■温泉行・2■ |
「お酒の追加は宜しゅう御座居ますか?」 何度目か判らぬ注文取りがあり、何人目か判らぬ仲居が顔を出した。 部屋には内線電話が備え付けられており、何かあれば此方から連絡するので、御用聞きなど本当は必要ないのだが。 「もう結構。それに、そう度度顔を出されては落ち着かない。もし僕に興味があるんだったら、一緒に飲むのは吝かではないので、みんなでこの部屋にいらっしゃい」 「いえいえ! 真逆、お客様のお部屋へ、私どもがそんな!」 最後に来た仲居が周章て辞去してから、漸く部屋は静かになった。 「ちっ」 木場修は手酌でやり乍ら、不機嫌に舌を鳴らした。 「手前と来るとこれだからな。煩わしくていけねえ」 「仕方ないだろう。東京でだって僕程の男前は珍しいのだ。こんな場末の旅館を選ぶ方が悪い」 木場修が旅行に連れて行ってくれると云うから、喜んでついてきたら旅館とは名ばかりで、何と公務員の保養所だった。 値段を聞いたら驚く程安く、お陰で僕ら以外は全部家族連れと云う色気の無さだ。さっきも風呂で、子供の群に纏りつかれて閉口した。こんな処では、独身男と云うだけで珍しいに違いない。 「俺の采配に文句は云わねえ約束だろう」 「だからってなあ……」 「あの、もし」 また、仲居が顔を出した。 「帳場の方に、東京から木場様にお電話が入ってますが」 「おう、今行く」 「職場に居場所を連絡したのか!?」 驚いて僕が云うと、木場修は怪訝な顔をした。 「当たり前だろう? 警察官は、常に連絡を取れるようにしておく義務があるんだよ」 「急な事件が入って、帰るなんて云ったら許さないからな!」 「許すも許さねえもあるか、馬鹿」 木場修は一言吐き捨てると、部屋を出て行った。 僕が何と云おうと、もし本当に事件が入ったら迷いもせず帰ってしまうだろう。あれは、そう云う男だ。 約束したのに。三日の間は僕と一緒にいると、ちゃんと約束したのに。 当てが外れたとはこのことだ。僕は頭に来て、木場修の分までガバガバと、手当たり次第に酒を呷った。 テーブルに突っ伏して不貞腐れていると、漸く木場修が戻ってきた。 空になって倒れた銚子を見乍ら、厭そうに顔を歪める。 「どうせ、こんなこったろうと思ったよ」 手には追加らしい銚子を、二三本持っていた。豆腐頭のわりには、気が利いている。 「東京に戻らなくていいのか」 「ああ、大した用じゃなかった」 それなら休暇中の人間に、電話なんかしてこなければいいのに。電話なんて厭な物を発明したのは、一体何処のどいつなんだ。 しかし木場修は僕の不機嫌など気にもせずに、極めて脳天気な提案をしてきた。 「しかし何だな、男二人じゃ、辛気くさくていけねえや。芸者でも呼んで貰うか?」 「何でだよ!」 流石に本気で頭に来て、僕は顔を真っ赤にして飛び起きた。 「折角二人っきりなのに、何で芸者なんか呼ばなくちゃいけないんだ! そんなに女と寝たいのか!?」 「おいおい、何云ってるんだよ」 木場修は、僕が何を怒っているのか解らない様子で、訝しげに眉を寄せた。 「手前が最初に、仲居と一緒に飲むって云ったんじゃないか。それに、どうして芸者を呼ぶのが、寝るとかそう云う話になるんだよ。芸者ってのは、芸は売っても身は売らねえんだろう?」 「は?」 一瞬聞き違いかと思い、僕は驚くのも忘れた。 「真逆それ……信じているのか?」 「え!? 違うのか!?」 木場修の驚いた様子がツボに入って、僕の爆笑のスイッチを押した。 僕は仰向けにひっくり返って、手足をバタバタさせて笑い転げた。 人身売買といい芸者といい、木場修は人が善すぎる。こんなんで、よく鬼刑事などやっていられる。 木場修は苦苦しい顔で僕を見ていたが、今は何を云っても無駄だと思ったのか、猪口を嘗め乍ら僕の発作が収まるのを待った。 涙を流し、散散笑ってから、漸く僕は躰を起こした。 「あー、可笑しかった」 こんなに笑ったのは、久しぶりだ。 「僕が、学生時代に置屋の二階で、一ヶ月豪遊したと云う話は聞いたことがないか?」 「……京極に聞いたような気がする」 「真逆、三味線弾かせて踊らせて、一ヶ月馬鹿騒ぎをしていただけなんて思っているんじゃないだろうね」 「…………」 それには答えず、木場修は厭な顔で黙り込んだ。 「芸は売っても身は売らぬ。そう云うことになっているから、政治家とか文化人とか、社会的地位の高い連中が利用するんだよ。赤線へ行って女を買ったとなると顰蹙だが、芸者と遊ぶのは大丈夫なんだ。実際売っているのに、売ってないことになっている。暗黙の了解と云うやつだよ」 そんなことは、誰でも知っていると思っていたのに。真逆、花柳界の与太話を本当に信じている人間がいるとは思わなかった。 そう云うと、木場修は怒った顔で、続けざまに酒を呷った。 僕も慥(たし)かに馬鹿騒ぎもしたし、唄ったり踊ったりもしたが、最後には必ず敵方になる芸者が一人残った。楽しく飲んでいる間に、いつの間にかしなだれかかる女と二人っきりになっていて、隣の部屋には蒲団が敷かれていると云う寸法だ。気に入った女も居たから、自分から指名することもあった。 最近は温泉地などで、誰にも呼べる気軽な値段で、本当に酌しかしない芸者も置くようになったと云う話だ。