病院を出ると、さすが日もくれて、残照も残らない時間になっていた。
 タイムセールのお惣菜とビールを目当てに閉店間際の商店街のスーパーに立ち寄ると、話題の人になっていた志雄さんがいた。若い男なんてほとんどいない野菜売り場で、インゲンやナスをカゴにほおりこんでいた。
 「こんばんは」
 通りすがりに挨拶をすると、志雄さんは首筋の小さいしっぽをゆらしながらこちらの方を見た。
 「井村さん。今、お帰りですか」
 「ええ、さっそく眼科に行ってきましたよ」
 「じゃあ、処方箋はありますね。よかったら、これから店の方に来ますか?」
 思いがけない志雄さんの言葉に、俺は腕時計を見た。
 7時半。
 「え、いいんですか? 志雄さんがここにいるってことは、今日はもうお店終わりなんでしょう?」
 「かまいませんよ。井村さんも早く新しい眼鏡をかけたいでしょう?」
 俺より若干高い位置にある、志雄さんの口元が少し笑ったように見えなくもない形になる。
 「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかなぁ」
 確かに俺は、なるべく早くあの眼鏡を手に入れたかった。
 俺と志雄さんはそれぞれの買い物を済ませて、スーパーの入り口で落ち合うことにしてその場を離れた。
 スーパーの袋をぶらさげたまま、夜の商店街を志雄さんと歩き、もう電気も消えた西條眼鏡店に到着する。
 「すいません、こっちからで」
 俺たちはブロック塀の間の細い通路を通って、店の裏口にまわった。安普請のデコラ張りのドアには「西條」と手書きのプレートが貼ってある。
 志雄さんはジーンズのポケットから鈴のついた鍵を取り出すと、ガチャリとドアを開けた。
 薄暗く狭い玄関。ツヤを失った木の廊下。
 どこからともなく香る線香の匂いが、田舎のばあちゃんの家を思い出させた。
 「ただいま」
 「おう、お帰り」
 ガラッと襖の開く音がして、部屋の明かりが廊下にこぼれた。ぬっとそこからじいさんが顔を出す。
 「何だシオ、めずらしい、友達か?」
 俺の前で靴を脱いでいる長身の肩を通り越して、じいさんの視線がこっちを向く。
 「お邪魔します」
 俺はペコリとじいさんに会釈して、どうしたものかと困ってすでに廊下にあがっている志雄さんを見上げた。
 「どうぞ、狭いですけれど上がってください。お店の方はもう冷房も切っちゃったんで、こっちでやりましょう」
 その返事に、俺も靴を脱ぎ、おずおずと西條家の居間にあがりこむ。
 だいぶすりきれた畳の間の真ん中にはやはり田舎の家のようなちゃぶ台。
 「仕事なのか?」
  じいさんは手酌でビールを瓶からコップに注ぎながら、俺と志雄さんを見上げる。
 「ええ、井村さんとはスーパーでばったり会って。処方箋もらってきたということなので、じゃあ早くレンズの用意をしたほうがいいかなって」
 「せっかちなヤツだな、せっかちはいい職人になれんぞ」
 三代目をたしなめるじいさんに俺はあわててフォローをいれる。
 「あ、その、こないだ志雄さんが勧めてくれたフレームがすごく気に入ったんで、それでなるべく早くかけたくて……お、俺のワガママなんです」
 「そうか、じゃあメシ食っていけ」
 「はあ?」
 老人特有の論理の飛躍に俺はつい、間抜けな相槌をうち、ちょっと困って志雄さんを見た。
 「おじいちゃん、そんなこと突然言ったって井村さんも……」
 とりなすように言う志雄さんにもじいさんはかまう様子なく、俺に20年ものの風合いを見せる座布団を指し示す。
 「井村くん、ビールは好きかね? ほれ、シオ、コップ、グラス」
 じいさん、もはや問答無用モード全開だ。
 志雄さんは小さく溜息をつくと、これまで店ではちら、とも見せなかった気弱そうな表情をして、ささやくように言った。
 「すみません。おつきあいいただいてもよろしいですか?」
 「こっちこそ、夕食におしかけたみたいで……気がひけるんですけれど」
 「おかまいなく。おじいちゃんもたまには僕以外の人と話しながら食事したいんでしょう」
 俺がそろり、とじいさんがよこした座布団の上に正座すると、志雄さんはテレビの横の食器棚からじいさんと同じコップを出して、俺の前に置いた。
 「まま、一杯いってくださいよ」
 「それでは遠慮無く」
 じいさんが並々と注いでくれたビールを、俺はいつものクセでくうっと一気に飲んでしまった。冷たさとキリっとした苦味、はじける炭酸が渾然一体になって喉をすべり落ちていく気持ちよさ!
