柔らかなロウソクの光りや白熱灯の間接照明に、トマトソースの赤やバジルソースの緑はよく映える。
 一人では絶対にくることのない瀟洒なトラットリアで、かわいい女の子ならともかく、全身イタリアンブランドで固めたキザなおっさん――すなわち、永峰社長と二人きりでメシというのはいまひとつ納得がいかない。
 「君らの世代になると『キサナドゥ』とか言ってももうわかんないんだろうなー。『ゴールド』はわかる?『マハラジャ』とか『ジュリアナ』は? まあ景気のいい時代は時期を代表するディスコってあったもんだよ。とりあえず、ディスコティークっていうのはね、ヨーロッパの上流階級においては……」
 ……永峰社長の「ご講義」は始まると長い。「居酒屋論」「カフェバー論」がこれまでにあったが、今日の夕餉の科目は「ディスコ論」のようだった。
 この調子だと、西條眼鏡店に到着するのは9時くらいになるかも。
 そう思った俺は、社長がトイレに中座した隙に、店の入り口近くで、携帯電話を取りだし記憶させておいた電話番号を呼び出した。
 呼び出し音がしばらく続く。きっと家の中から店の方へ。ひょっとしたらおじいさんとの夕食を終えて洗い物でもしていたのかもしれない。
 「はい、西條です」
 電話にでてきた志雄さんの声は少し、息があがっていた。
 「あ、井村です。すみません、9時くらいになりそうなんですけれど、大丈夫でしょうか」
 「ええ、かまいません。お待ちしてますよ」
 「いつも志雄さんにはワガママ言って、ホントごめんなさい」
 「気にしないでください。僕もいつまでもあちこち歪んだ眼鏡をかけられているかと思うと落ちつかないですから」
 眼鏡職人の志雄さんらしい、物言いに思わず笑いながら通話を切った。
 「……デート?」
 「しゃ、社長!?」
 突然、声をかけられて振り返るといつのまにか、俺の背後に永峰社長が来ていた。
 「何にやけてんの。まだ、つきあってすぐだね?…それともコクるのはこれからかな? 」
 このこの、とオヤジ丸出しの社長に小突かれながらテーブルに戻った。
 「いや、別に……」
 「隠さなくてもいいのいいの。シオさんって言うのカノジョ?」
 名前まで聞かれていたとは、恐るべき地獄耳。永峰社長の方がうれしげに、身を乗り出していろいろと俺に聞いてくる。いつのまにかディスコの講義は中断だ。
 「カノジョを待たせてるんなら引き止めちゃ悪いよね。僕もね、いろいろと時代の恋の駆け引きを演出してきたわけだから、それなりに男女の機微ってのはわかってるんだよね。僕自身もいろいろ経験してきたし?」
 それとなくモテてきた過去を自慢する社長に「シオさんは男です」という冷静なツッコミは入れられなかった。
 「で、どうなの。可愛い子?」
 どうよ、と言わんばかりの社長の言葉に、つい悪戯心が湧きあがる。
 「……ええ、眼鏡が似合う美人なんです」
 男だけど、とつけ加えるのは心の中で。
 「眼鏡美人かぁ。いいねぇ」
 俺はおもしろがってさらに社長の好奇心を煽るようなことを言ってしまう。
 「仕事熱心なんですけど、料理も上手なんです。肉じゃがとかすごく美味しくて。ちょっととっつきにくいタイプなんですけど、面倒見もいいし子どもにも優しいんですよ」
 「かー、もう手料理までごちそうになってるのか。奥さんに欲しいタイプだろう?」
 「そうですね」
 ……男でなければ悪くないかもしれない、と心の中で苦笑する俺。
 そんな俺の内心を見ぬける由もない永峰社長は、のろけのお礼にとおもむろに背広の内ポケットに手をつっこみ、ディープグリーンのチケットを2枚テーブルに置いた。
