修道院長が、アルフォンソとのことで再び私を呼んだのはその夜のことだ。
「ミケーレ修道士。君があまりにもアルフォンソ修道士と親しいという話しが他の兄弟たちから来ている」
修道院長の顔は渋くどこか悲しげにも感じられる表情をたたえていた。
ランプのゆらめく灯りに照らし出された修道院長の執務室で、私は彼の言葉に何も言えずに俯く。
「君は世俗のこともよく知らぬうちに信仰の道を歩みはじめている。そういう者は一度は通る道だが、知っているだろう。情欲は罪であることを」
「……はい」
「私は君の魂を救いたいのだ。今宵は僧房に戻らず、小聖堂で祈りとともにすごしなさい。そして、私が呼びに行くまでそこにいるように」
静かな重苦しい命令に、ずしりと鉛を背負わされたようだった。私はその重荷を背負ったまま執務室を退出し、湿っぽい石造りの回廊を歩いていった。
その途中で、私の耳は通りすがりの扉から漏れ出る会話を捉えた。扉の向こうの兄弟たちはそんな大声で話しているつもりはないのだろうが、アルフォンソが私に“ガラスの眼”を与えてくれるまでは、半分盲いたような生活を送っていたせいか、私の耳は普通の人よりもだいぶ鋭く研ぎ澄まされていたのだ。
「明日の一時課には審問官が到着する。それまでにこちらに引き渡していただけますな」
「仰せのままに管区長殿。まさか、彼が……アルフォンソ修道士がそのような異端の者とは存じませんでした」
しゃがれた副院長の声に私は扉の前で足を止めてしまった。
「忌むべきかな、彼の類まれなる技術と知識は悪魔の書物から与えられたものなのだ。5年前の大焚書の折りに、修道士の身であるにも関わらず、彼は禁書を盗んで自らのものにしてしまった。彼こそまさに、知恵の実を欲望のままに貪った男といえよう」
耳に流れこむ会話に、私は天頂近い満月と同じ蒼白の顔になっていたに違いなかった。
緑濃い薬草園で今日交わした会話とアルフォンソの笑顔が頭によぎると、私の心の中はそれだけが全てになった。
私は足音を忍ばせて回廊を引き返し、今日は向かうことを禁じられていた僧房へと走った。
アルフォンソの部屋の扉を性急に、しかしごく小さくノックする。
彼まだ眠ってはいなかったらしく、すぐにその扉は開かれた。私はわずかな隙間からすべりこむように中に押し入ると、後ろ手でそっと入り口を閉じた。
「どうした、ミケーレ」
小さな窓から射しこむ月明かりの中、お決まりの麻の夜着姿でレンズをつけることなく私を見るアルフォンソ。
その穏やかで落ちついた顔に焦点をあわせて、私は少し息を切らせたまま伝える。
「逃げてください、アルフォンソ。明日、異端審問官が貴方を捕らえにきます」
これにはさすがのアルフォンソも表情を凍らせた。しかし、私ほどは青ざめてはいなかったろう。
「今日、私は貴方と親しすぎると修道院長に言われ、今夜一晩小聖堂で反省するように伝えられました。それで小聖堂へ向かう大回廊を歩いていて、私は聞いてしまったのです。回廊に面した部屋で、管区長と副院長が貴方のしたことについて話しているのを」
急いた私の告白にアルフォンソは少しだけ笑った。あの薬草園で見せた顔とほとんど変わるところがなかった。彼は何も言わず、ベッドに腰掛けてその隣りに座るように、と指し示した。
「彼らは何と?」
「貴方が禁じられた書物を盗み、その知識を学んだ異端者であると」
私の答えに、アルフォンソはこの部屋の壁よりずっと先を見透かしているかのような様子で、静かにうなづいた。
異端審問にかけられたら間違いなく待っているのは死だというのに、羊のように穏やかにしている彼の様子が私には不思議であった。
「そう、僕は異教徒の本を読み、そこから多くを学んだ」
アルフォンソの声は私にですら聞きづらい大きさで、淡々とあらましを語った。
「修道士になってすぐの頃だった。禁書として積み上げられた本には、職人時代欲しくても手に入らなかった最新のアラビアの技術、極東の技術が書かれた本が何冊もあった。気づくと僕は色ガラスの製法や、レンズの造り方の本を手に入れていた。そして前にいた修道院で、そこに書いてある技術を我が物とした」
類まれなるガラス技術僧は、特別な技を身につけたことを誇るかのように、わずかに手をあげてその白い指で拳をつくる。
「その修道院の修道士の一人が、僕の秘密の書物に気づいた。そして僕を脅した」
私は、彼の声がいつになく興奮しているのを感じとっていた。触れ合うほどの近さの肩に小さく震えが伝わってきた。
「僕はそこから逃げ出した。……そしてここに来た」
声にできなかった呼気を吐出しながら、アルフォンソは拳をほどき、指を赤い髪の生え際に埋め込むようにして顔を被い、背中を丸めた。突然、頼りなげな姿になった彼にかけられる言葉が思いつかず、私は彼の横から彼の前へと動いて彼を抱きしめた。
