■温泉行・1■
「だからあんたは、押しすぎなんですよ」
 常時(いつも)の定位置から大仏のように動かず、手元の本から視線すら動かさず、淡淡と京極堂は云った。

「旦那は押せば引く、引けば引き戻すと云う天邪鬼なんだから、押すだけじゃ引く一方だってのは、馬鹿でも解りそうなもんですけどね」
 何だか云い方に棘があるが、つまりは皮肉を云っていると云うことだろう。
「それじゃ、どうすればいいって云うんだ」
 横になったまま、膨れっ面で気のない返事をすると、親身とは云えない声が頭の上から降ってくる。
「暫く、外国にでも行っていたら如何(どう)です?」
「外国!? 外国だって!?」
 僕は吃驚して、寝転がっていた畳から飛び起きた。

「あんたが何ヶ月もいないとなりゃ、旦那だって周りが静か過ぎて、物寂しくなるかもしれませんよ」
「清清するかもしれないけどね」
 余計な一言を付け加えた猿を、僕は軽く張り飛ばした。全く、猿のくせにどうしてこう、口数が多いのだろう。
「冗談じゃないぞ、京極堂。外国は日本よりずっと治安が悪いんだ。もし僕が、暴漢に殺されたりでもしたらどうするんだ」
「あんたが暴漢を殺したらどうしよう、の間違いじゃないですか」
 平然とした顔で、京極堂は極めて失敬な台詞を吐いた。

「でも真面目な話、外国旅行は善いと思いますよ。女の人でも誘って、二人で何ヶ月か外遊するんです。旦那もその話を聞けば、少しはヤキモキするかもしれません」
「駄目だ。そんなことしたら、その女につきまとわれる」
「芸者さんとか、遊びで付き合ってくれるような人を知らないんですか?」
「水商売の女が、みんな結婚を考えていないと思ったら大間違いだぞ」
 野暮で唐変木で、粋な遊びも知らないこの偏屈男が、風流界のことを知らないのは仕方がない。
 僕も一時は花柳の世界に熱を上げたこともあったが、あそこも然う然う風流や美学ばかりが先んじている訳ではない。寧ろ俗な欲求を粉飾しているだけ、一般社会よりも質(たち)が悪いものなのだ。
 みんな目の色を変えて金持ちの旦那を捜しているし、僕程善いカモは滅多にいない。
 裏が見えてからはほとほと厭気がさして、徴兵を契機(きっかけ)にすっかり足が遠のいた。今更、昔馴染みの芸者と撚りを戻す気もない。
 それに女と婚前旅行なんかしたら、あのクソ真面目な四角四面男は、責任取って結婚しろと云い出しかねない。それだけは御免だ。

「じゃあ、男は如何ですか?」
 僕の不機嫌な顔を見て、京極堂は云った。
「え?」
「旦那以外の男と二人っきりで、数ヶ月外遊するんです。旦那も一寸変に思うでしょう。此処にいる関口君なんかどうですか? どうせ彼は暇なんですから、旅のお供にはもってこいですよ」
「や、やめてよ京極堂! そんな怖い冗談は!」
 僕に顔を張られてから温順しくしていた猿は、京極堂の言葉を聞いて途端に騒ぎ出した。見れば、血の気も失せて脂汗までかいている。
 こんな男と外遊などする気はさらさらないが、こうまで厭がられると逆に腹が立つ。
 学生時代はこの男の鬱を治そうと、全部僕持ちで色色な処に連れ出してやったのに、その恩も忘れてこの云い種だ。誰のお陰で社会生活に復帰出来たと思っているのだ。忘恩とは、正にこのことだ。
 それに第一、国内だが既に彼とは二人だけで旅行したことはあるのだ。
「駄目だ。以前二人で白樺湖に行ったことがあるが、その時修ちゃんは全然ヤキモチなんか焼かなかった。こいつは役に立たない」
「役に立つとか立たないとかって何だよ! 僕は榎さんの道具じゃないからね! それに、僕はもうあんな目に遭うのは御免だよ!」
 白樺湖で殺人事件に巻き込まれたことを余程根に持っているのか、猿は青かった顔を真っ赤にして、珍しく強い調子で僕に訴えた。
 雑司ヶ谷では散散僕を巻き込んだくせに、そのことはすっかり棚に上げて、自分のことばかり云い立てている。全く、程度の低い人間はこれだから困る。殊勝と云う言葉を知っているのだろうか。
「それを、榎さんには云われたくないね!」
 思ったことを口にすると、彼は益益激昂して反論してきた。