 「これね、今週末にある僕のやってるパーティーイベントのチケット。オトナしかこないから、楽しめると思うよ。カノジョ……シオさんと一緒にいらっしゃい。ちゃんとドレスアップしてもらってね」
 「あ、ありがとうございます」
 ここで種明かしをするのもくやしいので、俺はとりあえずそのチケットを懐にしまわせてもらった。
 「じゃあ、今日はこれで解散にしようか。ちょっと待ち合わせに早くなっちゃうかな? その分、近くの花屋で花でも買っていってあげるといいかもね」
 俺はもう一度、礼を言って席をたった。
 ともあれ、早くおひらきになったのはありがたいことだ。
 俺は、その店の近くに見つけた和菓子屋で葛餅を買うと、西條眼鏡店に向かった。

 「お待たせしました」
 襖が開き、志雄さんがトレイに乗せて俺の眼鏡を持ってきた。
 「失礼します」
 店内でするのと変わらない調子で、志雄さんの手が俺の顔に触れ、静かに眼鏡を置く。
 耳から顔にのった、愛しの眼鏡は驚くほど軽くなっていた。
 「だいぶ、歪んでましたよ。かけたまま眠ったりしたんじゃないですか」
 冷めた目で、図星のことを言われて、俺はギクリと肩をこわばらせた。
 「あんな状態のまま、仕事を続けていたら、眼精疲労を起こして、頭痛とか肩こりの原因になりますから、本当に気をつけてくださいね」
 うう、すでに目の疲れも頭痛も肩こりも日常茶飯事だ。
 でも、眼鏡をフィッティングしなおしてもらっただけで、こめかみや眉間のあたりが何かラクになるんだから不思議。
 「はー、助かりました。知らないうちに眼鏡っておかしくなるもんなんですねぇ」
 「はい、ですから必ず月1回、調整にはきていただきませんと」
 また、念を押すように言う志雄さんに、俺はペコリと頭を下げてからお土産の葛餅をを差し出した。
 「これ……甘いもの嫌いじゃないといいんですけど。美味しそうだったから」
 「これは、お気遣いいただいちゃって。わあ、葛餅ですか」
 志雄さんは箱を持って、廊下へと出て行った。
 「おじいちゃん、井村さんから葛餅もらったけど食べる?」
 バタバタとごっつい足音。
 「おお、井村くんか。よくきたよくきた。シオ、お茶!」
 志雄さんを内弟子あるいは嫁扱いでこきつかうじいさんは、当然のようにどっかりとちゃぶ台の前に腰を下ろした。
 「井村さんもどうぞ。お持たせですけれど」
 志雄さんはそう言いながら、すがすがしい匂いのする緑茶の椀と三角に切り分けた葛餅の皿を俺の前にも置いた。
 じいさんも含めた茶飲み話が途切れた合間に、俺はさっき永峰社長から渡された深い緑色のチケットをちゃぶ台に乗せた。
 「今、仕事しているクライアントさんにもらったパーティーのチケットなんだけど……よかったら一緒に行かない?」
 「え……でも。僕なんかより女の子とか誘っていけばいいじゃないですか」
 「女の子は現地調達!」
 残念ながら、これまで現地調達できた試しはないのだが、とりあえずそう言ってみた。
 しかし、それでもあまり乗り気でない志雄さんの表情にこれはダメかなと思っていたら。
 「行ってくればいいじゃないか」
 そう口出ししたのは横で茶を飲んでいたじいさんだった。
 「お前、全然外にでていかないからなァ。眼鏡は“ふあっしょん”の要素もあるというに、巷で何がイケてるというのか、知らないで眼鏡屋はやれんぞ」
 あくまで眼鏡に論旨をしぼってくるあたり、じいさんは志雄さんの性格をよくつかんでいる。多分、本心はそんなことより外で遊んで人と出会ってくればいいと思っているんだろうけれど。
 じいさんは腕を組んで言う。
 「ワシも銀座に勤めておった頃は、乏しい給料を工面してもしょっちゅうダンスホールや劇場にも足を運んでの。今、どんなものが流行しているのかちゃんとチェックをしておったもんだ」
