Escena T〜1625年 スペイン・ガリシア地方

Acte 1:街外れの市で
 
 
 私が住む小さな街は、ガリシアが誇る聖地のサンチャゴ・デ・コンポステラへ続く巡礼路の一つの途中にある。
 もっともここ数十年でサンチャゴ参りは廃れつつあり、行きかう巡礼者たちもめっきり減ってしまったが、それでもまだ巡礼路を利用する人々と地元の漁師や農家とが自由に物を売り買いすることのできる小さな市が定期的に開かれていた。
 その日、私が気のよい隣人である髪結いのカルメンに勧められて足を運んだのも、街はずれに立つ恒例の朝市だった。
 「エンリケさん、代書屋ってのは辞書とか色々必要なんでしょ? 今日の市には本が出てたみたいよ。行ってみたら?」
 つまるところ、めずらしく古書の行商人が店を出しているということだったのだが、出遅れたのかカルメンの話が間違いだったのか、生憎と私が求めているような露店は見つからなかった。
 私は目的を失い、そこそこの賑わいの中を何気なくぶらぶらとしていたが、ある古物商の前に無造作に広げられたたくさんのガラクタの中にあった一枚のあまり大きくない絵に眼を奪われた。
 私が思わず足を止めたことにめざとく感づいた主人は、少し離れたところから“それは「マグダラのマリア」の絵だ”と言ってきた。
 娼婦であったマグダラの聖マリア。
 多くの画家がこの聖女の業にふさわしく、豊満な肉体を誇る妙齢の美女を描いた作品を残してきているが、私が見つけた絵に描かれているのは、中性的なふくらみのない胸と華奢な首筋を備えた、乙女であることが相応しい年頃の娘だった。
 それだというのに、この絵の匂いたつような艶やかさはどこから来るのか。
 男たちの欲に身を投げ出し、その深い罪ゆえに神の救いを求め祈り続けた聖マリア・マグダレナにふさわしい、神秘と献身を思い起こさせる官能がそこにはあった。
 緻密な筆が現した細面と、パレットの上でさぞ慎重に練られたであろう象牙色の肌。
 珊瑚を磨き上げたような、どこか男を誘う趣のある薄い唇。
 陰影を添える長い睫毛に縁取られた切れ長の眼と黒曜石の瞳。
 絹糸のようにまっすぐで光を帯びた豊かに長い黒髪。
 父と子と聖霊に誓って、私には年端もゆかぬ少女に欲情する趣味はないにもかかわらず、絵の少女の物憂げな視線は私をたちまちのうちに虜にした。
 さらに彼女がまとう刺繍を施した紅の衣装や、伝統的な構図のままに手で支える香油の壷はなぜか東洋風のもので――私もさしてそういった品々に親しんでいるわけではないが――明らかにオスマン=トルコよりさらに東、シナかハポンと呼ばれる国のものらしいところも風変わりではあったが、私には好ましく感じられた。

 先ほどの古物商がこちらに売り込みに来る様子もないのを確かめてから、私はかがみこんでカンバスを拾い上げ、あらためてじっくりとこの稀有な作品を眺めてみた。
 すると、ふと絵の中の光景に既視感を覚えて、私は目をしばたたかせた。
 どこかでこの絵を見たことがあったろうか?
 いや、他に同じ人物は見たことがない。一度でも見たら忘れるはずがないと確信できるほど、私をすっかり魅了するこの黒髪の少女の印象は強かった。
 では、一体何が?
 絵を手にしたまま、しばらく首をひねって記憶の糸をたどり、ようやく私は不思議な感覚の要因につきあたった。
 聖マリアが手にしている壷だ。古そうな絵であるにもかかわらず、未だに鮮烈な白さで塗られ、その上に深い青と朱と翡翠色で東洋の花と鳥の柄を丹念に描きこんだ少し細身の壷におぼえがあったのだ。
 そう、まったく同じものを見たことがある。
 それもこの町から少し離れた港町に住む、月に1度は訪れるわりと親しい男の家で。
 
 私は運命的な偶然に驚き、また感動してやはりこの絵を購入したいという欲求に囚われた。
 絵を持ったまま、敷物の向こうにいる主人に値段を尋ねると、美術品を見定める眼を持っているのか疑わしい風体の男は、かようなガラクタ屋で扱う商品とは思えぬような数字をふっかけてきた。
 男の言い値からすればこの絵は街の一介の代書屋の気まぐれにはすぎた買い物であったが、私は交渉する間ももどかしく、見つけた“マグダラのマリア”の絵にそのままの金額を支払った。
 「その絵は、サンチャゴの巡礼宿の主人が売りに出していたんだ。聖地で手に入れたものだから、きっと霊験あらたかだろう」
 そんないい加減な能書きを言いながら、思うように話が進んだことに満足したらしい男は、絵を運ぶのにちょうどよいだろうと古着の一山から大判の粗末なスカーフと丈夫な紐を見つけてきて私にくれた。
 受け取った布で絵を包もうと画布を張った木枠を裏返して、私は初めてそこに何やら字が書かれていたことを知った。
 確かに、“マリア・マグダレナ”の綴りが読める。
 だいぶ剥げ落ちてしまっていて読みづらいが、その前にも何か言葉が。
  “私の永久の罪なる愛しきマリア・マグダレナ”
 目をこらしてみると、ラテン語でそんな風に書き付けてあった。


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