「じゃあ司君は如何ですか?」
 僕らの云い争いなど気にする風もなく、京極堂はさらりと提案した。
「司君だったら、そこの関口君よりはマシなんじゃないですか?」
「京極堂、それは僕を助けてくれているのかい、それとも貶めているのかい?」
 云わずもがなのことを、関君は聞いた。流石に浅知恵だ。自らとどめを刺されに行くとは、頭が悪いにも程がある。
「ああ、そうだな。喜久ちゃんは善いかもな。見るからに怪しいからな」
 流石の僕も少し気の毒になって、京極堂が決定的な一言を吐く前に、助け船を出してやった。
 でもこの猿君は、僕に助けられたなどとは、露程も思っていないに違いない。



「で、僕にお鉢が回ってきた訳?」
 事務所を訪ねると、喜久ちゃんは珍しく忙しそうで、書類に何か書き込みながら、僕の話に生返事をしていた。
「見て判ると思うけどね、エヅ公、僕は今忙しいんだよね。のんびりエヅと旅行なんかしている暇はないんだ。第一、何ヶ月も店をほっとく訳にはいかないじゃないか」
「何も本当に旅行する必要はないよ。口裏だけ合わせてくれればいいんだから」
「あ、そう云うこと」
 喜久ちゃんは、顔を上げてにんまりと笑った。
 当たり前だ。もし僕の居ない間に、豆腐男があの酒場の女と結婚でもしたらと思うと、のんびり旅行なんかしている場合じゃない。
「それならいいよう。その代わり、何か買ってよ」
 喜久ちゃんはそう云って、事務所の隅に積み上げてある小山を指さした。新しく仕入れた品物らしい。
 興味はなかったが、僕は仕方なく小山の前に端座り込んで、買えそうな物を物色した。
「これは何?」
「それは、印度の香油。躰に塗ると、体温が上がった時好い匂いがするよ。汗の匂いと混じると悩殺ものだよ。二人で運動する前に使うといいね。もう、歓喜の極み。桃源郷」
 相変わらず、喜久ちゃんの店では怪しい物ばかり扱っているようだ。

 その時、ドアの外から乱暴な足音が聞こえてきて、ノックもなしに扉が開いた。見ると、木場修だった。
「あれ」
 驚いて顔を上げると、向こうもこっちを見た。
「おい、礼二郎……。いや、手前だ。司、手前の方だ」
「僕?」
 喜久ちゃんも、金縁眼鏡の奥で目を丸くしている。
「何?」
「手前、礼二郎とその……外国へ旅行に行くってのは本当か?」
「え、もう聞いたの? 早いなあ」
 僕も今来たばかりだって云うのに、何でもう木場修の耳に入っているのだろう。
「さっき、来がけに京極の処で……」
 と云うことは、僕が古本屋を出るのと入れ違いに、木場修が中野へ行ったと云うことか。それにしてもあの馬鹿本屋は、話すのが早過ぎる。もしまだ喜久ちゃんと話がついていなかったら、どうするつもりだったのだ。
「まだ本決まりじゃないけどね。今、具体的なことを相談していたところなんだよう。エヅ公は贅沢だから、地中海辺りへ船旅なんかどうかってね。アラブ諸国とかも面白いかもねえ」
 しかし流石に喜久ちゃんは飲み込みが善く、打ち合わせもしていないのに適当なことを云った。
「礼二郎、一寸来い」
 木場修は何故か周章(あわて)たようになって、僕の腕を掴むとドアの外へ連れ出した。

「何だよ、放せよ」
 わざと怒ったように云うと、木場修は困った顔で、僕に向き直った。
「手前……。本当に司と旅行に行くつもりなのか?」
「だったら?」
「悪いことは云わねえ。司だけはやめとけ。な、頼むから」
「何で?」
 関君と白樺湖に行くと云った時は、そんなこと云わなかったのに。凄い効果だ。
 京極堂の作戦など本気にしていなかったけれど、僕は内心酷く驚いていた。これも喜久ちゃんの人柄と云うやつだろうか。
 しかし、どうも木場修は僕の期待していることではなく、何か別のことを心配しているようだった。
「だって手前、司の仕事、知ってるだろう? のこのこついて行ったら、売り飛ばされるぞ?」
「はあ!?」
 どうしてそんな話に?

