俺の意に反して翌日、俺は再び西條眼鏡店の看板をくぐることになった。
出先から事務所に戻る途中、人とぶつかって、今度はこともあろうか両方のレンズが落っこちてしまったのだ。
道にしゃがみこんでレンズを拾い集めていたら、聞き覚えのある声が上から降ってきた。
「おや、あんた、昨日来てた兄さんだね。気分でも悪いのか?」
パナマ帽をいなせにかぶった西條眼鏡店のじいさんだった。
事情を説明すると、じいさんはふん、と鼻をならしてしかめっつらしく言った。
「仕方ないな、ウチにきな。とりあえず見えるようにせにゃなるまい?」
言われるままに俺はおとなしく付いていった。
「シオ!帰ったぞ!」
ドアを開ける勢いにけたたましく鳴るベルの音よりでかい声でじいさんは叫ぶ。
「おかえり……あれ、井村さん」
無愛想な割に、志雄さんは客の名前をおぼえているようだった。
「あー、この人な、眼鏡のレンズ落として困ってる。お前の担当だろう。なんとかして上げなさい」
「……やっぱり落ちましたか」
ぼやけていて、少し離れたところにいる志雄さんの顔ははっきりと見えなかったが、おそらく呆れた顔をしてるのだろう、と俺は少し気恥ずかしく思った。
「ワシは町内会の会合があるんで、もうでかけるから。後は頼んだぞ!」
「はいはい、いってらっしゃい」
じいさんはバタバタとまた慌しく店を出て行き、静かな店内に俺と志雄さん二人きりになった。
「……ちょっと、失礼」
俺は携帯電話を取りだし、事務所に電話をした。
「ええ、眼鏡ないと製図もままなりませんから……はい、はい、すみません」
戻るのが当分遅れる旨を伝え終わって、ふと見ると志雄さんはあの分厚い台帳を眺めていた。
何を考えていたのか、ちょっとうなづくと俺にレンズとフレームをよこすように言った。素直に俺がそれを渡すと、前と同じように店の奥へ持って行ってしまう。
やはり10分程度待ったろうか。
志雄さんはあまり浮かない顔で僕の前に眼鏡を置いた。
「一応はめましたけど、また3日後にはレンズを落とすことになると思いますよ」
「そうですか……」
「お時間あるようなら、見て行きませんか。ウチのフレーム」
興味ないならそれでかまわないが、と言外に含ませて志雄さんは俺を見た。
「見て行きませんか、って……」
俺は店内を見まわす。ヨソの眼鏡店はだいたい、あちこちにところせましとフレームが陳列されているものだが、ここにはほとんど置いていない。
展示台の上に置いてあるのは、いくつかのサングラスといかにも老眼向けの太いベッコウフレーム。あとは売り物ではないらしい古い眼鏡。
俺の戸惑いを無視して、志雄さんは突然に質問をよこしてきた。
「井村さん、お仕事は? …さきほど製図がどうの、とおっしゃっていましたが」
「あ?ああ、建物の内装とかお部屋の設計とかを。とはいってもまだ仕事して2年ですが」
志雄さんは分厚い台帳にメモをつけながら、さらにてきぱきと質問をしてくる。
「今の職場の雰囲気は? 固い感じですか?」
「ええと、入ってすぐなんですが……事務所は服装とかにはあまりうるさくないけど、役所の人に会ったりもするからあんまりいいかげんな格好もできないです」
俺は疑問をさしはさめぬまま、志雄さんのペースにのせられている。
趣味は。
仕事の服装は。休日の服装は。
スポーツをするか。
好きな色は。
そんな風にさんざん根掘り葉掘り聞かれた後は眼科の検診のようなことをされた。
「はい、上向いて」
「今度は横」
俺は志雄さんに言われるままに首をまわし、志雄さんはそんな俺をじいっと見てる。
「……これも眼鏡に関係あるんですか?」
思わず聞いた俺に、志雄さんは大まじめな顔でうなづき、
「非常に重要です」
と言いきった。
「さて……最後の質問になりますが」
また、質問かと俺はややうんざりした顔で志雄さんを見たが、志雄さんはこちらを見ずに台帳の方を見ていた。
「どんなイメージになりたい、というのはありますか?」
「イメージねぇ……」
「クリエイティブな雰囲気を醸しだしたいとか、銀行員っぽいスクエアな感じがいいとか、ご希望があったらおっしゃってください」
そう言われて俺はちょっと考えこんだ。
俺が過去に人にどんな風に見られていたか。俺はどう見られたいのか。
「ちょっと童顔だから、クライアントさんに『こんな若造に』なんて言われたりしたことがあったんっすよね。オンナの子からは『いいヒト』で終わっちゃうし……」
思いついたまま愚痴っぽいことを言うと、志雄さんは台帳から目を上げ、俺の顔をあらためて一瞥し
「なるほど」
と考えようによっては失礼な相槌を打った。
「で、どのようになりたいと」
「そうだな、仕事のできるオトナの男……」
話しの流れでつい、言ってから俺は急に恥ずかしくなった。己の顔も省みず、美容師にキムタクと同じヘアスタイルを、とオーダーしてしまったような気分。
ああ、阿呆と思ってるんだろうな、と俺はおそるおそる志雄さんの表情を盗み見たが彼は顔色一つ変えずに、
「わかりました」
と言うと、店の奥へと行ってしまった。
どうやら、この店の在庫はほとんど店の奥にしまってあるらしい。お客の要望にあわせていくつか持ってきて見せてくれるのか、と思って待っている。
しばらく待って志雄さんが持ってきてくれたのはたった一つのフレーム。
トレイの上に、黒くも見えるダークブルーのメタルフレームが鎮座ましましている。
「え、これだけですか」
「井村さんのご要望にぴったりだと思います。とりあえずこれをお試しください」
