花の都の6月。
アレッサンドロ・ディ・メディチ公暗殺という血なまぐさい事件で明けたその年、後に、若干17歳の新公爵コシモ・ディ・メディチを迎えて半年がたった。
今、フィレンツェは最も美しい季節の中にある。
新公爵の有力な支援者であるヴァローリ家の庭園もまた、この折にふさわしく咲き乱れる花々と深さを増す濃緑の木々で、夏至も近い夜の園遊会に訪れた客たちを愉しませていた。
公爵と同じく17歳になる当主の長男、エンツォ・ディ・ヴァローリが園遊会に姿を現したのは、夏の夕陽に代わり、銀色の月明かりがあたりを照らす頃になってからだ。
薄紫色のタイツを履き、空色の短衣をまとったエンツォの華奢で中性的な姿態とフレスコ画の天使のような面差しは園遊会に集まった貴賓たちの視線を集めたが、父や弟、母や姉妹のように社交的なふるまいのできない物静かなこの少年は、宴が熱を帯びるにつれ人々の関心からはずされていった。
エンツォ自身もまたそれを幸いと庭園のはずれへと歩いて行った。
淡い紅色のつるバラに覆われたその小さなあずまやは、エンツォのお気に入りの場所のひとつだった。
たまに庭師が手入れに訪れるほかは、屋敷の者はまず来ない静かな場所――。
芳しい天蓋をくぐって、エンツォは驚いてその薄い青の目を見張った。
バラの葉と花びらを透かして注ぐ月光に浮かび上がったのは、長椅子の上で寝息をたてている青年の姿だったからだ。
彼が身に着けた深い藍色の胴着は高価そうなもので、一目で今日の園遊会の客人――
こんなところで寝ているあたり、かなりむちゃくちゃな客人ではあるが――とにかく、自分とさして変わらぬ身分の男だとわかる。
どうしたものか、とエンツォが逡巡しているうちに、青年が目を開いた。
「…………」
寝起きのクセなのか、青年は硬そうな黒髪の生え際に骨っぽい指をからませて、少しぼんやりとした様子で緑色の視線をエンツォに向ける。
「あ、あの……」
何をどう言ったらいいのかもわからずしどろもどろに声をかける少年に、居眠りしていた珍客はふっと笑いを浮かべた。
「何だ、君も逃げてきたのか?」
そう言いながら青年は起き上がり、エンツォも座れるように座りなおした。
「おいでよ」
その青年はベルナルドと名乗った。
君は?と尋ねられてエンツォもただ名前だけを名乗った。
「どうもこういう夜会とかは苦手でね」
「……僕も苦手。一人でいるほうがいいな……」
「エンツォも義理で連れてこられたのか?」
「うん……ベルナルドも?」
「まあね」
それだけの言葉を交わしただけで、二人は口をつぐんだ。
相手がそれを気まずく思っていないことだけは、それぞれはっきりと感じていた。
エンツォは、肩に触れる彼の体温が不思議と心地いい、とふと思った。
そんな静かな時間がどれほど流れたのか。
やがて、屋敷のほうから聞こえる声が、園遊会のおひらきを伝えてくる。
仮にも当家の一員として、見送りの列には加わらねばならないだろう、とエンツォは席を立った。
「僕、もう行かなくちゃ」
そう言ったエンツォの白い手を、ベルナルドの浅黒い手がとった。
「また、会えるかな」
「……会いたい」
あまりに正直な答えを漏らしたエンツォの唇は、憑かれたように約束を紡ぎだしていた。
「明日……宵の明星が輝く頃に、聖ロレンツォ教会の糸杉の下で」
「わかった」
その答えだけを聞くと、エンツォは振り返らずにバラのあずまやから駆け出して行った。
父と母、姉弟たちは見送りの挨拶に忙しく、エンツォは誰にも席をはずしていたことを咎められずに見送りの列に加わることができた。
グィッチャルディーニ卿、ヴェットーリ卿、サルヴィアーティ夫人……
着飾った客人たちが通りへと抜ける小道を去るのを見送っているうちに、明日会う約束をしたあの青年が、恰幅のよい壮年の貴族とやってきた。
「今日は愉しんでいただけましたか、ソデリーニ殿?
ご子息も?」
ベルナルドに話しかけようとしたエンツォの声は、その父の言葉を聞いて止まった。
ソデリーニだって?
