Acte 2: アルバロの家で・夕刻

 私が買った絵の中の香油の壷と同じ壷を持っている男、名前をアルバロと言う。
 アルバロはまだ若い青年ながら海産物の買い付けで手堅い商売を営んでいるホセ・メンドサ商会の秘書を務めている。私は彼の依頼で、メンドサの商いに関わる公文書や大仰な契約書などを書くことを常の仕事として請け負っていた。
 最初は仕事のみの付き合いで、書類の受け渡しや依頼の打ち合わせも商会の客間で済ませるだけだったが、何度も顔をあわせるうちにアルバロとはかなり気が合うことがわかり、やがて仕事の後には一緒に街の居酒屋などにでかけるようになっていた。
 彼の家に初めて行ったのは2年ほど前になるであろうか。
 定まりの飲み処となった“黄金のガレオン亭”でついつい早い時間からリベイロ(ガリシアのワイン)を飲みすぎて、したたかに酔った私に、彼は彼の部屋に泊まっていくことを勧めてくれたのだ。
 彼の住居は街の中心部から少し歩いたあまり大きくはない家屋の2階を占めていた。
 質素なしつらえの室内で、棚に置かれた東洋風の壷がやけに目だっていたのを覚えている。
 あの日以来取り立てて急ぐ用事がなければ、メンドサの仕事で潮の香りがする隣町に行くときは午後から出かけて、仕事を済ませたらアルバロと連れ立って飲みにでかけ、酒と食事を楽しんだ後に、彼の家に宿を借りる―― そんな予定を立てるようになった。
 私がまたメンドサ商会へと出かけたのは、あの絵を手に入れてから約2週間後。
 アルバロにこの“マグダラのマリア”の絵を見せるべく、私は絵をあの粗末なスカーフではなくきちんと画面を保護してくれる滑らかな毛織物で包み、書類を入れたカバンとともに手に持って、自宅を後にした。
 乗り合い馬車に揺られて2時間ほど行けば、海の見える街に着く。
 その街の中心にあるメンドサ商会の看板を吊るした大きな屋敷の扉を叩けば、すぐに奉公人らしい少年がアルバロに取り次いでくれた。
 いつも数人の男が忙しくしている事務所だが、アルバロが来たのはすぐにわかった。
 やや小柄で、出入りの漁師たちに比べると頼りなげなほどに見える線の細い風貌。色白なのに髪はセビリア人のように黒くて、長く伸ばしたその襟足をいつもビロウドのリボンで結わいている。
 「やあ、アルバロ。元気そうで何よりだ」
 「エンリケさんも。……今日は大荷物ですね?」
 「君に見せたい絵があって持ってきたんだ。今日は早めの時間に君の家にお邪魔してもいいだろうか」
 「かまいませんよ。ああ、でも食事をどうしようかな」
 結局、今回作った書類の引渡しと次の書類の受注のための打ち合わせを終えてから、私とアルバロは街で夕食と晩酌のための買い物をしていくことにした。
 酒屋で赤と白のリベイロを1本ずつを買い求め、その後に居酒屋のカウンターでマグロと玉ネギのエンパナダ(惣菜パイ)と焼いたナバハス(マテ貝)、それからカチェロス(付け合せ用のジャガイモ)を注文して包んでもらった。
 荷物を抱えてアルバロの部屋に上がると、私はまっさきにあの壷を目で探していた。
 あった。前に見たときと同じく、居間の作りつけの棚に置かれていた。
 酒と肴をテーブルに置いたアルバロがランプに火を入れると、光が壷を白く浮き上がらせそのなめらかな表面に描かれた柄をくっきりと私に見せてくれた。
 家主がとりあえず、と用意してくれたワインに手をつける前に、私は自分が持ってきた絵の包みを解いた。すぐにでも私の記憶が確かであったかどうか照合したかったのだ。
 紐をゆるめて毛織物をはずすとあの美しいマグダラのマリアが姿を見せる。
 私は彼女の持つ壷と目の前にある壷を丹念に見比べた。
 間違いない。壷の形も、柄の色も描線も奇跡のように同じものであった。
 「その壷がどうかしましたか、エンリケさん」
 背後からアルバロが声をかけてきた。
 私はふりかえって、アルバロに絵を差し出して見せた。
 「ほら、この絵。私が住む街の市に来ていた古道具屋で見つけたんだが、彼女の持っている壷と、君の家のこの壷。まったく同じものなんだ」
 まるで興奮を隠しきれていない私の口調に、アルバロは少し笑ったような顔をしたが、絵を見た彼の反応は私の予想とまったく異なっていた。
 彼はそのマグダラのマリアを一瞥するや、細い眉根を寄せて驚きと苦々しげな感情をないまぜにした表情を浮かべ、そのまま立ちつくしてしまった。
 いつも朗らかな彼のこんな姿を見るのは、私には初めてのことだった。
 「どうかしたか、アルバロ。この絵に見覚えでも?」
 私は、彼のただならぬ様子に自分が何を見せてしまったのか急に不安になり、おそるおそる声をかけた。
 「この絵、どこで手に入れられたのですか」
 私に尋ね返してきたアルバロの声は硬く、それでいてわずかに震えているようでもあった。
 「私が買ったのは、私の町に立つ市の古道具屋でだ。店の主人はこの絵をサンチャゴの巡礼宿の主人から買った、とか言っていたが本当かどうかは知らない」
 私の返事に、そうですか、とだけ呟いたアルバロはしばらく絵を眺めた後、ふっと溜息をひとつ吐いてから私のほうを向いた。
 「エンリケさん、貴方はこの絵をどう思いますか?」
 そう聞かれて私はあらためて絵を眺めやった。
 「誰が描いたものかは知らないが傑作だと思う。まさしくマリア・マグダレナだ」
 聖女としての神秘と清らかさ、娼婦という官能性を併せ持っている。
 そんな風に私が感想を伝えると、アルバロも、“そう思う”と二度目の溜息を交えながら言った。私にはそんな彼の態度が気になってしようがなかった。
 「不躾かもしれないが、聞かせてもらいたい。君はこの絵の出自を知っているのか?」
 私の問いに彼は眉根をほどいて困ったような笑顔を作った。
 「ええ。でもお話するには少々酔う必要があるかもしれません」
 彼は、居間の隅に置いたテーブルの方に向かい、椅子の一つに座ると私を差し招いた。
 「お腹も空いた頃でしょう。とりあえず夕食にしませんか」
 ――そう、話せば長くなりそうですから。
 彼はその薄い唇が染まってしまいそうなほどに深い赤のリベイロをグラスに注ぐと一息に飲み干して、三度目の溜息をついた。


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