秘密の逢瀬というのはたいがい、一度で終わらせることはできない。
 会うたびに、もっと会いたいと願うようになり、会う回数も、会っている時間も増えていく。
 お互いに決して知られてはいけない恋のはずなのに、自制などというものはあまりにもろく、さながら沼地に足を踏み入れたかのごとくに甘い時間に溺れていくものだ。
 エンツォとベルナルドの場合も例外ではなかった。
 会うたびに、気持ちは熱さを増し、その分、愚かにも周囲への気配りがおろそかになる。
 出会ってから二十日の内に、二人の逢引はそれぞれの家の当主の知るところになってしまった。
 「エンツォ、ソデリーニの倅とよく会っているそうだな」
 エンツォの父は実に苦々しい表情で、言う。
 「私の立場にもなってくれ。息子が、いくらまだ若年とはいえ共和制派の急進であるあの連中と何かにつけて会っていると知れたら、私が宮廷で気まずい気持ちになるのは十分わかるだろう」

 ベルナルドの父は、もう少し鷹揚ではあった。
 忙しげに、書類にペンを走らせながら、息子のほうを見ることもなく言った。
 「なぁ、ベルナルド。お前がヴァローリの坊ちゃんを可愛がるのは、お前の自由だ。
しかし、あの坊ちゃんのことを考えたら、ひどいことをしているのはわかるだろう」
 そこで、ぱたりとペンを置き、当主はやっと息子の目を見た。
 「我が家はヴェネツィアに亡命されたフィリッポ・ストロッツィ殿の信頼をいただいている誇り高き
フィレンツェの貴族だ。
  所詮成金のメディチに追従する立場ではない。
  我らとヴァローリは、選ぶ道が違うのだ。
  お前がやっていることは、あの純真な坊ちゃんを弄んでいるだけにすぎないのだよ」
 ベルナルドは反論できなかった。
 多分、父の見方は正しいのだろうと思ったが、父の書斎では素直にうなずくことができなかった。

 その宵、糸杉の木の下で落ち合ったエンツォの顔を見て、ベルナルドは息を呑んだ。
 「エンツォ、その顔……」
 「父上に……叩かれた…」
 「俺と、会ってるからか…?」
 「……」
 ベルナルドはそっとエンツォの痛々しい赤みを帯びた頬に手をかけた。
 ゆるやかに手のひらで包み込むと、まだ血がにじんでいる唇を自分の舌先でていねいに労わっていく。
 「ひどいな。きれいな顔なのにな」
 「……」
 「俺の、せいなんだな……」
 「違うよ……」
 自分の腕の中にある愛しい少年の唇に、何度も唇を重ねてようやく、ベルナルドはその一言を伝える決心を固めた。
 「……俺たち、もう会うのをやめよう」
 やっと声にしてみたら、ひどく震えていて情けないな、とベルナルドは思う。
 「何で……ベルナルド? 僕の、この顔のことだったら……」
 「違う、それだけじゃない」
 エンツォの顔が見られなかった。
 見てしまったらこんなことは二度と言えない。
 でも言わなくてはならない。
 年上の自分から。分別を持たなくてはならないのだ。
 「俺は、共和制の支持者だ。少なくとも宮殿にはそうおぼえられている。
  でも、お前はそうじゃない」
 「それは父上の問題だ。僕には関係ない」
 「誰もそんな風には見てはくれない」
 ベルナルドは強く首をふった。
 「実際、今でも俺は反メディチの運動に関わっているんだ。
  今のコシモ公が先代のように密告制度なんか推奨しだしたらどうなる?
  俺と関わったお前だって拷問にかけられるぞ」
 そんな言葉に、エンツォは少年らしいかたくなさで反抗した。
 「そんなこと、怖くないよ。僕はベルナルドと一緒にいたいんだ」
 「俺はいやだ!俺のためにお前があの官吏どもにいたぶられるのなんてまっぴらごめんだ!」
 思わぬベルナルドの語気の強さに、エンツォが哀しげに眉を下げた。
 「……俺はどんな拷問にだって耐えてみせる。
  だけど、お前が鞭打たれるようなことがあったら、最初の一撃で俺はどんな秘密でもはいてしまいそうなんだ」
 呻くようなベルナルドの声。
 今度はエンツォの方から、静かに慰めるようなキスを送る。
 ここで聞き分けよく、ベルナルドの言葉にうなずくことができたらどんなにいいだろう。
 そうは思っても、荒馬のような心はエンツォの理性の手綱に従ってはくれない。
 いつのまにか、エンツォはベルナルドにすがりついていた。
 今、この手を離したらその瞬間にでもベルナルドを失ってしまう、というかのように。
 恐怖にも似た面持ちで、自分より背の高い青年の顔を見上げて、やっと口を開く。
 「ねぇ、お願いだから」
 エンツォの薄青い目には涙がにじんでいる。
 「もう一度、もう一度だけ。
  聖ジョヴァンニ・バッティスタのお祭りの夜。
  夜明けの前に。待ってるから、会ってよ。それで最後にしよう」
 ベルナルドは返事をしなかった。
 ただ一瞬、エンツォの細い体を折らんばかりに抱きしめると、からめた腕を解いて、足早に木立から出て行った。
 いつもより、その黒髪がゆれる後姿が少し丸いような気がした。
 生ぬるい夏の風に吹かれながら、エンツォはいつまでもベルナルドが去った方向を見つめていた。
 
