翌日。
結局、桜井は鷹栖の部屋に泊まり、朝に自分のアパートに戻って支度を整えてから配属されたばかりの研究室に向った。
まったく健全な色合いの朝日に照らされた研究室前の廊下にきて、桜井は無意識のうちに溜息をつく。
腰がだるい。
それ以上に気分がだるい。
頭の片隅で淀む刹那的な情事の記憶は、桜井がロッカーを開ける動作を緩慢にさせる。まっとうな日常生活に戻ろうとしている自分を、昨夜の自分が嘲っているような気分がして。
諸行無常。
手にした白衣の背中の文字をいつものように一瞥して、桜井はごそごそと着替えを終えた。
桜井が研究室に行くと、昨日着任したばかりらしい若い教官はすでに研究室に来ていた。新品らしい糊のきいた白衣を着て割り当てられたデスクに向かい、何やら熱心に読んでいる様子だった。
「おはようございます」
入室した桜井の条件反射的な挨拶に、知江は顔を上げ、昨日会ったばかりの学生を見る。
「あ、桜井くん、おはよう」
穏やかな声で名前を呼ばれて、桜井もあらためて知江を見た。
日当たりのよい席でごく自然に明るい表情をするこざっぱりとした男は、なぜか桜井には白いプラスチックの鉢に植わった観葉植物を思い出させた。
花も実も付けない観葉植物だ。ただずっと青々とした葉を生やしている。
この男がセックスをしているところなんて想像できないな、と桜井が考えていたなどと知江は当然、欠片ほども感じ取ることはなかった。
「今日は、授業は?」
「午後に選択の授業があるだけです」
「じゃあ、今、時間あるかな」
知江がさりげなく示した折りたたみ椅子に、桜井はふてくされているとも従順ともつかない固い表情で黙って座った。
「昨日、さっそく城内教授と桜井くんたちの卒業研究テーマについて話をしたんだけどね」
馴れ馴れしさを感じさせない程度に打ち解けたトーンで話しながら、知江は桜井に数枚のプリントを手渡す。
桜井がそこにつまらなそうな視線を向けると、最初の紙には研究室の年間予定や大学の行事らしい記事が羅列されていた。
今は3月。4月になったら4年生。7月になれば夏休み。9月から後期日程になって、すぐに年末年始。年が明けたら卒業論文の締め切り。卒論発表会。来年の今頃は卒業、だ。
1年後のことなんて考えたくない、と高校生のようにも見える桜井の顔の眉間に少しだけ皺がよった。明日のことだって、あまり考えたくないのに。
「桜井くんは、就職活動は?」
「それなりに」
桜井はそんな風に答えてみた。しかし、この時点で資料請求のハガキを数枚出しただけという事実からすれば、この答えは嘘に等しい。
「今は就職活動も大変らしいよね」
同情めいた知江の反応に、桜井の心はまたほんの少し、虚ろなものを抱える。
「でも、せっかくだから卒業研究は卒業研究で、何か成果を出させたいというのが城内教授のお考えで……」
言いながら、知江がプリントを捲るのにあわせて、桜井もプリントを捲った。
二枚目のプリントは別の書類からのコピーらしく、細かく印刷された字は荒れて少しにじんでいるように見えた。
「研究室も1年目だから、今年は短期で結果が出そうなテーマを選ぼうと考えているんだけど」
ぎっしりと細かい字が羅列されている中に、いくつか黄色の蛍光ペンでマークされているタイトルがあった。
「実はこれ、県の農業試験場から来た共同研究依頼のリストなんだ。線を引いてあるテーマなら、この研究室で取り組めると思うんだけど……桜井くんは、この中で興味のあるテーマはある?」
ありません、と即答したらこのやる気に溢れた優しそうな教官はどうするだろう、とつまらない関心が桜井の胸に沸き起こったが、そこまで大人げないことをする気力すらもなく、桜井は促されるままに手元の文字を目で追った。
一つ一つのタイトルはやけに長く、桜井にはその中の野菜や果物の名前しかぴんとこなかった。
トマト、キュウリ、ホウレンソウ、ミカン、コンブ……
「……エンドウマメ、とか」
桜井は俯いたままボソリと答えた。
春先になるとバイト先の店に登場するエンドウマメのスープや、オーナーの鷹栖が気が向いたときだけ作る賄いの豆ご飯などを思い出す。それだけが気持ちにひっかかった理由だったが。
「エンドウマメ。美味しいよね」
まるで心を読まれたような相槌を打たれて、思わず桜井がプリントから目をあげると、知江の眼鏡の奥の目は、悪戯っぽく笑っているようだった。
それはさておき、と今度は知江のほうが視線を落としてプリントを読み上げる。
「『新種エンドウマメ莢に含まれる新規抗菌および抗がん性物質の同定と単離』。
僕もこれは面白そうだと思っていたんだ」
くるりと椅子を半回転させた知江は、机の上に重ねられた紙束の中から、左上角をホチキスで止めたコピーを一部とると桜井に差し出した。
「英語のレポートしかこの部屋では見つけられなかったから、とりあえず」
「はぁ」
桜井がこのけっこうな分量の英文を読まねばならないのかとうんざりしているのを察したのか、知江は日本語の文献もあるから大丈夫だと伝える。