だが、そんなものは偽物だ。 「手前は、学生時代にそんなことしてたのかよ……」 「まあ、女も覚え始めで、面白かったし……」 本当を云うと、旧制高校の寮に入ってから、帝大へ進み、徴兵で海軍に入り、負傷して復員してくるまでは、木場修のことは忘れていた。 子供の頃から随分と好きだったが、その好きとこの好きが同じだとは思わなかったのだ。自覚したのは、何時頃のことだったか……。 「それで手前は、女でもうやることがなくなったから、男に来たってことか?」 「……そんなんじゃない」 自分だって赤線へ行くくせに、そのことは棚に上げて、どうして僕ばかりそう悪く云うのだ。 「それだけだったら、お前みたいな面倒な奴を好きになんかなるものか。新宿の歓楽街にでも行けば、僕など引く手あまただよ」 だらりとまたテーブルに突っ伏して、転がっていた猪口を木場修の方へ押し出すと、温い燗酒を注いでくれた。 さっきまで飲んでいたものと味が違うような気がしたが、どちらにしろ安酒で、舌に厭な苦みが残る。 木場修になんか、宿選びを任せるんじゃなかった。金ならいくらでも、僕が出すのに。邪魔の入らない、離れになった宿だっていくらでも知っているのに。 頭に来て立ち上がると、ふらふらした足取りで木場修の端座っている処に行き、無理矢理膝の間に割り込んだ。 「おいおいおい、二人羽織でもするつもりか、手前は!」 木場修は怒って僕を押しのけようとしたが、こっちも意地でも退かなかった。 木場修はすぐに諦めて、僕の肩越しに銚子を摘むと、猪口に酒を注いだ。自分の口に運ぼうとするのを、横取りして僕の口に持ってくる。本当に、二人羽織のようになってきた。 「……そういや子供の頃は、能く手前は俺の膝に乗ってきたな」 思い出したように、木場修は云った。 「修ちゃんの膝は、人気だったからな」 まだ片言しか喋れないような子や、よちよち歩きの子が能く木場修の膝に乗っていた。僕は彼らを押しのけて膝を奪ったが、それで怒られることはなかった。そのうち僕が来ると、小さい子が自主的に退くようになったものだ。 あの頃は能く頭を撫でてくれた。足りない子だと思われて優しくされていたのか、それとも……。 首を捻って後ろを向き、額を突き合わせると、木場修は困った顔をして目線を落とした。 「ねえ、何時まで昔話なんかをつまみに、飲んでいるつもりなんだ。蒲団に行こう」 首に手を回して誘うつもりで唇を重ねてみたが、突き放されもしない。調子に乗って舌を吸おうとしたら、急激な眠気が襲ってきて、がくりと頭が下がった。 「あ、れ……?」 何が起こったのか解らなかった。 仰向けに倒れ込もうとするところを、木場修が支えていることだけは判った。 天井の木目が目に入り、それがぐるぐると回っている。 「漸く効いてきたか。酒飲みは薬の効きが悪くていけねえや」 朦朧(ぼんやり)とした頭に、木場修の独り言が響く。 真逆これは、彼の仕業なのか。 「一服盛った……?」 「ただの眠り薬だ。安心しろ」 「何で……?」 全くこの仕打ちは、納得がいかない。慥かに変なことは無しだと云う約束はしたが、こんなやり方はないだろう。 「手前、お潤に旅行のことを云っただろう」 「……?」 あの池袋の酒場の女か。そう云う名前だったのか。何で此処で、あの女が出てくるんだ。 「こないだ行ったら、『探偵の坊やと温泉に行くんですって? いいわねえ』なんて云われてよ。聞いたら、手前はあちこちに云いふらしてやがったそうじゃないか。京極や和寅達はともかく、鳥口や川新や、伊狭間まで知っている。何処まで云って回りやがったんだ。これで俺が手前とどうにかなって帰ったら、俺はいい笑い者だ」 馬鹿な。これで不首尾で帰ったら、今度は僕の方が笑い者なのに。僕の立場はどうなるんだ。 だから、あんまりはしゃぐとロクなことがありませんよと、僕が云ったじゃないですかなどと、京極の声が幻聴となって聞こえてくるようだった。 ああ、酷く目が回る。 最早眠気で目を開けていられなくなったが、抱き上げられているのは解った。このまま蒲団に寝かされてしまうのだろう。 必死で木場修の浴衣の袖を掴み、兎に角これだけは聞いておかなければと思い、口を開く。 「こんな薬を……何処から……」 「司のとこだよ。こう云うのは、あいつの得意分野だからな。記憶を見られなくて善かった。冷や冷やしたよ」 喜久ちゃん……。協力するって云ったのに……。二重スパイみたいだぞ……。 「悪く思うなよ。あいつだって、商売が第一なんだろうさ」 木場修は、僕を蒲団の上まで運ぶと、宥めるようにくしゃくしゃと髪をかき混ぜ、緩慢(ゆっくり)と指を離した。 そのまま、僕の閉じた瞼を掠めるように触れ、頬をなぞり、唇の上に指を置いた。指先が、遠慮がちに唇を左右に撫でる。 「手前はとてつもない馬鹿だが……」 しみじみとした声が、頭の上から降ってきた。 「可愛いとは思っているんだ。嘘じゃねえ」 それなら何故……。 そう聞こうとしたが、もう声も出ない。 悔し紛れに指を噛んでやったが、力が入らず、ただ甘噛みしただけにとどまった。 (続)>NEXT いや、まだチャンスはあと一日! あと一日あるから! …などと言い訳してみたり。 次回は逃げません。本当に。マジで。 |