それから、私の生活は“ガラスの眼”とともにあるようになった。
 共に暮らしてきた兄弟たちの顔も初めてはっきりと知ることができた。
 もっとも、よく見えるおかげで、アルフォンソ以外の兄弟たちが珍妙な器具を顔の中央につけた私を訝しげな眼で見ることにも気づいてしまったが。
 しかし、見える喜びはそれすらも些細なことにした。
 修道院のすべてが新しく光り輝くようであり、自分が管理している薬草園に咲き乱れる植物の色も形も、その後アルフォンソが取り組んでいる巨大な薔薇窓用のステンドグラスも、鮮やかに美しく目に飛び込んでくる。
 そんなある日、修道院長が私を呼びとめた。
 「『しかめつら』は返上かね」
 ものめずらしげに、しかしわざとらしいほどいかめしく尋ねる修道院長の顔の皺の一つ一つを眺めながら私は答えた。
 「はい、この“ガラスの眼”のおかげです」
 「それはあのアルフォンソ修道士の技だね」
 「その通りです。私は、神が彼をこの修道院に遣わしてくれたことに感謝しております」
 私の答えに、修道院長はふむ、とその長いひげをわざとらしくひねってから少し声を落として私に尋ねてきた。
 「アルフォンソ修道士は他に何をしているかな」
 「今は大聖堂の薔薇窓の修復に勤しんでいます」
 「彼の工房はよく訪ねるのか」
 「時折。私の担当であります薬草園と鍛冶工房は隣り合っておりますから」
 私の答えを逡巡するように、修道院長はしばし沈黙してから静かに手をあげてわかった、ありがとうとその場を去って行った。
 私はその様子が少し気になって、その日の深夜課にアルフォンソの部屋を訪ねた。
 「遅くにすみません。ミケーレです」
 ささやくように伝えると、暗がりの中で扉が開いた。アルフォンソはすでに就寝用の麻の粗末な長衣に着替えていた。“ガラスの眼”を負っていない鼻梁は月明かりにほの白く浮かび上がり、その両脇の眼はいよいよ聖遺物箱に埋め込まれた宝石のようであった。
 「どうした。懺悔でもしにきたのか」
 私が首を振ると、アルフォンソは部屋の中に招き入れてくれた。ごく狭い個室の中で並んで腰掛けられるところは寝台しかなく、私たちは藁布団の上に肩が触れ合うような近さで座った。
 私がさっきの修道院長の様子を話すと、アルフォンソは小さく溜息をついた。
 「修道院長の出身はどこだ?」
 「確か、ローマと聞いています。生粋のローマ人であると」
 私の答えに、ベネチアの青年はその長い指先ですっと自分のあごを支えながらつぶやくように述懐した。
 「キリストの兄弟たちの間でも、ベネチアはちょっとした放蕩息子なんだ。聖地の奪還に軍を差し向ける傍らで、商人たちは異教徒たちと取引するし、職人の間では東方の最新技術が伝えられてくる。ベネチアの民は信仰と技術、信仰と商売を切り離して考えるから、全てを一つに考える人たちには理解し難いところもあるのかもしれない」
 「あなたも学んだのですか。異教徒の技を」
 私は知らずと異端審問のような問いをアルフォンソに投げかけていた。
 壁を見るようにして話していたアルフォンソがこちらを向いた。
 「僕が学んだのは異教徒の技ではない。神が創りたもう人の技であり、人の知恵だ。愛する故国ベネチアの守護聖人、聖マルコに誓う」
 青ざめた淡い光の中、夜のしじまに似た静寂さを持って答えるアルフォンソの顔。
 私の心臓が、トクンと鳴った。
 「私は貴方を信じています。アルフォンソ」
 そう言った自分の声が震えているのが感じられた。
 「僕も君を信じている。ミケーレ」
 信仰宣言のような真摯なささやきに、私の心臓はもう一度はっきりと律動した。

