修道院の薄暗い広間に漂うように多くの修道士の影がたむろしていた。
 ぼんやりとした茶色の長衣がゆらりゆらりと目の前でざわめいている。
 私はとりたてて、兄弟たちの様子を確認しようと眼をこらすことなく、焦点があわないまま彼らを眺めていた。
 私は幼いときから、眼の見えがよくないらしい。「らしい」というのは、生まれてこのかた、他人が「はっきり見える」と表現する状態を経験したことがないからだ。
 私にとっては父母の面影すら、どこかぼやけた空ろな像にすぎない。人を見ようとするときは、眉間に力をいれて、眼を細めたり、まばたきしたりしないと顔の判別すらあやうい。そんなわけで、地方領主だった父は騎士としての訓練をさせることをあきらめて、私をすぐに修道院へと送りこんだ。
 修道院ではこの眼で困ることはあまりなかったが、人を見るときについ、にらみつけるようにしてしまうので、いつのまにか私には「しかめ面のミケーレ」というあまりうれしくない通り名がつけられてしまった。さらに、その“しかめつら”のせいで愛想がないと思われているのか、他の兄弟と接する係にされたことがほとんどない。今は年老いた医師のような修道士と二人で薬草園の管理をしている。
 明日はまんねんろうと薄荷、麝香草を刈り入れようと晴れることを祈っていると、突然、広間の雰囲気が変わった。
 見なくてもわかる。この雰囲気は修道院長のおでましだ。
 「兄弟たちよ、今日、この修道院に新たな兄弟が加わることになった」
 院長が差し招く方向を見ると、宙に炎が浮かんだように見えた。
 修道士たちの間に、なぜか押し殺したようなどよめきが静かに広がった。
 顔立ちははっきり見えなかったが、現れたのはどうやら赤毛の長身の男のようだ。
 「ベネツィアから来たアルフォンソ修道士だ。彼は金と銀と貴い石の数々、そして色あるガラスで神の威光を伝える術を身につけている。我らが教会のために本修道院の工房で信仰の証しを生み出してくれることであろう。新しき兄弟に神の祝福があらんことを」 
 「アーメン」
 唱和の中で、また小さく赤い頭がゆれた。

 私がその新しい修道士と言葉を交わす機会を得たのは翌日の朝課のうちだった。朝の礼拝が終わったあと、うかつにも彼とぶつかったのだ。
 私の頭よりだいぶ高い位置にある顔。額にかかる髪は赤く、化け物じみて大きくぎょろりとした眼をしているように見えた。
 「そちらからぶつかっておいて、君は僕をにらみつけるのかい」
 彼の顔を見ようとしていつものように眼を細めただけのつもりだったが、相手は不思議そうに尋ねてきた。その声は低いフルートの音のように穏やかで丸みのある声だった。
 「すみません、アルフォンソ修道士。私は目が悪くてこのようにしないと相手の顔がよくわからないのです」
 「そうか。じゃあ、僕と同じだな」
 どことなく親しみを感じさせる調子で、彼は言った。
 「貴方も目が悪いのですか」
 「ああ、仕事のしすぎだったのかもしれない。僕はもともとはベネチアのガラス職人だったんだ」
 「なるほど、だから工房に入ることになったのですね」
 そう私が言うと、彼は小さくうなずいて時間があったら工房に顔を出したまえ、君にぜひ見せたいものがあると言い、礼拝堂の前から去って行った。
 私は予定の刈り入れを行い、畑を耕すと薬草園からほど近い工房へとでかけてみた。工房からは鍛冶僧が何やら農具を鍛えている音や、貴金属細工を専門にする僧が金をたたいて聖杯を打ち出している音が響いている。
 私は、その工房の奥にゆれる赤い髪を見つけた。
 「こんにちは、アルフォンソ修道士」
 「やあ、来たね。そう言えば名前を聞いてなかったな」
 異様な眼が私の方を見る。
 「ミケーレです」
 「ああ、君が噂の『しかめつらのミケーレ』か」
 アルフォンソはおかしそうに笑いながら、私を彼が作業をしている少し離れた一角へと連れて行った。
 そこにある巨大なテーブルの上には色とりどりのガラス板が並べられており、美しい花壇のような様相を呈していた。
 「私に見せたいものとはこれですか」
 「いや、違う。これだ」