「だって手前、アラブとか云ってたじゃないか。何処かのお大尽のハーレムに売り飛ばされる」
 なる程、それで喜久ちゃんは地中海とかアラブとか云ったのか。咄嗟のことなのに、能くそこまで頭が回るものだ。
 と云うかそもそも、ハーレムって男子禁制じゃなかったか?
「喜久ちゃんは人身売買なんかしてないよ。それに、縦(よし)んばそうだったとしても、友達を売り飛ばす訳はないじゃないか」
「しかしなあ……」
 木場修が本気で心配しているようなので、僕は可笑しくなって笑いを噛み殺した。
 終戦から何年も経って、今時人買いもないだろう。子供の頃のお伽噺を、まだ信じているのか。案外木場修も、可愛いところがある。
「僕は行くよ。どうせ、修ちゃんは旅行なんかつき合ってくれないだろう」
 しかし折角誤解してくれているので、便乗することにした。つんと顔を上げて、目を逸らす。
「俺が忙しいのは、手前も知っているだろう。国家警察は、手前らみてえなノンシャランじゃねえんだ。滅多に非番だって回ってきやしねえんだから……」
「別に気にすることはない。旅行につき合ってくれる相手には不自由していないから」
「…………」
 到頭、苦い顔をして木場修は黙り込んでしまった。
 元元そんなに弁が立つ方ではない。僕や喜久ちゃんに、口で勝てる訳はないのだ。

 木場修は暫く、苦虫を噛んで更に奥歯で執拗に潰していたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「よし解った。三日だ、三日。これ以上は無理だ!」
「え、何が?」
 突然何を云い出したのかと思って、僕は驚いて木場修を見上げた。
「二泊三日、国内、近場。それ以上は無理だ。休みが取れねえ。行き先や、日程は俺に任すこと。俺の采配に文句を云わないこと」
「本当に!?」
 真逆、そう云う展開になるとは思わなかった。棚からぼた餅とはこのことだ。
 僕は声も出ないほど嬉しくなって、木場修の首に飛びつくと、反射的にキスをした。
「うわっ、何する手前!」
 矢っ張り思いっきり退かれたが、嬉しくてあまり気にならない。このまま、踊り出したい気分だ。
「云っておくが、変なことは無しだからな!」
「うんうん!」
「解ってるのか?」
「うん!」
 ぎゅっと抱きつくと、子供にするように頭を軽く叩かれた。きっと、僕があんまり喜んだから、呆れているのだろう。
 何でもいい。旅行だ。二人だけなんて、知り合って初めてではなかろうか。

 ばつが悪いのか、木場修がそそくさと帰ってしまったので、僕はまた喜久ちゃんの事務所に戻った。
 ドアを開けると、ニヤニヤしながら喜久ちゃんが立っていた。
「聞いてたよ。善かったねえ」
「でも、変なことは無しだって」
「なーに、別別に部屋を取る訳でもあるまいし。勝手に蒲団に這入って行けばいいんだよう」
 喜久ちゃんの云い種は、相変わらずだ。
「何はともあれ、有り難う、喜久ちゃん」
 僕がそう云うと、喜久ちゃんはにっこり笑って、僕に硝子の瓶を握らせた。さっき僕が見ていた、印度の香油とか云うやつだ。
「毎度。一万円です」
 喜久ちゃんの店は一万円均一かと突っ込もうと思ったが、余計なことは云わずに、黙って僕は財布から金を出した。



(続)>NEXT

初続き物で。
ギャグ落ちなら、行ってみると京極や関口君もいた……となるところですが、いつまでもループしているわけにもいきませんので、とりあえずやる気出してます。
次回こそ! 頑張れ自分!
あーでも、間にインターバル入れるかもしれません。
そして意気込みほどエロくならないかもしれませんので、あんまり期待しないでください……と、予防線張りまくり。


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