転職が決まって引っ越したアパートの最寄り駅は、都心から各駅停車で20分。
その急行の止まらない駅から微妙に離れた商店街はやや廃れ気味の風情だが、小さなスーパーと小売の商店が15軒ほど立ち並んでいてとりあえず日常の用事は一通り足すことができる。
前の会社をやめて、少し続いた無職生活もあと1日で終り。
その日、俺は年配の主婦の皆様にまじって夕方のかなり早い時間からトイレットペーパーやら洗剤の買出しに商店街を歩いていた。
本当に何気なく歩いていただけなのだが、つま先が何かにひっかかってバランスを崩した俺は本当にころぶ寸前まで前につんのめった。
「あっ」
ちょっとけっつまずいた程度のことでカポッと眼鏡のレンズが片方はずれた。かなり厚く丸みのある俺の眼鏡のレンズはいびつな軌跡を描いて、道端にころがる。
溝に落ちる寸前のところで拾い上げたレンズを、もう一度フレームにあわせようとしする。どうしてもうまくいかない。
俺の眼鏡は「ハーフリム」とかいう上半分だけフレームのあるヤツ。眼鏡が嫌いで、最初はコンタクトにしようとしたのだが、どうも相性が悪いらしく、ハードもソフトも試してみたものの、すぐ目の具合が悪くなるのでやめた。次善の策としてフレームのめだたないタイプのものにしたというわけだ。
このタイプの眼鏡、フレームのない下半分はナイロン糸で吊って支えている。その糸の部分がどうしてももう一度はめられない。
「……さてと、困った」
俺は片方素通しという間抜けな眼鏡をかけたまま、掌の上のレンズを眺めやった。俺の目はかなり悪くて、眼鏡がないと仕事にならない。スペアの眼鏡もなく、明日から新しい設計事務所に出勤ということを考えると気分がブルーになった。
蒸し暑さににじむ夕日の中でちょっと考えてから、俺はこの商店街のはずれに眼鏡店があったことを思い出した。やっているのかやっていないのかもよくわからないような古びた店だったが、これくらいは何とか修理してくれるかもしれない。
俺はレンズがはずれたフレームをかけたままで、商店街の方へと向かった。
西條眼鏡店。
まるっきりひねりのない、野暮ったい看板を掲げた店は商店街でも端の方にくすんだたたずまいを見せていた。
営業中の札を確認すると、俺はほこりっぽいガラスのはまった店のドアを押した。
ちりんちりん、とノスタルジックですらあるベルの音がなる。
「いらっしゃい」
本当に形だけ、というような無愛想な挨拶をカウンターからよこしたのは、近づいてみると意外や俺とさして変わらぬ年に見える若い男だった。
質のよさげな生成りのシャツに黒いエプロン。長めの黒髪の襟足を一つに縛り、アンティーク風の黄銅色のフレームの丸っこい眼鏡をかけている。
薄い眼鏡のレンズを通して、その店員の黒い目がじっと俺の方を見た。俺はあわてて、レンズの落ちたフレームをはずして、手に持っていたレンズと一緒に店のカウンターに置いた。
「修理ですか」
「はい、こちらで買ったものではないんですけれど」
「かまいませんよ、お代きちんといただきますから」
ニコリともせずに、その男はカウンターの俺の眼鏡を取り上げ、レンズともどもしばらく眺めてから言った。
「フレーム買い換えたほうがいいですね」
「え、壊れているんですか?」
とりたてて壊れるような扱いをしたおぼえのない俺は、つい不機嫌な声で言ってしまった。ひょっとしたらこの寂れた眼鏡屋は隙あらば俺に眼鏡を買わせようとしているのではないかと心の中ににょきりと不信が芽吹く。
俺のそんな疑いを見透かしたのか否か、その店員はまるで出来の悪い学生に講義をする教師のような口調で俺に言った。
「このレンズは、このフレームに入れるには厚すぎます。構造的に弱くなりますし、レンズの厚さが際立ってしまうので、見た目としてもいただけないものですよ」
見た目としてもいただけない、などといけしゃあしゃあと言う若い店員に唖然としているこちらにかまう様子もなく、彼は話しを続ける。
「スペアはお持ちじゃないんですか」
「持っていたら、かけてからきますよ」
「そうでしょうね。じゃあ今、とりあえず使えるようにはしましょう」
そう言うと、店員はカウンターの下から分厚い台帳のようなものを取り出した。
