西條眼鏡店を出たときはまだ夕日の残照が残っていたが、電車を乗り継いでいるうちにすっかり夜になった。
 もっとも都心は夜になっても、あの商店街よりずっと明るいのだけれど。
 パーティー会場のクラブ『エメロード』は再開発が進む臨海地域に新しくできた高層ビルの最上階にあった。本来は会員制の社交場らしい。
 小さく店名が記された曇りガラスと緑色のガラスが市松模様になった扉を開くと、気だるげなジャズピアノと心地よいざわめきがこぼれ出した。
 薄暗く豪奢な店内は適度な混雑具合で、ドレスアップした男性・女性がところどころに固まって談笑している。
 「いらっしゃいませ、チケットを」
 いつのまにか俺たちの傍らに近寄ってきた深緑色の制服のボーイに言われて、チケットを手渡す。
 「オーナーのご招待の方ですね。心ゆくまでお楽しみください」
 案内された会場中央には円形のバーコーナーがあり、やはり緑の制服をつけたバーテンダーが俺たちに注文を尋ねた。
 本当は、冷たいビールでもかっくらいたい気分なのだが、店の雰囲気に負けじ、と俺はメニューを見ることもなく言ってみる。
 「ギムレットを」
 本当はカクテルにはあまり詳しくないのだが、だいぶ前に読んだハードボイルド小説で、主人公とその友達がしみじみと飲んでいたヤツがこれだった。確か。
 「志雄さんは?」
 「じゃあ、同じもので」
 分厚い板ガラスのカウンターに置かれた淡い緑色の液体を注いだグラスをそれぞれ手にとって、俺たちはとりあえず窓際へと行ってみた。
 天井から足元までの大ガラスから眼下に見えるのは、細かい光りの粒を集めたような都会の夜景。
 「……スゴいものですね」
 「ああ、これがトウキョウなんだよなぁ」
 会話らしい会話もなく冷たいカクテルをちまちまと飲みながら、片手にただぼんやりと夜景を眺める俺たち。
 正直を言えば、来ることは来たが俺はこのような席で如何様にふるまうべきか今更ながら困ってしまった。
 もっとカジュアルなパーティーなら気楽に周囲に話しかけもするのだが、何気なく周囲の連中を見回すだけで業界が……世界が違う様子でどうにもこうにも声をかけにくい。
 女性陣は誰もかれも「某ゴージャス姉妹」に似て見えるし、男も男でどこぞの一流企業のエグゼクティブを張っているんだろうなぁと思えてくる。
 せめて永峰社長が現れてくれれば気が楽なんだけど。
 いつもうっとおしくすら感じる濃い社長のたたずまいがこんな時だけ恋しくなった。
 こっそりと溜息をつきながら、ちらりと隣の志雄さんを見ると、いつのまにか志雄さんは夜景の広がる大窓に背中を向けていた。
 何やら真剣な志雄さんの視線の先を追ってみれば、俺たちとわずか数メートル離れたところで夜景を眺めている背の高い男性につきあたった。
 永峰社長よりやや若いくらいであろう男は来たばかりなのか、泡と琥珀色の液体が完璧な比率で分布している細身のビールグラスを片手に、何気ない様子で夜景を見下ろしていた。
 その人物に、まるで見蕩れているように見える志雄さんの表情。
 いや、確かにその男は同性から見てもハンサムだし、カッコいい人物には違いない。
 離れていても高級感を感じさせる仕立てのよさそうな背広を身につけ、細面の顔にすっきりとした細い鋼色のフレームの眼鏡をかけている。
 ん? 眼鏡?
 はっ、と思って志雄さんをもう一度見る。
 志雄さんは男を見ているんじゃない。この人の眼鏡を見ているんだ!