 そして。
 6月24日は、フィレンツェの守護聖人、聖ジョヴァンニ・バッティスタの祭日。
 メディチ宮殿の仮面舞踏会に招かれ、エンツォは浮かない顔を小さなマスクで隠して自ら壁の花となっていた。
 最近、共和制主義者の間に動きがあると臆されているだけに、宮廷の舞踏会にはソデリーニ家の者は本家の名代以外は、顔を出していないようだった。
 エンツォにとっては、夜明けにベルナルドを待つ時間までの暇つぶしでしかないこの舞踏会も、大勢の人々にとっては、夏を楽しむ華やいだひと時だ。
 大広間では誰とも知らぬ男女の一群が、艶やかな衣装と神秘的にも見える仮面をつけて、物憂げな舞曲にあわせて優雅な舞を繰り広げている。
 エンツォと踊りたいと心をときめかせている淑女が何人もいるであろうにも関わらず、彼は父に連れられてきた最初と同じく、つれない様子でくるくると動く色彩に目を泳がせているだけだ。
 ふっと目の端を通り過ぎていった影があった。
 ベネツィアの男が着るような黒い長衣と黒い帽子。
 やはりベネツィア風の顔を全部覆う装飾的な仮面。
 帽子の赤い羽根飾りのほかは黒尽くめの賓客がエンツォの傍らに立った。
 仮面の奥の視線は明らかに自分に向けられていた。
 ベネツィア人の知己はいたろうか?
 エンツォが記憶を辿ろうともう一度、目の前の男を見て、はっとここで会える由もない恋人のことを思い出した。
 まさか。
 あらためて少年が仮面を見上げると、仮面の目の穴から宝石のような緑の色がちらりと見えた。 
 ベネツィアの仮面の男は長衣の袖から、小さな箱を取り出すと、エンツォの手のひらに握らせた。
 触れた指の感触でエンツォは確信した。
 ベルナルド!
 ここでは呼ぶにも呼べない名前だった。彼は共和主義制者として、宮廷にマークされているに違いないのだ。
 心配げなエンツォの様子を理解したのか、“ベネツィアの男”は足早に広間を出て行った。
 彼が出て行くのを見送ってから、エンツォは少し休むふりをして、廊下に出た。廊下用のあまり大きくない燭台の下で、受け取った箱を静かに開く。
 中には金を平打ちにした、指輪が収められていた。
 磨かれた表面には、精巧な字体で文字が彫られている。

 omnia vincit Amor.

 恋はすべてを打ち負かす。
 エンツォも知っている古代ローマの詩人、ウェルギリウスの名句だ。
 「二人の恋はどんな困難にも負けない」というようにも読めるが、エンツォはベルナルドがこの言葉を選んだ真意はそんなことではないだろうと複雑な笑みを浮かべる。
 恋の神はすべてを打ち砕き、奪い去る。
 人の理性も名誉も財産も。時には恋人自身を。時には自分自身を。
 だから。もう会ってはいけないのだという再度の戒め。
 これが、ベルナルドの愛の形なのだとエンツォは理解した。
 やがて、明けの明星が上る頃。
 聖ロレンツォ教会の糸杉林には誰も姿を見せなかった。

 金の指輪で心を縛り、自ら恋人との逢瀬を禁じたエンツォの苦しみは、予期せぬ形でひと月もたたぬうちに終わりを迎えた。
 彼がこの世でただ一人、会うべき人がいなくなったのだ。
 指輪の送り主であったベルナルド・ソデリーニは国家反逆罪で処刑された。
 7月に入り、メディチ家の追放とフィレンツェの共和制の再興を唱えるストロッツィ家の許に、共和制支持派の貴族たちはついに軍を集結させた。
 この反逆に対し、君主コシモは外国から呼び寄せた傭兵部隊を差し向けた。
 モンテムルロの戦いとして知られるこの戦闘は、結局君主派の勝利となり、共和制を唱えた多くの貴族の師弟たちが捕虜となり、国家反逆罪の判決を受けた。
 ベルナルドもその反乱に加担した一人として断頭台に上がり、何の釈明もせずにその命を散らしたことを、エンツォは父の従者の一人から聞いた。

 その日。
 宵の明星が輝く頃、エンツォはそっと家を抜け出して、黒いマントをまとうと聖ロレンツォ教会の糸杉の林へと向った。
 
 omnia vincit Amor.

 左手の薬指にはめた、金の指輪は暗がりの中でもきらめいている。
 エンツォは自分の髪の色と同じ輝きに静かにキスを落とした。
 「さあ、恋の神よ。僕の魂を持っておいき」
 指輪のない右手には、月の光と同じ色の小さな刃物が握られていた。

 やがて糸杉林の間に、小さな金と銀の光がきらめいて。
 木立の間で何かがくず折れる音が、わずかに辺りにこだました。

====Fine====

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