 そう言いながら、アルフォンソは棚から一つの木箱を取り出し、ギッシリと納められていた丸い無色透明のガラスを一つずつ、別の工作台の上に並べていった。
 「これは何でしょうか」
 「レンズ、と呼ぶ特別に磨きこんだガラスだ」
 アルフォンソは私を、椅子に腰掛けさせるとまるで冴えた氷のようなその透明なガラスの円盤の一つを私の目の前にかざした。
 ちょうど、その円盤がまるで窓であるかのように、そこだけ何か違う世界が見えた。
 アルフォンソは円盤を指で支えたまま、私の傍らに来て言った。
 「あそこの柱の上に彫ってある字が見えるか」
 「はい、見えます。あんなところに字があるなんて知りませんでした」
 「読めるか」
 尋ねられて、私はそのごく小さな丸い窓から字を読もうとしたが、アルファベットの形が正確に判別できずその作業をあきらめた。
 すると、アルフォンソは別の円盤をとるとまた、私の眼にかざし字を読むように言った。そんなことを何度も繰り返した後。
 ある円盤を通して見える光景はこれまでとはっきりと違った。視線の先の柱に彫られた字を意味ある言葉として理解することができたのだ。
 「……主のみ聖なり。主のみ王なり。主のみいと高し」
 栄光の賛歌の一節を唱えると、アルフォンソはその小さなガラスを他の円盤とは分けて置いた。
 「よろしい。僕は君にささやかな贈り物をしたいと思う。1週間後には君の見る世界のすべてが変わるだろう」
 預言者めいたことを言うアルフォンソの顔はいたずらっぽく笑っているに違いなかった。
 あのごく小さな丸い覗き穴から見えたものを忘れられないうちに、私は再びアルフォンソに呼ばれて工房を訪れた。
 アルフォンソはまた私を座らせると、今度は眼を瞑るようにと言った。
 言われるままに瞼を閉じると、ひんやりとした不思議な感触を鼻梁に感じた。金属のピンが静かに鼻先に当てられているといった具合だろうか。その後、アルフォンソの乾いた指先がわずかに私のこめかみに触れ、そして離れた。
 「眼を開けて」
 と言われ、注意深く眼を開くと。
 私の視界には、私を心配そうにのぞきこむ私よりやや年上らしい青年の姿が入ってきた。燃えるように赤い髪が信じられないくらい鮮やかに見える。なめらかな頤。その美しい顔の中心には、不思議な黒い枠に収められたあの丸い透明なガラスが備え付けられていて、その奥には貴い緑柱石のような瞳がきらめいていた。
 “はっきりと見える”というのはこういう状態を言うのだと、私はそのとき初めて知った。
 「どうだい、見えるかい」
 「ええ……はい。見えます。貴方の顔が」
 自分の目に写っているものが幻ではないことを確かめようと、私は思わずアルフォンソの顔に手をのばした。少しアルフォンソの輪郭を指先でたどってみて、確かに自分の見ているものと同じものがそこにあることを確認した。
 アルフォンソはそんな私に苦笑しながら、近くの工作台から磨いた銀を貼ったガラス板を取ると私の前に差し出した。
 そこに映し出されていたのはまぎれもなく私自身の顔だった。
 夜の窓や、澄んだ泉にぼんやりと見ていた私自身。
 父ゆずりの青い目と、母ゆずりの金色の細い髪。
 鏡に写った私もアルフォンソと同じような“ガラスの眼”をつけていた。ただ、私の丸いガラスを支える枠は彼と違って銀であった。細い銀の細工がぐるりとガラスの縁を飾っていた。
 「なかなかいい出来だろう。君の天使のような顔には鉄の枠では無骨すぎるからな」
 「驚きました。まさか、こんなことができるなんて」
 自分でも意識することなく、私の声は少しうわずっていた。
 「ベネチアのガラス職人の間だけに伝わっている技術だ。ステンドグラスも嫌いじゃないが、私はこの“ガラスの眼”を作ることも神のみむねにかなうことだと思っている。人々がそれぞれの眼をもって、神の奇跡を見ることができますように」
 若くして類まれなる技術を持った彼は、ガラスのむこうの目を閉じると頭をたれて十字を切った。
 私も十字を切り、心の中でアルフォンソの知恵と腕への祝福を祈った。



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