凍り付いたエンツォには一瞥もくれず、ベルナルドはさっきとはうってかわった儀礼的な様子で、愛想笑いじみたものまで浮かべてホスト役のヴァローリ卿と話をしている。
ベルナルドは……ソデリーニ家の……。
エンツォの頭の中で、声にはならない独り言が、耳鳴りを帯びて響いていた。
宮廷につとめていないエンツォですらも知っている。
ソデリーニ家はヴァローリ家の仇敵の一族であるということを。
共和制派のストロッツィ家と親交するソデリーニ家と、君主制の立役者の一族として、メディチ家を擁護するヴァローリ家。
このフィレンツェでは、決して相容れることのできぬ仲であり、両家は政情によってはいつでも互いに刺客を差し向けあうような関係にある。
その夜、自室に戻ってもエンツォは眠ることができなかった。
バラの幕屋の中で微笑んでいたベルナルドを思い出すと、あまりにも切なくて。
まだ一度しか顔をあわせていない婚約者の女性の顔よりも、青年の緑の目と触れる肩の温かさに胸が高鳴った。
一目惚れなんて、伝説の中の出来事だと思っていた。
キューピッドの矢の毒は、恋を知らなかった胸にはあまりにも苦しい熱をおこさせた。
「やれやれ、無事に帰ってこられたな」
ソデリーニ卿は、家の門をくぐってやっとという様子で息子に声をかけた。
「まあ、今は騒ぎを起こさないであろうと思っておりましたが……。
ローマのファルネーゼの賓客を前に、フィレンツェの混乱ぶりを見せ付けるような真似は、メディチに追従する連中はやりたくないことでしょう」
いたって平静な調子で、今の政情を揶揄する跡取り息子の様子は、当主には好ましいものだった。
「ところで、お前は一体どこに行っていたのだ?
宴席から逃げておったな?」
「木陰で妖精の女王を口説いていたのですよ」
ベルナルドは苦笑を父に向けてから、自室へとひきとった。
部屋の扉を閉めた途端に、装っていた切れ者の青年貴族の仮面がはずれ、柔和なバランスを保っていた眉が崩れて、ベルナルドの表情は自嘲的な色を帯びる。
「……ヴァローリの息子だったとはね」
今でもまぶたにくっきり浮かぶ光景。最初は夢の中なのだと思った。
光輪を背負った金色の髪の天使が俺を覗き込んでいる。
バラの薫りを漂わせながら。
夢うつつから抜け出た後も、その姿が一人の少年だと気づいた後も、心の奥に宿った小さな炎はゆらぎもしない。
フィレンツェの青年団の仲間のなかには、戯れで男を抱くやつもいた。
過去には男を愛人にして囲っていたやつもいたという。
でも、まさか。
自分が同性に、それも一目で心を持っていかれるなんて。
思わず手をとった自分に約束を与えて走り去った彼が、宿敵の傍らにたたずんでいたときには、いよいよ自分だけでなく、世界のすべてを俄かに信じがたくなった。
「エンツォ……」
名前を呼んでみる。
彼は信じてくれるだろうか、仇敵である家の跡取りであるこの俺を。
たった一晩で、蒔かれた恋心は勢いよく芽を吹き、蔓をひろげてベルナルドの心をからめとっていた。
約束の日。
やっと太陽が沈み、夕闇がせまり、低い位置に明星が灯りだしたのを見て、ベルナルドははやる想いを押し殺しながら、聖ロレンツォ教会へと向った。
墓場を守る黒々とした糸杉並木の辺りは静かで、夏の気配もあまりせず、時間が止まったような雰囲気だ。
木立のなかに、紛れるように黒いフードとマントをまとった姿があった。
期待をしつつも、ベルナルドは呼びかけることなくその人影に近づいた。
先に声をかけたのはそのマント姿のほうだった。
「ベルナルド……?」
聞き覚えのある声がする黒いフードの縁からは、金を紡いだような髪がのぞいている。
「エンツォ!」
思わずベルナルドは自分よりかなり小柄な相手を抱きしめた。
「よかった。来てもらえないかと思った」
そう言って、腕の中でため息を漏らすエンツォは、ベルナルドにとってすでに、恐ろしい程に愛しかった。
「まさか、エンツォ、君があのヴァローリの家の者だったなんて……」
哀しげに言うベルナルドの唇に、そっとエンツォの指が触れた。
「言わないで」
そう言って首を振るエンツォもまた。
一人の男の抱擁がこんな悦びをもたらすとは、信じられない気持ちでいた。
自分はもう狂っているのかもしれないとすら思う。
同性愛を禁じる教会への背徳と、対立する家の者と情交をもつという家督への裏切り。
破滅の奈落の淵にいるというのに、今、互いに目の前にいる相手に手を伸ばさずにはいられない。
真夏の宵闇にも似たしっとりと昏さを帯びた熱。
自分を魅了してやまないこの相手以外逃がす場もない、重くも甘美な想いは接吻の雨となって、糸杉の木陰にふりしきった。
|
|