桜井哲弥の白衣姿は、県立農工大学農学部生物化学科のどこにあっても目立つ。
 本人は男としては小柄で華奢なのだが、その白衣の背中に大きく明朝体で「諸行無常」と書かれているからだ。
 もっとも、これは本人が好き好んで書いたものではない。
 3年次の実験実習の時に同じクラスの男が他の学生の白衣と間違えて書いたものだった。すでに無愛想な男として知られていた桜井は、デカデカと書かれた4文字熟語を一瞥すると、反応を気にしている周囲を無視して何事もなかったかのようにその白衣をまとった。以降、彼はいつもその白衣を使っている。
 白衣に落書きをするというバカさ加減はともかく、少なくとも桜井の雰囲気と「諸行無常」の言葉だけは妙に似合っていて、クラスの少ない友人の間では、「結局ヤツはあの特攻服白衣が気に入っているのでは」というのが定説になっていた。
 そして、今日も桜井は「諸行無常」を背負っている。

 「やあ桜井君、相変わらずその白衣を着てるんだなぁ」」
 桜井の卒業研究の指導教官になる城内照義教授は禿げる気配のない白髪に手をつっこみながらニコニコと言った。
 城内教授は阪大や京大で教鞭をとっていた生化学者で、定年退職後にこの大学に招聘されてきたというその道のベテランである。
 2月末日を迎えて、桜井は新しい城内研究室の整備のために呼ばれたのだった。
 研究室といっても、桜井たちが第1期生になるこの大学では実験室も道具類もまったくの新品だ。必修の化学実験で使った実習室の半分もない実験室の戸棚にはまだ何もなく、いくつものダンボールが無造作に置かれているだけ。
 まずは道具類の梱包を解いて、戸棚にしまうことから桜井の研究生活はスタートすることになった。
 本当はもう一人、橘京子という女子学生がこの研究室に配属されているはずだったが、今日はきていない。
 「桜井くん、ごめんね〜。友達とさぁ、二週間ヨーロッパ旅行いれちゃったんだ〜」
 黙々とフラスコやらビーカーやらを取りだしながら、桜井は調子のよい橘の言葉を思い出していた。
 「何で俺一人で・・・・・・」
 そう桜井が毒づいていると、隣接する教授室からひょいと城内教授が顔を見せた。
 「ほな、私も会議があるんでな、ちょっと留守番頼むな」
 「わかりました」
 「教授室の湯沸しポットやインスタントコーヒーは適当に使ってくれ」
 去り際の教授の言葉に桜井は手を止め、教授室に向かった。
 ポットとコーヒーは教授室の小さなキッチンに置いてあった。流しに置いてあったマグカップを借りて桜井がコーヒーを入れていると、ドアをノックする音がした。
 「はい?」
 ドアを開けてみるとそこにはスーツ姿の若い男が一人。30前だろう。背はすらりと高く、モデルのような体型で、顔だちも綺麗だ。なのにあきらかに流行を意識していない銀縁の眼鏡やごくごくシンプルな髪型が余計に朴訥とした印象を与える。
 OBか?と一瞬思ってから、桜井は自分たちに先輩がいないことを思い出した。黙ったまま見上げていると男は少し慌てたように話しだした。
 「・・・・・・えー、城内教授の研究室はこちらですか」
 「はい、そうです」
 「城内教授はいらっしゃいますか」
 「たった今でかけたとこで・・・・・・会議だそうです」
 桜井がそう答えると、男は少し驚いたようなそれでいて困ったような表情を浮かべた。
 「すみませんが、こちらで待たせていただいてもかまいませんか」
 男がそう言うので、桜井は彼を教授室に通した。男が来客用の椅子に腰をおろすのを見届けてから、自分用のコーヒーを入れなおす。
 「君はこの研究室の学生ですか」
 背中ごしに男が桜井に質問をなげかけてきた。桜井はそうです、とだけ返事した。
 そのとき、バタン!とけたたましい音をたてて教授室の扉が開いた。
 「ああ〜、しもおたぁ〜」
 飛び込んできたのはさっき、会議にでかけたはずの城内教授だった。
 「・・・・・・忘れ物ですか?」
 桜井がボソボソと言った質問に教授は息をきらしながら、首を振った。
 「こんにちは、城内教授」
 座っていた男がすっと立ちあがって教授の方に進み出た。
 城内教授はパッと明るい顔になって男と握手するとポンと彼の肩をたたいた。
 「やあ、よく来てくれた、知江くん!すまんのぉ、約束の時間を待ちごうとうた」
 状況がよく理解できず、男と教授の顔を交互に見やる桜井に教授が言った。
 「ああ、桜井くん、紹介するわ。助手として来年度から働いてもらう知江覚くんや。」
 「知江です。どうぞよろしく。」
 教授と握手していた手を知江は桜井に差し出した。桜井はさっと白衣で自分の手をぬぐうと目の前の手をとった。乾いて指先が荒れていたが温かな手だった。
 「彼は桜井哲弥くん。阿呆な白衣を着ているがなかなか優秀な学生でな、まあ卒業研究の面倒もみたってや。」
 その教授の言葉に、ずいぶん景気のいい紹介だと桜井は心の中で苦笑した。新設大学の常で、偏差値が決して高くないこの大学にはおそろしくやる気のない学生が大勢いる。そんな中でAを取るのは難しいことではないのに、と思う。実験だって周囲がやらないから自分で進めたまでのことだ。
 しかし、桜井の心中に気づく由のない知江は素直に感心したような表情を見せた。
 「こちらこそこの大学のこと、色々教えてくださいね。」