「アルフォンソ、逃げて。貴方ほどの人ならば世俗に戻っても、きっとその技と知恵を生かすところがあるでしょう」
逃げて、という言葉とはうらはらにすがりつくようになっている私の背中にそっと彼の腕がまわされた。粗い毛織の生地ごしに私よりも強い体のぬくもりが伝わってくる。
「ベネチアガラスのギルドはとても閉鎖的なんだ。僕はもっと若い頃、師匠とぶつかってその世界を飛び出した。僕にガラスを触らせてくれるのは、修道院しかなかった。だから僕は修道士になったんだ」
もう、どこにも行くところがないのだと。
彼の言葉に見え隠れする絶望に、私の胸は苦しく切なく締め付けられるようだった。アルフォンソと“ガラスの眼”との出会いは私の喜びも鮮やかにしたが、私の哀しみもこれまに知らなかった残酷なまでの切れ味にする。
「貴方は私に世界を見る眼をくれた。なのに私は貴方にしてあげられることが何もない」
半分すすり泣きながら言う私を逆になぐさめるように、優しい赤毛の男は私の抱く腕の環を狭めた。
「君は僕の喜びだ。僕と同じものを見てくれる人は今までいなかった。僕は君と出会って、初めて
『孤独でない』ということを知った。僕の居場所は君の傍らだけだ」
アルフォンソはベッドの傍らに置いていた、彼の“ガラスの眼”をとり、その通った鼻梁にかけた。
「この4枚のレンズでしか見られない世界。これが僕の世界なんだ」
片方の腕を私の背に置いたまま、アルフォンソは彼の作品でもある私の“ガラスの眼”に手をやり、その銀の枠をたどってから私の耳元、頤、首筋へと指を伝わせた。初めて、このレンズを眼につけたときに私がアルフォンソを確かめたときと同じように。
「ミケーレ」
彼の声が私を呼ぶ。
まるで一枚のもろい板ガラスを扱うかのように、彼は私の顔を引き寄せた。私は透明なレンズ越しに、彼の緑色の瞳とそれを縁取る睫が少しずつ近づく様子を見た。
彼の顔が私の視界から完全に月の光をさえぎったとき。
私は初めて、唇の本当の意味を知った。
その感触はとろけるように柔らかく優しかったが、そこから私の魂をめがけて飛翔してきたものは悦ばしく、熱く、衝撃的だった。
「愛しています」
離れた唇を呼び返そうとするかのように、私は目の前の男に告げていた。
「私は貴方とともにいたい。貴方とともに行きたい」
「ミケーレ、僕の天使」
私は強く抱きしめられた。アルフォンソの赤い髪からはわずかに乳香の香りがした。
息が感じられるほど、耳の近くではっきりと彼の声がした。
「愛している。忘れないで」
重ね合わされた私たちの二つの心臓の音がお互いの薄い服を通してこだましあう。
「あ……」
次の瞬間、私の鳩尾にアルフォンソの拳が食い込むのを感じた。
急激に目の前から月の光が失われていく。
「……アルフォン…ソ…」
完全な暗闇に陥る直前、私の眼に鮮やかに写ったのはうれしそうにでも寂しそうに微笑むガラスと緑柱石の瞳。
深い水の底からうかびあがったように目覚めは気だるかった。
石のアーチに支えられた高い高い天井と、朝日に輝くモザイクを描き出すステンドグラスがはっきりとせぬ目にも飛び込んできた。
私はいつのまにか、礼拝堂の木の長椅子の上に横たわっていた。少し足を動かして、触れ合う内股が淫らな夢を見てしまったときのように濡れていることに気づいた。
夢? 夢じゃない。あの言葉も、あの口づけも。
そして、受け入れ難い悪夢のような彼の運命も、きっと。
礼拝堂の扉が開く気配に振りかえった。にじむ視界に無意識のうちにあたりを手探りして“ガラスの眼”を取ろうとしたが、あの華奢な銀の枠が指先に触れることはなかった。 そうしているうちに、礼拝堂に入ってきた人影は私のすぐ近くにやってきた。
「ミケーレ修道士。もう出てもよろしい」
私はアルフォンソと出会う前と同じ目で修道院長の顔を見上げた。
「“ガラスの眼”はどうしたのかね」
「なくしました」
「神に誓って?」
「神に誓って」
修道院長は何も言ってくれなかったが、薬草園でともに働いていた老修道士が、今日の朝課のうちに、アルフォンソが連れて行かれたことを教えてくれた。
それを聞いて、私は工房へと向かった。
工房の一角は、まだアルフォンソが作業をしていたときのままだった。今にも棚の影から彼の赤い髪がひょっこりと現れそうだった。
作業台の上に、あの青いガラスが乗っていた。私はその冷たい表面に静かに手を置いた。
―― ミケーレにはわかるかい。ここにも神がいるということが
私はそのまま少しだけ泣いた。
私の“ガラスの眼”はついに見つかることはなかった。
でも、それはもう私には必要がなかった。見るべきものがもうここにないのだから。
たった4枚の小さな丸い覗き窓から見える世界は消えた。
私はまた、靄の中に沈む人の影、物の影だけを見て生きるのだ。
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