「お書きいただけますか」
これまた古々しい事務バインダーにお似合いの伝統的な100円ボールペンを差し出され、俺は普段よりはややていねいな字で名前と自宅の電話番号を書きこんだ。
「井村武光さんですね」
その後、店員は台帳に眼鏡の様子などを書いているようだった。
まるで医者のカルテみたいだな、と思って手元をのぞいていると、最後に担当者の欄に「志雄」と書きこむのがかろうじて見えた。
「それじゃ井村さん、そこに座ってお待ち下さい」
そう言って、志雄さんは布を張ったトレイに眼鏡とレンズをのせると、店の奥に消えていった。俺は言われた通り、昭和の昔からここの店に鎮座していそうな古い椅子に腰掛け、時が止まったような店内から外が暗くなっていくのを眺めていた。
10分ほどたって、俺の眼鏡は戻ってきた。
「じゃ、かけてみてください」
俺がトレイの上の眼鏡に触れるよりも早く、志雄さんが眼鏡を取り上げた。
「失礼します」
ぶっきらぼうな口調とはうらはらに、うやうやしいまでの手つきで彼は華奢なつるをそっと俺の耳にかけた。
そして、すっ、すっと細い指で俺の耳元にかかる髪を撫で付けて、かけたつるを慎重に定位置に固定する。
やっと焦点のあった視界の真中で、志雄さんがカットを終えた美容師のように俺に聞く。
「いかがです」
「ああ、ええ大丈夫……?」
俺が答えている端から、彼は再び俺の顔に手を伸ばしてきた。
鼻梁にかかる部分や、つるなどを少しゆらすように動かしてから、かけたばかりの眼鏡を俺から取り上げる。
「もうちょっと調整してきます」
ボソリと言って、また店の奥に行ってしまった。
「……ヘンなヤツ……」
思わず俺はこぼした。
また待たされるのかと思ったが、今度は時計の秒針が3周したところで戻ってきた。
さっきのように志雄さんがかけてくれた眼鏡は、これが同じ眼鏡かと思うくらい、ずっと軽い感じがした。驚いて目を見張っていると、志雄さんの顔に一瞬だけふわっと笑顔がよぎった。
「軽くなったでしょう。きっちりフィッティングしましたから」
「はあ、すごいもんですね……」
しみじみ感心していると、突然、にぎやかに店の入り口のドアが開いた。
ふりむくといかにも頑固ジジイといった趣の年寄りが勢いよく店の中に入ってきた。この世代にしては背が高い。昔はモボで通ったのであろう、パナマ帽とペンシルストライプのワイシャツ。リネンのズボンは細めのサスペンダーで吊っていた。
「あ、おじいちゃんお帰り」
「こらっ、シオ、店では師匠と呼ばんか!」
客である俺をまるで無視した二人のやりとりに困って、交互に両方を見ているとじいさんの方がにっと笑いかけてきた。
「おっと、失礼。あんた、用は足りたかね?
シオが役に立たんようならワシが引き受けるが?」
「いえ、とてもよくやっていただきましたが……」
「そうか、まあそりゃそうだ、ワシの孫じゃからの」
孫に厳しいんだか甘いんだかわからないことを言って、じいさんは入ってきたのと同じ勢いでずかずかと店の奥へ消えていった。
嵐が過ぎ去った後の沈黙。
「……おじいさん、にぎやかですね」
「ええ、まあ……修理代、1000円です」
高い……と思いつつも俺が一万円を差し出すと、彼はカウンターの横の、あのおじいさんの代から使っていそうな塗料があちこち剥げた手提げ金庫を開けた。
そこからお釣り用の1000円札をつまみだしながら言う。
「さっきも申し上げたように、そのレンズはそのフレームにあっていません。ですから僕の作業に手落ちがなくてもいずれまたレンズは落っこちると思います。レンズをなくされないうちにぜひまたおいでください。適当なフレームを見繕いましょう」
「は、はい、どうもお世話様でした……」
眼鏡職人または眼鏡オタクともいうべき志雄さんの静かな迫力に気おされつつ、俺は西條眼鏡店を後にした。
そのとき俺はもう西條眼鏡店の世話にはならないつもりだった。
週末に隣り町のデパートにでかけて、スペアの眼鏡をつくっておこう、と思っていたのだったが。
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