 師匠の意外な発言に眼鏡の下で瞼をぱちぱちしながら志雄さんがじいさんを見る。
 「行ってこい、行ってこい。お前、しばらく電車にも乗っておらんだろう」
 「ま、そ、そうだけど……」
 いつも淡々としている志雄さんが困ったようにじいさんから俺へと視線を移す。
 店先ではまず見せることない頼りなげにすら見える表情をむけられて、俺は、その、はからずも。
 ドキッとしてしまった。
 眼鏡に携わるときの自信満々にクールな志雄さん。
 食事をするときの、穏やかでくつろいだ志雄さん。
 そして、今度はこんな表情で。
 眼鏡をかけるように、あるいははずすように。一瞬で全く違う面差しを見せられるたびに少し自分の胸の辺りでふわりと揺れるものがある。
 なんだか、なぁ。
 「せっかくだからさ、行こうよ。勤め始めてすぐだから、会社の人も誘いにくくてさ……友達も遠いヤツらばっかりだし」
 なんでか、なぁ。
 なんで、別に会社の人と一緒に行って、悪いところではないのだけど。
 なんとなく、店の外・家の外の志雄さんを見てみたい。そんな気がした。
 結局、しばらくとまどった様子だった志雄さんは、俺よりも、じいさんに押しきられるような形で、週末にでかけることを承知してくれた。

 自分が声をかけた誘いに自分が行けなくなるなんて間抜けなことはない。
 俺は週末の時間を空けるため、2日不眠不休で労働した。
 金曜日は2ヵ月ぶりに定時であがり、一度、家に帰った。遊び用のちょっと細めのダークネイビーのスーツにブルーの細かい千鳥格子のシャツを着て、明るめの青地にひとひらだけオレンジの花の絵が入ったお気に入りのネクタイを締める。薬局で買った栄養剤を開けてから商店街へと向かった。
 「シオ〜、井村くんだぞ〜」
 眼鏡店の裏口を訪ねるとじいさんが奥へ向かって叫んだ。小学生のころ、遊び友達を誘いにきたような気分だ。
 でてきた志雄さんは、めずらしく縁なしの眼鏡をしていた。カーキのサマーウールのパンツに、ベージュのリネンジャケット。サックスブルーのワイシャツに濃い緑に細く黄色のストライプが入った上品なレジメンタルタイ。
 「どうだい、ワシも“すたいりすと”でやっていけるかね?」
 「このコーディネイト、おじいさんが?」
 へえ、と感心してしみじみと志雄さんを見なおすと、志雄さんは肩をわずかにすくめて言った。
 「チケットに『男性はタイ着用』ってあったでしょう? 僕、スーツって黒の式服しか持っていないものですから」
 「え、じゃあ、ひょっとして」
 わざわざ買ったのか? 明らかに上質な品物と見てわかるいでたちに、俺は申し訳ない気分になったが、それを見て取ったのか、じいさんがかんらかんらと高笑いした。
 「心配すんな、ワシやカズシの……シオの親父のもんじゃからな」
 それを聞けば、ますます感心せざるを得ない。一つ一つのアイテムは相当に古いもののようだが、全体にしてみれば、まったく野暮ったさは感じられなかった。
 先日“週末ごとには流行のスポットにでかけていた”と言っていたじいさんのセンスは、なるほど只物ではないようだ。
 「若い頃に見聞きしたもんは一生の財産になる」
 「はいはい……わかりましたよ」
 説教をはじめかけたじいさんを牽制するかのように、志雄さんは玄関先に下りて靴を履く。
 「じゃ、行ってきます」
 「わははは、何なら朝帰りでもかまわんぞ。お前らにその甲斐性があるならな」
 豪快なじいさんの言葉に送られつつ、俺たちは駅へと向かった。


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