早める度、九重の口から漏れる甘い悲鳴が佐々木の胸に染み渡る。
今この時が永遠であったなら…そう思いを過ぎらせながら、ありったけの思いを込めて抱いた。
九重の手が何かを求めるように宙を彷徨い、やがて佐々木の腕に触れてきてするりと指先に絡む。うっすらと目を開けて九重は佐々木を見上げ、絡ませた指先でぎゅっと佐々木の掌を握りしめていた。
………どうやら九重も、佐々木と同じ気持ちでいたようだった。
互いの名を呼びながら、昇り詰めていく。
零れ落ちる汗に混じって眦から涙が一滴、九重の頬を伝った。その涙を佐々木が無言のまま舌で舐め取り、そっと瞼に唇を当てた。
「…俺……お前のこと…………忘れたくない…ッ…………」
小さな叫びが九重から漏れた。一滴、また一滴と流れ落ちる涙を見ながら、佐々木も同じ思いに駆られる。
だが現実に――――――このまま関係を続けていくことは不可能な事を、二人とも痛い程知っている。
自分たちの心の傷跡と表裏一体のこの関係が、記憶として残せるわけは無かったのだから。
「達也…ッ……」
止め処もなく滴を零す九重の瞼の上に一滴、佐々木の涙が伝い落ちて……そのままゆっくりと九重の上に身体が覆い被さる。
注ぎ込まれた佐々木の気持ちの全てを身体の奥底で感じながら、九重は涙を手の甲できゅっと拭った。
これで全て終わったのだ。
ほんの短い間に築いた罪深い関係を今この場で終わらせ、ここからは全くの他人として生きていく。その決意を痛いくらいに佐々木から受け取った。
確かに二人は深く繋がっていた。それは互いの生きてきた時間の中ではほんの僅かな時間に過ぎないが、確かに存在していた。
二人で甘やかな時間を過ごしているときだけは、どんなしがらみからも一時逃れることが出来た。
ここからは一緒には居られない。お互いに別々の時間軸の中で生きて行かねばならない。
九重は涙を拭い、精一杯にっこりと笑って佐々木に口付けをした。
最大限の愛情と、感謝の意味を込めて。
佐々木の顔も、どこか吹っ切れたようにうっすらと笑みを浮かべていた。