 「……志雄さ〜ん?」
 すっかり観察モードに入っている志雄さんを正気にかえすべく、小さく声をかけてみたが、志雄さんが正気にかえる前に、じっと見つめられていたほうが志雄さんのことに気がついたようだ。
 「何か?」
 男がこちらへと歩いてきた。微妙に首を傾げてにこやかな表情で。その所作たるや、見習いたくなるほど優雅で洗練されている。
 「どこかでお会いしましたでしょうか?」
 そこまで声をかけられて、志雄さんも一瞬、慌てたように首をふったが。
 「いいえ、その眼鏡が非常によく似合っておられたものですから」
 続く受け答えはまったく店先での様子と同じ。慇懃無礼なまでに落ち着いた調子で、志雄さんはごくごくスマートに話しをすすめる。
 「それは、『ルノア』の新作ですよね?」
 「ええ、よくおわかりに……とても気に入っているんですよ」
 相手の顔が嬉しそうになる。
 すげぇ。志雄さんってば眼鏡ネタで、さっそく相手を自分のペースに乗せつつある。
 「『ルノア』って惚れこんでお買いになる方が多いですよね。僕も本当はひとつ欲しいんですけれど、なかなか……」
 「ごめん、“ルノア”って何……?」
 ただ、話を聞いているのも何なので、俺も無理やり会話に割り込んでいく。
 「『ルノア』はドイツの眼鏡ブランドです。中世の眼鏡を現代的にアレンジしたデザインが特徴で、アンティーク眼鏡の研究家としても有名な方が立ち上げたステイタスの高い有名ブランドなんですよ」
 志雄さんの解説を聞きながら、あらためて相手の眼鏡を改めて見てみた。
 ……眼鏡を見るって、相手の眼を覗き込むようで俺にはちょっと気まずい。
 そんな俺の心境に気づいたのか、かすかに苦笑をよぎらせた『ルノア』の男はまた、志雄さんへと話しかける。
 「ずいぶんと眼鏡にお詳しいようですが……関係のお仕事を?」
 「ええ、これでも一応、眼鏡屋なものですから」
 「通りでよくご存知のはずだ。『ルノア』は取り扱っておられるんですか?」
 「いいえ、残念ながら……」
 「じゃあ『アラン・ミクリ』や『テオ』などは?」
 「そんな個性的なブランドはいよいよ無理ですよ。何せウチの客層はお年寄りとお子さんが中心ですから。できるものなら『ボーソレイユ』なんて扱ってみたいですけどね」
 「ああ、私、この眼鏡の前は『ボーソレイユ』を使っていたんですよ」
 ……どうやら眼鏡の話をしているらしいが、俺にはまったくちんぷんかんぷんだ。
 「そちらこそ、ずいぶんお詳しいようですが……」
 次々と眼鏡のブランドを話題にふる相手に、今度は志雄さんが尋ねた。
 男は、懐から銀のカードケースを取り出すと、志雄さんに名刺を一枚差し出し、話に入れない俺にも、ていねいに名刺をくれた。
 「白石と申します。しがないアパレルですがどうぞよろしく」
 しがない、などと言っているが渡された名刺の雰囲気だけでもそれがかなりの謙遜であることが伺いしれた。
 滑らかな象牙色の紙、2色刷りの洗練された名刺。
 “ブランドマネージャー 白石義一”
 俺も慌てて名刺入れを取り出して、白石さんに自己紹介をした。
 色は同じでも、俺の名刺入れはアルミ製のちゃちな雑貨であるあたり、また微妙に恥ずかしい。
 「西條と申します」
 志雄さんも、名刺入れを取り出して相手に差し出す。志雄さんの名刺入れは手入れのよさそうな黒い革のケースだ。これもお祖父さんかお父さんのものなのかもしれない。
 「志雄さん、名刺あるんだ」
 正直、少し驚いて懐にケースをしまう志雄さんを見れば、志雄さんはごくごく小さく笑った。
 「刷ったのは5年前くらいですけどね。まだなくならないんです」
 そう言って、志雄さんはまた白石さんと眼鏡の話に興じ出す。
 「『フォーナインズ』はどうです? オーソドックスですけどあそこのデザインも好きなんですよ」
 「本来セルフレームのブランドじゃないんですけど『リンドバーグ』。あそこのアセテートフレームは繊細で日本人に向いた雰囲気ですよね」
 「ほら、最近では5000円均一の眼鏡店があるでしょう。あれを見ると中国製のフレームもあながち……」
 「でも、鯖江のミラノ事務所の担当者に聞いた話では……」
 もう、何がなんだか。
 眼鏡マニアな会話で盛り上がる二人についていけず、俺はふらりとバーカウンターへと向かい、二杯目のカクテルを注文した。
 今度はよく居酒屋でも注文しているウィスキーサワーにしたが、出来上がってきたものは飲み慣れたレモネードに似た飲み物ではなく、レモンの香りが効いたかなりドライな味わいのカクテルだった。
 喉を焼く飲み物の炭酸とアルコールの辛味のせいか、一人で浮いているように思える気持ちのせいか、グラスを手に思わずやや強めに息を吐く。
 「どぉ? 楽しんでいる?」
 こんなときに背後から微妙に腹ただしい言葉を投げかけてきたのは、さっきまで探してしまっていた永峰社長だった。
 「あ、社長……。今回はお招きありがとうございます」
 いつもの営業スマイルと軽い会釈を送れば、社長は機嫌よさそうに俺の肩をたたく。