 「いい飲みっぷりだ! 気に入った!」
 景気よくじいさんに背中をたたかれて、俺はちょっと苦笑する。
 そんな僕らの様子を見ていた志雄さんは、じゃ、ご飯の用意をしてきますとお母さんのように台所の方へ行ってしまった。
 その時、俺はじいさんがひどく柔らかなまなざしで志雄さんを見送っていることに気づいた。
 「なあ、井村くん、すまんなぁ」
 じいさんは閉じた襖から視線を俺に移動させて言う。
 さっきまでの傍若無人ぶりが嘘のような淡々とした、哀愁さえ感じさせる口調で、ビールを注ぎ足しながら。
 「ワシ、あんたを店で見かけたときはすごくうれしかったんじゃよ」
―― うれしいだろうなぁ
 大友先生と同じようなことを言うじいさんを見ると、皺に囲まれたその目はすでにちょっと遠くなっていた。
 「ウチの客は、ほとんどワシの代から付き合っている年寄りか、近所の小学校のガキどもでなぁ。あんたみたいな……志雄と同じくらいのお客ってのがからっきしこないんだよ」
 相槌を打ちつつ、そりゃそうだろうと思う。
 「志雄は女はおろか、同年代の友達が少なくて……いないのかもしれん。でかけることもほとんどないし、ウチに連れてくることもない」
―― 何だシオ、めずらしい、友達か?
 そう言えば、ここん家にあがらせてもらったときに、じいさんはそう言っていたっけ。 
 「あいつはワシにはできすぎた孫だよ。黙々と仕事をおぼえ、黙々と店と家の仕事をしてる。だけどな、ジジィとしては……それだけってのが気になってなぁ」
 じいさんは瓶ビールの最後の一口を俺のグラスに注いだ。
 「あんたを無理やりメシに誘ったのも、客ってのを別にしてな、少し志雄と話しをしてもらえるようになればってワシの勝手な希望なんじゃよ。すまんの」
 ぽつぽつと語るじいさんはちょっとやるせなさそうな様子だったが、廊下からはたはたと足音がしてくると、またたくまに最初の頑固じじいの顔に戻った。
 「はい、お待たせ」
 ガラリと襖があいて、おかずをいろいろとのせたお盆を捧げて志雄さんが入ってきた。
 手際よくちゃぶ台の上にいくつも小鉢や皿を置くと、また廊下へと出て行き、戻ってくると今度はお味噌汁とごはんを持ってきた。
 刻みねぎと鰹節をのせた冷奴。インゲンのゴマあえ。焼いたナス。肉じゃが。油揚げの味噌汁。
 この部屋、このちゃぶ台にしっくりすることこの上ないお袋の味オンパレードだ。
 「す、すごく美味しいんですけど」
 この街に引っ越してきてから、ほとんどスーパーやコンビニの出来合い弁当で済ませていたということを差し引いても志雄さんの料理はめちゃくちゃウマかった。
 「ジジィバカかもしれんが、志雄はそのヘンのギャルよりか、よっぽど料理はうまい」
 「おじいちゃん、『ギャル』は死語」
 ご飯をほおばりながら、屈託なく笑う志雄さんは、お店で見たときの気難しい様子はまるでない。
 「俺、料理苦手なんですよねー。今度、志雄さんに料理教えてもらおうかなぁ」
 「おや、井村さんには作ってくれる方はいらっしゃらないんですか?」
 「いたら、スーパーの弁当なんて買いませんよ」
 「それもそうか」
 そんな調子で、つまらないことを温かく優しく笑い合ううちに、おかずはすべてそれぞれの腹に収まった。
 一息ついてから、じいさんはヨッコイショと腰を上げてガチャガチャと食器を片付けだした。
 「おじいちゃん、僕やるから」
 慌てたように言う志雄さんにかまわず、じいさんは食器をお盆の上に積み上げて行く。 「片付けはワシがやるから、お前は井村くんの眼鏡の方、やってやれ」
 そう言って、器用に足先で襖を開けたじいさんはカクシャクたる物腰で、廊下へ消えていった。
 「……めずらしい」
 ぼそっと志雄さんはつぶやいた。
 おそらく本当にめずらしいんだろう。あのじいさんは「男子厨房に入るべからず」なんて腕組みして唱えるタイプだ。
 わずかの間をおいてから、志雄さんはちゃぶ台にやや身を乗り出すようにして。
 「井村さん、大友先生の処方箋、いただけますか」
 と僕に尋ねた。
 俺が薄いグリーンの封筒を志雄さんの長い指にあずけると、志雄さんはその場で中の紙を引きずりだし、さっきまでの寛いだ様子とはうってかわった職人の表情で目を通すと膝立ちになって、近くのタンスから鉛筆を取り出した。
 「レンズはプラスチックレンズでよろしいですか」
 「他にもあるんですか?」
 「ガラスレンズがありますが……重いですし、割れますから高温下で働くなどの条件がない限り、プラスチックレンズの方が取り扱いはしやすいと思います」
 「じゃあ、そっちで」
 俺が言うと、志雄さんは処方箋の入っていた封筒にさらさらと記号のようなものをメモする。
 「レンズの厚さはどうしましょう?」
 「……厚さって度数で決まるんじゃないんですか?」
 「プラスチックレンズの場合は、加工によっては薄くすることもできるんですよ。ただ。薄くすると歪みがでますし、お値段も高くなります」
 お値段、という言葉に俺はいまさら、極めて重要なことを聞いていないことに気がついた。