 次の日から、私は気づくと自分の“ガラスの眼”の中に、あの赤い燃えるような髪を探すようになっていた。
 礼拝ではキリスト十字架ではなく、彼の姿を眺め、日に一度は彼の工房を訪れる。晩課の夕食のときも、いつのまにか彼は私の眼の中に姿を現している。
 おとといまで、私が見ていた世界とはまた、違った世界がひろがりはじめつつあった。私は自分の心に酔いつつも、恐れおののいた。
 私の魂は私の手綱を離れ、私の理性の外で禁忌を侵そうとしている。
 そう、私の罪はどの聴罪僧にも言うことは出来ない。私ははっきりと自分がアルフォンソに特別な感情を抱いてしまっていることを知ってしまった。
 決して口に出すことはなかったが、それでも私の気持ちはアルフォンソに伝わっていたのだと思う。
 私がおずおずと彼の工房に顔を出すと、彼はまず私の“ガラスの眼”を取り上げて、その歪みを直してくれ、それからさもうれしげに次々とめずらしい舶来のガラスや宝石、そして彼の作品を見せてくれるのだった。
 「ほら、ミケーレ。今日ベネチアから届いた板ガラスだよ。こんなに大きなものが無事に届くなんて、実にすばらしいことだ」
 彼は黒い縁に囲まれたレンズの下から緑の眼を輝かせ、北の窓から入る柔らかな日の光に腕を広げるほどの大きさの真っ青なガラス板を掲げた。
 「奇跡のような青じゃないかい? こんな色、どうやったら作れるんだろう」
 私は、アルフォンソの横に寄り添うようにして、彼が持つガラス板の下に立った。周囲が海の青、おぼろな記憶の中にある色に染め上げられる。
 「こうやっていると海の中にいるみたいですね」
 「そうだな、まるでここに海があるようだ。世界へと続く大いなる水の道が」
 私たちは、雲がよぎって窓に影を落とすまで、そうやって青い青い光りに包まれていた。
 工房が薄暗くなると、アルフォンソは名残惜しそうにそのガラスを工作台の上に置いた。
 「このガラスはどうするのですか。薔薇窓に?それとも聖母の衣にでも?」
 私の問いに、アルフォンソはしばしおいてから答えた。
 「もったいなすぎるな」
 思わぬ言葉に、私はアルフォンソの顔を見た。
 修道院の工房では、もっともよいものを神に捧げるのが慣わしであり、それがこの世界を司る大原則なのに、アルフォンソはさらりと「天の女王の衣」にもこの鮮やかな青を使いたくないと口にしてしまう。
 「このガラスは切らずに、『海』と名づけて神のみ技の似姿にするのがふさわしいと思う。もっとも、これを見て神を想う輩がどれくらいいるかはわからないけれど」
 アルフォンソは長く、白い指先でなめらかなガラスの表面を愛おしむように撫でながらうっとりと言った。
 「ミケーレにはわかるかい。ここにも神がいるということが」
 「ええ、アルフォンソ」
 私は、彼が与えてくれた“ガラスの眼”を通して、確かにそこに奇跡を見ていた。
 
 同じものを、丸いレンズを通して見ている私たちは、許される限りますます共にいるようになっていた。私は務めがないときは、アルフォンソの工房に出かけていたし、逆に私の薬草園をアルフォンソが訪ねてくることもあった。
 「ミケーレ! このようなものを造ってみたんだ、試してみてくれるか」
 薬草園で、かがみこんで小さな虫を除いている私に、アルフォンソが差し出したものは私たちがつけている“ガラスの眼”を鼻のアーチで半分にしたような代物だった。
 「これは何ですか」
 「こうやってつかうのさ、ほら」
 アルフォンソは私が丹念に観察していた薬草の株の前にそのたった一枚のレンズを掲げて、私にそれを覗きこませた。
 「おや、これは不思議ですね。葉や小さな虫が大きく見えますよ」
 「おもしろいだろう。レンズは」
 本当にアルフォンソはこの磨きぬいた不思議な透明な円盤が好きなのだ。
 「アルフォンソ、貴方はこのような技をどこで学んだのですか」
 私は、好きな人をより深く知りたいという根源的な欲求のままに彼の特異な知識と技の拠り所をたずねた。
 ごく単純な質問のつもりだったが、アルフォンソのかけたガラス越しにその目がとまどったようにまたたくのがわかった。結局、彼の答えは困ったような笑顔をだけだった。



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