「県の試験場の小山さんという女性が中心になって進めている研究らしい。研究の経緯は、この論文のイントロダクションを読んだところでは……」
食品加工工場で、多く捨てられているエンドウマメの莢の有効利用を検討する一環として、莢抽出物の抗菌活性や抗腫瘍活性のスクリーニングをしたところ、一昨年に種苗登録したばかりのエンドウマメ「みどり丸
3号」の莢にだけ、特異な活性が検出されたという。
そんな話をスラスラとする知江に桜井は思わず尋ねた。
「知江先生」
昨日までは「さん」付けだった相手を自然と「先生」と呼んでしまう。
「先生は試験場の人とかだったんですか」
「まったく関係ないけど……?」
「いや、ここの大学に来たの、昨日ですよね。よく知ってるなぁって」
感心しているというよりも、呆れたような調子で言う桜井に知江は苦笑した。
「ちょっと早起きして、ここにあるいくつかの文献に目を通させてもらっただけなんだ」
何時に来たのかということについて何気なく知江が伝えた時刻は、桜井がまだ鷹栖のベッドから抜け出ていないような時間だった。
さて、と独り言のように呟いて、研究課題の話はひとまず終わりとばかりに机にプリントの束を戻した知江は、立ち上がりながら桜井に聞いた。
「テーマの目処もたったところで、もう少し資料を探そうと思うんだ。この大学の図書館は何時からだっけ?」
桜井は愛用している黒い腕時計を覗き込みつつ立ち上がり、立ち上がってもなお頭ひとつ高い知江の顔を見上げようともせずに答える。
「そろそろ開いてると思います」
「桜井くんは、まだ時間大丈夫? もしよかったら、この大学の図書館の使い方を教えてもらえると助かるのだけど」
渡されたプリントを手にしたまま、桜井は一瞬逡巡した。
適当な理由をつけて断るという選択肢もあったが、気まぐれに近い動機で図書館へ同行することを承諾する。
「自分も、そんなに使ったことがあるわけじゃないけど……」
「少なくとも、僕よりは知っているだろうから」
ほっとしたような表情を浮かべた知江は、据え付けられたばかりの真新しい白板に向うと、
“知江、桜井→図書館(午前中)”
と几帳面な字体で書きつけた。
「だいたい、どこの研究室にも先生や学生の『行き先一覧表』みたいなのがあってね。誰が授業だとか、誰が図書館だとか、誰が実験で別の施設に行っているとか。そういうことがわかるようにしておくんだ」
「へぇ……そういうものですか」
以前にいた研究室の話をする知江に、一応といった程度にリアクションを返して、桜井はさっさと手にしたプリントを自分の机の上に置くと、研究室を出ようとした。
後から出てきた知江があらかじめ預けられていた鍵で研究室の扉に施錠し、それから二人は研究室を離れた。
廊下でエレベーターを待つ間、また知江は桜井へと声をかける。
「そうそう。僕のことは『知江さん』でいいから」
「……センセイ、じゃないんスか」
「僕もついこないだまで、学生みたいなものだったからね。なんか慣れなくて」
照れくさそうに言う知江に、桜井は“それでいいのか、教官のクセに”とも思ったが、とりたてて意見を言うこともないかと、曖昧に頷いておいた。
「それに、僕も研究分野が変わって、本当に不勉強なんだ。この大学のこともよく知らないし」
知江がそこまで話したところで、エレベーターが到着した。
二人が乗り込んだ小さな箱が、再び下がっていく中で会話が続く。
「……僕は僕が知っていることを桜井くんに教えるし、桜井くんは桜井くんが知っていること、僕に教えてほしい」
エレベーターの中で訥々と話された知江の言葉。
会ってまもない相手に対する儀礼的なへりくだりではなく、本気でこの新しい教官はそういうことを言っているらしいことが、桜井にも感じ取れた。
そんな知江の素直とも謙虚ともとれる台詞は、むしろ桜井には露悪的な思考を誘導する。
―― 俺の知ってること?
桜井は顔をそちらに向けることなく、肩が触れそうな位置に立つ知江の姿を盗み見た。
薄暗いような密室の中でも、相手の印象は、朝の時と変わらない。
清潔なばかりの観葉植物。
―― 教えてやってもいいけどね。 男同士でキスすることやセックスをすることを。
脳裏にはそんなことを思い浮かべながら、桜井はおざなりに“こちらこそ宜しくお願いします”とだけ返事をして、地上階についたエレベーターから出た。
「で、まず。図書館へ行くにはどうしたら……」
「外に出て、あっちの教養学部の方に行くんですよ、知江サン」
農学部を出て、大学の校舎の中でも一際目立つ現代彫刻のような時計台を備えた図書館へと向い始めた二人の白衣を、春の気配をのせた風が大きくあおった。
「風、強いね」
「そうですね」
知江が話しかけ、桜井が愛想の足りない答えを返す。
図書館でも、その後、昼食を取るために寄った教養学部の学生食堂でも。
桜井が午後の授業にでかけるまで、知江との間で交わされた会話はずっとそんな途切れがちの調子だった。
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