 「値段か……そう言えば、フレームの値段も聞き忘れていたなぁ」
 「ああ、お伝えし忘れていましたか。これは失礼を」
 志雄さんは封筒の上に金額を書いて指し示した。
 27000円。
 思っていたよりは良心的な価格かもしれない。
 顎に指をあてて、封筒をの数字を覗きこんでいると、志雄さんはそこにきれいな字で数字を書き加えた。
 「処方箋の内容とフレームから考えるに、井村さんにはこのどちらかのレンズが適当でしょう。こちらだと、あのフレームからわずかにはみ出るような厚さですがお値段はご覧の通り手頃です。こちらだとやや高くなりますが、フレームのワクの太さよりやや薄いくらいですので、見た目はよりスマートになります」
 さらに、と志雄さんは細かいことを説明しながら、それぞれのオプションの値段を教えてくれた。
 俺は結局、安い方のレンズにUVカットのオプションをつけてもらうことにした。
 志雄さんがはじき出した見積もりはしめて48000円(税抜)。
 今、かけている眼鏡はこんなにしなかったと思うが、前の店の店員はこの志雄さんほど懇切ていねいにいろいろと説明したりはしてくれなかった。志雄さんの技術や知識、それからアフターサービスも考えるとこの値段は高くないんだろう。
 俺が見積もりの価格を承知すると、志雄さんはフレームとレンズを持ってきます、と細かいメモ書きをした封筒と処方箋を持って、居間を出ていった。
 かち、こちと懐かしいような振り子時計の音だけが静かに響く。
 待っている間、やることもなく、ぼんやりと部屋の中を見まわしていると、小さな仏壇に置かれた写真が目に入った。
 ちょっと、他人の秘密を覗き見るような気まずさがも感じたが、俺は立ちあがってその木製の額縁を眺めた。
 やや色あせた、よくある幸せそうな家族写真。
 今とあまり変わらずに見える、ダンディなじいさんと、美女がそのまま静かに年をとったようなお似合いのおばあさん。まつげの長いパッチリした眼がまるで女の子のような華奢な少年がきっと志雄さんだ。その後ろには黒ぶち眼鏡の男の人と、志雄さんに似た、どこか楚々とした女の人。この人たちがおそらく、志雄さんの両親。
 写真の中の志雄さんはまだ眼鏡をかけていない。これは彼がいくつくらいのときに撮ったものなんだろう?
 志雄さんのご両親ってどうしたのかな。
 上がりこんで夕飯まで食う、ずうずうしい客としては聞くにも聞けないことだったが、あの騒々しいじいさんとたった二人で、毎日ああやってご飯を食べているのかと思うと志雄さんが俺の悪友たちとは違う、ちょっと別世界に住んでいる人のように感じた。
 廊下から人の来る気配がして、俺はあわてて座布団の上に座り込んだ。
 「お待たせしました」
 さっき夕食を持ってきたときと同じような調子で志雄さんが襖を開けた。今度手に乗っているのは、あの俺のフレームの乗ったトレイと大きめの鏡だ。
 「ちょうど処方に合うレンズがあったので、とりあえずはめてきました。中心の位置が甘いので、少し見づらいと思いますが」
 言いながら、志雄さんはふわりと俺の耳にあのフレームをかけてくれた。
 確かに少々視界に違和感があったが、差し出された鏡を見るのには支障はなかった。レンズをはめるとやや目が小さく見えるぶん、ますますオトナっぽい感じがする。
 「……やっぱ、いいですね。この眼鏡」
 「似合う方に買っていただけて、僕もうれしいですよ」
 志雄さんは、店でと同じようにテキパキと眼鏡のあちこちに触れて、小さな紙に何やらメモをする。
 5分後には俺とこの眼鏡は再びの別れとなった。
 「じゃあ、次は明後日以降にいらしてください。UVカット加工とレンズのカッティングなどを済ませておきますから」
 ちょうどそのとき、壁の時計がボォォンと古風な音を10回響かせた。
 「すみません。こんな時間までお引止めして」
 時計を見上げた志雄さんの雰囲気は、眼鏡職人からまた晩ごはんの時と同じ感じになる。
 「大丈夫ですよ。ウチもすぐ近くですから」
 「そうだったんですか」
 「この先の青いタイルを張ったアパートです」
 この説明で志雄さんは、俺の家がわかったようだった。
 俺は立ちあがり、礼を言うと襖を開けて廊下に出た。俺の後ろから志雄さんも出てきて、玄関先まで着てくれる。
 「じゃあ、おじいさんにもよろしく伝えてください」
 「はい。今日はありがとうございました」
 「いやぁ、こっちこそすっかりごちそうになっちゃって。本当にすごく美味しかったです」
 秀逸な味わいの肉じゃがを思い返しながら言うと、眼鏡を誉めたときと同じような感じに志雄さんの顔がほころんだ。
 志雄さんの、あの家族写真の少年とあまり変わらない目は笑うと半月型になる。
 ―― 笑うと可愛いのにな
 すっかり店のシャッターも下りた夜の商店街を歩きなつつそんなことを考えてから、可愛いなんて、男に対する誉め言葉じゃないか……と一人で苦笑した。
 


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