待ちに待った眼鏡の引渡しの日。
「こんにちはっ」
俺はがっと入り口の扉を開けて、西條眼鏡店の中に飛び込んだ。
志雄さんしかいないものと思って、子どもっぽいほどの勢いで足を踏み入れたら、今日はなんと他にお客さんがいた。
小学校低学年程度のかわいらしい女の子とお母さんが、カウンターの前にいて志雄さんと話していた。3人の目がこちらに注がれて、ちょっとたじろぐ。
「ああ、井村さん。ちょっとお待ちいただけますか」
「はいはい、ごゆっくり」
少し気心が知れた気分でいた俺は志雄さんにひらひらと手を振ってみせ、さして見るべきものでもない展示された古いフレームなどを眺めていた。
「じゃあユリちゃん、これ新しい眼鏡ね」
まるで小学校の先生のような優しい志雄さんの声に、俺はちらりと先客の親子連れを見た。
俺にやるのと同じように、女の子にもまるで冠でもかぶせてあげるかのようにていねいに志雄さんは眼鏡をかけさせる。
俺がその子を見ているのに気づいた志雄さんが突然、俺に話しかけた。
「よかったら見ませんか? ユリちゃんのお姫様眼鏡」
―― お姫様眼鏡?
よくわからない表現だったが、俺は誘われるままにカウンターに近づいた。
その子がかけている眼鏡は俺の眼鏡とは比べ物にならないくらい、分厚いレンズがはまっていて、女の子の愛らしい目許をもったいなくも隠してしまっていた。しかし、驚くべきはそのフレームで、まさに魔法の眼鏡という感じ。全体は綺麗なメタルピンクのフレームで、つるの付け根には銀色の小さな翼型の飾りがはまっていた。鼻梁にかかるブリッジにはいやみにならない程度に美しい唐草模様が彫り込まれている。
「はあー……」
俺は思わず感嘆の溜息をついた。この眼鏡はまさに工芸品だ。
「こりゃすごい……本当にお姫様みたいだ」
そう言うと、女の子は俺に向かってニコリと笑い、お母さんも恐縮したように小さく会釈をした。その姿を見て、俺はこの親子と大友先生のところですれちがったことを思い出した。
ユリちゃんがうれしげに自分の眼鏡をいじっている間、志雄さんはいつもの眼鏡職人ぶりでお母さんにあれこれと注意を伝えていた。お母さんは真剣に彼の言うことに耳を傾け、見覚えのあるグリーンの封筒をカバンにしまうと、ユリちゃんの手をひいて店を出て行った。
「あの子の眼鏡、すごいね」
二人きりになってから言うと、志雄さんは
「あれは特注品なんです。知り合いの眼鏡工房に頼んで作ってもらったんですよ」
と言った。
「彼女はね、弱視なんです」
聞きなれない言葉を聞き返すと志雄さんは、眼鏡の説明と同じ静かなトーンで話し始めた。
「弱視というのは、視覚障害の一種です。普通の近眼や遠視でしたら相当視力が悪くても眼鏡やコンタクトで矯正できるんですけれど、弱視の子の場合は原因が他にあったりして、ほとんど矯正が効かないんですよ。一応、補助でああいう眼鏡をかけたりもするんですが、ユリちゃんも矯正視力にして0.3くらいしかないんです」
「あんな分厚い眼鏡をしてるのに?」
「眼鏡をしなければ0.01程度です。さらに視野が普通の人よりだいぶ狭い」
志雄さんは俺の名前の貼ってあるケースをカウンターに乗せながら話を続ける。
「やっぱり、女の子や女の子を持つ親だったら、あんなビン底眼鏡使いたくないって思うのが普通でしょう。だから、せめてかけて楽しくなる眼鏡にしたいなと思って。ユリちゃんの希望を聞いて、スケッチ起こして、実際に必要なレンズを入れられるように工房さんでアレンジしてもらって……ああいう眼鏡になったんです」