 「で。井村くんのカノジョは? シオさんってどの子?」
 このオヤジめ。
 嬉しそうに辺りを見回す永峰社長。
 ここで即種明かしもつまらない、と俺はまだもったいぶって見せた。
 「いや、ちょっと今、他の人と話をしに……」
 「寛大な彼氏だねぇ」
 永峰社長は、やはり俺が女連れだと信じ込んでいる。本当は目の前で男同士話し込んでいるうちの一人がその“シオさん”だとは露ほども思っていないに違いない。
 「じゃあさ、ちょっとつきあってもらえるかな。せっかくだから、井村くんを紹介しておきたい人が何人かいるんだ」
 「え……? あ、はい。すみません、お気遣いいただいて」
 他の場所へ動こうとする永峰社長の様子に、ちらと俺は志雄さんのほうを見た。
 まだ、彼は何やら熱心に白石さんと話している。
 さして広くない会場、別に声をかける必要はないかと、俺は黙って永峰社長について、その場を離れた。
 永峰社長の人脈は呆れるほどにだだっぴろいようだが、俺に紹介してくれた何人かは、比較的直接仕事で関係しそうな人たちばかりだった。
 気鋭の女性建築家さんや、飲食店を次々と繁盛させているフードプロデューサー。
 インテリア商品のバイヤーさん。照明器具のデザイナーさん。
 それぞれの人と少しずつ、話をしているうちに時間はすぐに経ってしまう。
 俺自身はさしてそんなことも気にしていなかったが、永峰社長からお言葉が入る。
 「……シオさん、放っておいて大丈夫かい?」
 なぜ、そんなに他人のカノジョなどを見たいのかよくわからないが、永峰社長は気になって気になってしかたがないらしい。
 言われて腕時計を見れば、志雄さんたちを置いて行ってから軽く1時間は経過していた。
 さすがにちょっとまずい気分になって元の場所に戻ってみると。
 「あれ……?」
 いない?
 「ほったらかして、怒って帰っちゃったんじゃないの?」
 「いや、そんなはずは……」
 見回すと、夜景を見下ろすソファに志雄さんは腰掛けていた。
 その隣には、まだ白石さんが座っている。どうやら二人して1時間ぶっつづけて話しこんでいたようだ。
 「志雄さん、ちょっと」
 俺は、ソファの背後からあまり目立たない程度の音量でそっと声をかけた。
 「はい?」
 立ち上がって振り返った志雄さんは、酒のせいかめずらしく熱心にしゃべっていたせいか、顔がほんのり赤くなっている。
 「……シオさんって、彼?」
 永峰社長が、ビックリしたように俺のほうを見た。
 (そうです、友達ですよ。カノジョはどーせ募集中の身ですから、俺は。)
 さすがにそうは言わないが、仕掛けた悪戯が成功したような満足感に、俺は内心ガッツポーズ。
 ソファから離れてこちらに来た志雄さんを、俺はしれっと社長に紹介してやる。
 「紹介します、西條志雄さん。志雄さん、この方が今回チケットをくださった永峰社長。仕事でいろいろお世話になっているんです」
 「はじめまして、西條と言います」
 「いやいや、こちらこそはじめまして。永峰です。井村くんにはホントにがんばってもらっててね」
 さすがの社長も、何ともいえない表情で俺と志雄さんの顔を交互に見る。
 そんなやりとりをしているうちに、話し相手がいなくなった白石さんもソファからこちらのほうへとやってきた。
 「お久しぶりです、永峰さん。いつもお招きいただいていたのにお断りするばかりで失礼していました」
 しばし呆然としていた永峰社長が、白石さんの挨拶で突然にいつもの調子に戻る。
 「あー、白石君、ホント久しぶりだ。相変わらず仕事は順調らしいじゃないの」
 「おかげさまで」
 「今度さ、君んとこの『エグザクトリー』でカフェださない? いけると思うよ」
 「え! 白石さんって『エグザクトリー』の方だったんですか?」
 今度は俺が驚かされる番だった。
 『エグザクトリー』といえば、今、何かにつけてファッションメディアに取り上げられるセレクトショップだ。海外からの買い付け品ばかりでなく、最近ではオリジナルブランドの認知度も高い。
 意外な話に、俺は思わず永峰社長と白石さんの会話を遮ってしまった。
 「……あれ? 井村くん知らなかったの?」
 永峰社長の声に少し呆れたような表情がかぶるのもしかたない。
 「ははは、名刺の会社の名前だけではわからないよね」
 考えようによっては失礼な俺の言動も、白石さんはさらりと笑って終りにしてくれた。 道理でやたら眼鏡のブランドに詳しかったわけだ。いや、この人の場合、眼鏡だけでなくどんなアイテムについても詳しいんだろう。
 「そうそう、白石くんが来ているならぜひ会わせたい人がいるんだよ」
 「見合いでなければ、喜んでおうかがいしますけど」
 そんなおどけた口調も粋な雰囲気の白石さんは、永峰社長にひきずられつつ志雄さんのほうを向いて言った。
 「よかったらさっきの件。本気で考えてくれないかな?」
 「そうですね、またご連絡します」 
 さっきの件?

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