 そう知江は桜井に笑いかけた。その笑顔はさっき触れた手と印象が似ている。さっぱりとして、それでいて温かみがある。
 同じ研究室にいるのに困るような人物ではなさそうだ、というのが桜井の知江に対する最初の印象だった。
 「でなあ、知江くん、そういうわけで急の会議が入ってるんだわ。もし時間があったらもう1時間くらい待ってもらえんだろうか」
 「わかりました。じゃあこちらで待たせていただきます」
 ホンマに悪いなぁ、と知江に繰り返しながらまた、あたふたと城内教授は研究室を出て行った。
 教授がいなくなると、研究室は急に静かになった。桜井は何を話したらいいかわからず、とりあえず自分の冷めたコーヒーを全部飲み込んだ。
 先に話しかけてきたのは知江の方だった。
 「桜井くん・・・・・・でしたっけ。もう卒業研究のテーマは決まっているんですか」
 「いいえ、全然。先生がどんな研究をやってるのかもよく知らないし」
 ただ、生化学や有機化学の授業がおもしろかったこと、城内教授が一番好感が持てたことを理由にこの研究室を選んだ、と桜井は知江に淡々と説明した。
 「じゃあ、俺、向こうの実験室にいるんで、何かあったら呼んでください」
 そう言って教授室を出ようとした桜井を知江が引きとめた。
 「もう何か実験をはじめているんですか?」
 「いや、まだガラス器具とかをダンボールから出している段階です」
 「じゃあ待っててもひまだし、お手伝いしましょう」
 断る理由もないので、桜井は知江と一緒に実験室に行くことにした。
 ダンボールから出したばかりのフラスコやビーカーの群れを見て、知江が言った。
 「アルミホイルは?」
 「は?」
 意味を飲み込めずに聞き返した桜井を見やる知江。
 「ほこりが入らないようにフラスコをしまうときは口にアルミホイルをかぶせておくといいんです」
 どうやら、化学研究業界ではそれが常套手段らしいことに桜井は気がついた。そういえば3年の時の実験実習でも実習用の器具をしまうときには、ラップフィルムをかけていた。
 アルミホイルが無いことを知ると、知江はとりあえずガラス戸のついた薬品だなの方にフラスコをしまうように指示した。ビーカーは伏せて籠の中に入れてから戸だなへ。そして1つ1つの引き出しに古新聞を敷いてからさじやらガラス棒やら試験管やらをしまっていく。
 おっとりしているように見えても、研究のことに関しては異様にテキパキしているんだな、と思いつつ、桜井は知江に言われるままに手を動かしていた。
 城内教授が戻ってくる頃には大方の器具は片付いて、2人は教授室に戻って休みをとった。
 「まあ薬品が到着したらまた配置換えをしなくちゃならなくなると思うけど」
 さっき桜井がいれたものと同じコーヒーを飲みながら知江は言った。
 「あと、蒸留器とエバポレーターも組みたてなくちゃならないし・・・・・・」
 知江は桜井に言っているのか自分に言い聞かせているのか、これからやることを数え上げている。
 「知江さんは何の研究やってたんですか」
 不意に桜井は質問してみた。
 「ガン細胞の分化とかね、遺伝子もちょっとやったし・・・・・・」
 2人の会話はそこでフェイドアウトしていく。
 重い沈黙を破ったのは、外から開いた扉だった。
 「いやあ〜まいった、会議が長引いた〜」
 げっそりした様子で城内教授が入ってきた。城内教授はどさり、と資料の山を机にほうりだすと実験室の方をのぞいてまたせわしなく戻ってきた。
 「きれいに片付いているやないの。ご苦労だったなあ〜桜井〜」
 「あ、知江さんに色々教えていただいて・・・・・・」
 そう言って桜井が知江の方を見ると、城内教授はオーバーなくらい「いい助手がきてくれた」と喜んだ。
 「じゃあ、ちょっと早いけどメシでもどうや、知江くん」
 「あ、はい」
 知江は立ちあがって自分の飲んでいたコーヒーのカップを手早く流しでゆすいで片付けた。
 「桜井はどうする? 一緒にくるか?」
 「いえ、今日はバイトがあるのでもう帰ります」
 「そうか、ならしかたないなぁ」
 2人がすぐ研究室をでるようだったので、桜井も白衣を脱いで指定されたロッカーに吊るした。
 その様子を横で見ていた知江が尋ねた。
 「何で“諸行無常”なの?」
 「いや、俺が書いたんじゃないんです」
 そっぽを向いたまま冬用の革のライダージャケットを着込みながら、桜井はあっさりと答えた。
 そんな態度に気を悪くする様子もなく、知江は何かを思い出したかのようにクスッと笑う。
 「僕も学部生の時は同じような白衣着てたんだ」
 「え、知江さんが?」
 意外な話しに桜井は改めて知江に目をやった。
 「僕はね、花鳥風月って書道の得意な友達に書いてもらってね」
 「何や、国士無双とか書いたりせえへんのか」
 エレベーターが来たところでいつのまにか、城内教授が話しに割り込む。
 「ははは、僕、麻雀は得意じゃないんです」
 「あかんなあ、東大生だったんなら、麻雀も一般教養のうちやろう」
 そんな他愛もない話をしているうちに三人は一階にでた。
 「じゃあ次は来週の月曜日だな」
 「はい、それじゃあ失礼します」
 農学部の玄関先で、夕闇の中を走り去る城内先生の白いクラウンを見送ってから、桜井は自分のバイクを取りに駐輪場に向かった。



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