「へえ〜……」
そんな志雄さんの気遣いに俺は感心しきりだった。
―― この人、すごいや、やっぱり。
俺がじいっと志雄さんを見ると、
「さ、お待たせしました。井村さんの眼鏡、やりましょう」
自分の語りが急に恥ずかしくなった、とでもいうように志雄さんはやや慌てたように言った。
志雄さんがケースの蓋を開けると、確かにきっちりレンズもついたあの、あのフレームがそこにあった。
「もう一回調整しますから……失礼します」
志雄さんの長い指がこめかみに触れ、俺の耳にできあがった眼鏡のつるを置く。
すいつくようなフィット感。この眼鏡はまさに俺のものなんだ、ともう一度しみじみと鏡を見やる。こないだ、ちゃぶ台の横で試したときより視界もずっとクリアになっている。
いい。これはいい。
ナルシストみたいでやばいが、それくらいこの眼鏡はしっくりくる逸品だった。
すっかり魅入られた俺を無視して志雄さんは俺の顔の上のフレームのあちこちを触り、耳にかかる俺の髪をかきあげながら、つるの具合も確認する。
「これでよさそうですね」
「はいっ!!」
俺は勢いよく答えて、用意していた福沢諭吉たちを志雄さんに引き渡した。
「それじゃ確かに……」
志雄さんはお釣りと一緒に、これまでかけていた眼鏡、眼鏡ケース、眼鏡拭き用のチーフや保証書を紙袋に詰めて渡してくれた。
「必ず月1回は調整にいらしてください。どうしてもネジとか緩んで歪んできますから」
そして。
その眼鏡は俺の生活をすぐに変え始めた。
新しい眼鏡で出社するようになってから1週間。
俺は突然、ある居酒屋の設計プランに携わることになった。
課長のかばん持ちということでついて行った先で、突然、課長は俺に仕事をふったのだ。
「まあ立地から考えているのは、20後半から30代が手頃な値段でおしゃれな気分でくつろげる店ってことでね。ウチとしては今回は特に照明に力を入れようと思ってるんだ、照明デザイナーも押さえてるし。だから、基本的な設計からもそのへんを……」
どことなく胡散臭いしゃべりのこのクライアントは、ナガミネ・プランニング(株)というイベント企画会社の社長。あまり表にはでてこないが、イベントのみならずバーや居酒屋、ディスコやラブホテルを続々とヒットさせているお得意様だ。夜の遊びの仕掛け人と評されるけど、本人もまだまだ現役という感じ。計算すると40後半代のはずだけど、この人なら女子高生だってついていくだろう。この業界に入ってからは時々名前を聞く人だったから、俺は「へぇ、このおっさんか」とものめずらしい気分で相手の様子を眺めていた。
そうしたら。
「それでしたら、この井村が担当するのがよいかと思います」
ぎょっとして課長を見たが、課長は俺にかまわず永峰社長に言う。
「井村はまだ、経験は浅いですが知識と技術は十分に持ち合わせておりますし、そちらの顧客ターゲットに近い感性を持っております。きっとご満足いただけるプランをご提案させていただけるものと存じますが」
課長の言葉に、未だバブルの残り香がするオールバックの永峰社長が俺を値踏みするような目で見た。
「そうだな、君なんかちょうど狙いたい顧客のイメージかもしれないな。『オトナのゆとりと少年の感性』ってのがコンセプトなんだけど……できそう?」
『オトナのゆとり』だぜ、『オトナのゆとり』!
そんなコンセプトを任されるってことは、俺にもそれがあるってことか?