「はあ……」
一方的に言う志雄さんに、あらためて「エライ店に来ちゃったかも」と俺の心に後悔の念が浮かぶ。
―― 気に入らなかったらやめりゃいいだけだもんな。
俺は差し出された眼鏡をしぶしぶ受け取り、かけてみた。かけごこちは悪くない。
志雄さんは、鏡を俺の前に置いた。
「……」
鏡の中の顔は、確かに“仕事のできるオトナの男”の顔だった。天地が狭い角丸の枠はやや丸い俺の顔を適度に面長に見せてくれ、ブルーブラックの色は俺の顔にビシッとした強さを与えてくれている。
くやしいが俺の完敗だった。
「……こ、このフレームにします……」
俺の解答に当然、というように志雄さんはうなずいた。
「さて、順番が逆になったという気もしますが……井村さん、このレンズはいつお作りになられました?」
そう尋ねられて、俺はすでに「前の眼鏡」になろうとしている華奢なハーフリムを見た。
「確かこれを作ったのは半年前です」
「そうですか……じゃあ、ウチで眼鏡を作るなら検眼してきていただかないとなりませんね。一応、初めての方には眼科で検眼してきていただいているんです」
今はだいたいどこの眼鏡屋でも、その場で検眼はやってくれるし、レンズも選んでくれるものだと思っていたが、ここは違うらしい。
「すぐ近くに眼科がありますから。保険証をお持ちになっておでかけください」
うわー、面倒。
そう思ったが、あのフレームを出された今となっては行くしかなかった。“順番が逆になった”と志雄さんは言っていたが、実は最初から「検眼してきてくれ」と言ったら逃げられると思ったのかもしれない。
「あらかじめ、予約を入れておけば夜8時までやってくれますから。こちらのカードを出して、西條の紹介と言えば検眼料は無料になります」
「は、はい……」
俺は名残惜しくめぐり合ったフレームをはずし、これまでの眼鏡をかけた。
志雄さんはそのフレームのつるをていねいにたたむと、プラスチックのケースにしまって、その蓋に「井村様」と書いた付箋を貼りつけた。
「じゃあ、このフレームともどもお待ちしていますよ」
志雄さんに見送られて俺は店を出た。
早く、あの眼鏡をかけたくて俺は次の日は定時に事務所をあがって、紹介された眼科にでかけた。なるほどあの西條眼鏡店とつきあいが長そうな、小さくて古い洋館。大谷石の壁に「大友眼科」とホウロウびきの看板がはめられている。
玄関でスリッパに履き替えて、受付に行く。
検眼をお願いします、と言って保険証とカードを小さな窓口に差し出すと、白衣姿のおばさんは
「井村さんですね。そちらでお待ちください」
と観葉植物を両脇に置いた長椅子の方を指し示した。
ほとんど待たされることなく、俺は診察室に呼ばれ、検眼室と小さな札のついた部屋に通された。
「検眼だね。眼鏡かい?コンタクト?」
気軽い口調で話しかけてきたのは、あの西條眼鏡店のじいさんと同じくらいに見える年配の先生だった。あの店にあったようなべっこう縁の眼鏡をかけ、パリっとした白衣姿でこちらを見ていた。
「め、眼鏡です」
「じゃあ西條さんとこのお客さんか。 担当はどっち?
シオちゃんか?」
「はい、そうです」
「そかそか、はい、そこに座って」
それからしばらく、俺は学校の検診みたいに右目左目を隠しながら“C”の字みたいなのの向きを答えさせられたり、覗き眼鏡みたいなのを覗きながらどっちがよく見えるの、どっちが明るく見えるだの、いろいろと答えさせられた。
最後に、SF映画にもでてきそうなヘンテコな眼鏡でとっかえひっかえレンズを交換しながら視力のチェック。
その後、ふんふんと鼻歌まじりに大友先生は薄い用紙に何やらたくさん記号を書きつけて、それをたたみ病院の名前の入った封筒に詰めて俺にくれた。
「じゃ、これが井村くんの眼鏡の処方箋。シオちゃんに渡してちょうだい」
礼を言って、その封筒をカバンにしまっているとニコニコしながら大友先生は言った。
「シオちゃんもひさびさに、君みたいな同じ年くらいのお客さんが来てうれしいんじゃないかなぁ」
うれしい?
俺は志雄さんのちょっと仏頂面はいった顔を思い出し、不思議な気分になった。
「ほら、最近若い人は皆、大きいチェーン店のほう行っちゃうからねぇ」
うん、俺もあんなことがなければ隣り町のデパートに行っていたと思う。
「シオちゃんのおじいさんにあたる源一郎さんは、もともとは銀座の超一流眼鏡店にいた職人さんでね。こっちに店出してきてから、ウチとおつきあいがはじまったんだけど……昔はよく僕も言われたんだよね。『あんた、それでも目医者なのか』とね。あの人はまったく凄いよ」
俺はあのじいさんのパナマ帽姿を思い出し、あのセンスは銀座時代に培われたものに違いないと一人で納得していた。
「二代目もいい職人だったけど、ちょっと体が悪かったからね。源一郎さんはシオちゃんには小さいときから眼鏡のイロハを教えていたんだよ。あの子はあの若さで大した職人だ、僕が保証するよ」
自分の孫の話しのように、志雄さんを絶賛する老先生のおしゃべりは、受付けのおばさんが次の患者さんを呼ぶ声でさえぎられた。
まさに牛乳ビン底の眼鏡をかけた小学校低学年くらいの女の子とそのお母さんらしき人が診察室に入ってくる
「おっと、いけない。じゃあ、また何かあったらいらしてください」
「あ、ありがとうございました」
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