俺は霊験あらたかな志雄さんの眼鏡に感謝しつつ、精一杯『オトナ』を装って答えた。
「はい、ぜひワタクシにやらせていただければ」
まさに降って湧いた大抜擢に、事務所への帰り道、俺は課長に尋ねずにはいられなかった。
「どうして、あそこでこちらにお話をまわして下さったんですか?」
「ん?んんー、直観」
40代にしてすでに頭髪のバーコード化が進んでいる課長の答えはあまりにも説得力のないものだった。
「あそこのグループはお得意さんでね、どっちかというとある程度若い人に任せたほうが向こうも気に入ることが多いんだよね。遊び心っていうの?うん、そういうものを大事にしたいみたいだし。それに、向こうがすぐインテリアデザイナーとか照明デザイナーとか空間プロデューサーとか……いろんな人に声かけちゃうから、柔軟性のある人がいいんだよ」
「でも、若いって範疇の人なら他にも……」
「ん、だから直観なんだって。ふっと横の君をみたら『任せたらおもしろそうかな』って感じてね。やってくれるんでしょ?」
「は、はい!もちろんです!精一杯がんばりまっす!」
俺はつい、体育会ノリの大声の返事を、往来かまわずぶちかましてしまった。
威勢良く引き受けたはいいが、課長が言うところの「柔軟性」とは無理難題を体力と気力で突破できるということだった。納期が非常識に早かったのだ。
「やっぱ、物事には仕掛けどきって言うのがあるからね。よろしく頼むよ、井村クン」
そう、永峰社長に言われると逃げるわけにもいかない。
途端に俺は定時には帰れなくなり、ともすれば午前様という生活になった。
遅刻寸前で事務所にかけこみ、説明用の資料を揃えるとクライアントや照明デザイナー、ビルの管理会社、インテリア業者さんに打ち合わせに行く。あちこちまわるともう終業時間に近くなっていて、戻ってきたらまず早めの夕食。その後図面を引いたり、企画書を書いたり。とにかく次々とやることが押し寄せてくる、そんな感じだった。
ただ、忙しかったけど楽しくもあった。こっちのアイディアもいろいろ取り入れてもらえたし、眼鏡の具合がいいせいか、長時間のパソコン仕事や製図もこれまでより疲れにくかった。そんなわけで、俺は周囲も驚くほどのモーレツぶりで、その無茶な納期に間に合わせるべく、全ての仕事を進行させていた。
怒涛の毎日を過ごしているうちに、俺は志雄さんのところに眼鏡の調整に行くのをすっかり忘れていた。
忘れていたことに気づいたのは、志雄さんから電話があったからだ。家に帰ると暗いワンルームの中で留守電があることを示すランプが点滅していた。
「お世話になっております、西條眼鏡店です。その後眼鏡の具合はいかがでしょうか。そろそろ調整が必要な頃かと思います。お時間を見てお店にお立ちより下さい」
事務的な口調なのに木管楽器を連想させる志雄さんの丸みのある声は、何だかすでに懐かしいような気がした。
確かに俺の大事な、幸運の眼鏡のためにも行かなきゃならなかったのだが、納期が近づくにつれ、その眼鏡が呼んだような仕事に俺はいよいよ忙殺されていた。
俺が商店街を通るのは、毎日どの店もとっくにシャッターを下ろした時間。結局、俺はその電話を聞いても西條眼鏡店に足を運べなかった。
そうしたら1週間後、また志雄さんからの電話が入っていた。
「西條眼鏡店です。お忙しくて調整にいらっしゃれないようでしたら、店の営業時間外でも受付けますので、お電話下さい。ちなみに調整は10分くらいで終わりますので、お仕事の途中などにお立ちよりいただいてもけっこうです」
翌日、俺は昼休みに西條眼鏡店に電話をした。
「もしもし、井村です。調整の件ではご心配をおかけしてすみません」
「歪んだ眼鏡を使われると、疲労するだけですからね。早めに来られたほうがいいと思いますが、お忙しいんですか?」
「ええ、納期が近い仕事があって……夜もしょっちゅう午前様という有り様なんですよ」
俺の嘆きに、携帯電話の向こうで小さくクスっと笑う気配がした。
「おや、本当に『仕事のできるオトナの男』されているんですね」
「おかげさまで」
「お電話にも入れましたが、言っていただければ会社におでかけになる前とか、お帰りになる頃とか日曜日でもかまいませんけれど、いかがですか」
親切にそう言われて、俺は手元の手帳をめくった。たまたま、明日は永峰社長と打ち合わせを兼ねた夕食になっていた。明日はもうそれで、会社に戻らないことにしよう。
「……明日、夜8時くらいとかいいですか」
「いいですよ。それでは、申し訳ありませんがこないだの裏口の方へ来ていただけますか」
「わかりました。こちらこそご迷惑をおかけしますけれど、よろしくお願いします」
俺は手元の手帳の明日の欄に、もう一つ時間だけを書き加えておいた。
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