永峰社長と白石さんが俺たちの立つ窓際からもっと人の集まっている方へと立ち去るのを見送ってから、俺は志雄さんに聞いてみた。
 「さっきの件って……?」
 「え? ああ、白石さんの話しですか」
 志雄さんが手に持っているグラスは、いつのまにかロングカクテル用の丈の長いグラスになっていた。無色透明の液体にライムの切れ端が沈んでいる。志雄さんがこちらを向くわずかな動きに、カクテルに浮かべられた氷が小さく澄んだ音をたてた。
 「微妙にあちらの企業秘密に関わるようなことなんですよね……」
 中指の先でそっと鼻梁にかかった眼鏡のアーチを直しながら志雄さんは言う。
 微妙に視線がこちらとはずれたまま、歯切れのよくない答えを。
 「じゃあ、別にいいよ……無理に聞くつもりはないからさ」
 軽く、ごく軽く適当に返事したつもりだったけれど、耳に聞こえた自分の声には勝手に溜息が混じっていた。
 うわ、これじゃなんだかすごく不機嫌そうに聞こえたんじゃないか?
 「すみません。ここに連れてきてくれたのは井村さんなのに」
 案の定、志雄さんがいかにも申し訳なさそうな表情で、俺に小さく頭を下げた。
 「いや、その、謝るようなことじゃ……」
 言いながら、俺はもう一度大きく呼吸をする。
 何で俺、こんなイライラしているんだ? こんなどうってことないことで。
 いや、違う。なんだか息苦しいんだ。
 飲みすぎたのかもしれない。酒には弱いほうじゃないけれど、さすがに二日徹夜の後に続けて強いカクテルを飲んだのはまずかっただろうか。
 そんなことを逡巡しているうちに、脈はますます強く早くなり、すぐに呼吸が浅くなる。頭もぼーっと熱っぽいような具合で、うまく話しが続けられない。
 「井村さん?」
 「あ、うん、……飲みすぎた、かも……」
 俺は志雄さんから離れて、さっきまで志雄さんと白石さんが座っていた窓際のソファへと向った。
 「水と、あと何か食べるもの、もらってきますね」
 すぐ後ろからかけられたはずの志雄さんの声が少し遠くに感じた。
 俺は志雄さんに言葉を返さずに、疲れた通勤親父さながらにどかっとソファに腰をおろして、わきにさりげなく置かれているガラスのサイドテーブルの上に、手にしていたグラスを無造作に置いた。
 そのままだらしなく手をひじかけに置いたまま、正面の窓へと目をやる。
 大きなガラスに反射して夜の空に浮かぶように見える俺の姿。腑抜けたようにソファに沈み込んでいる俺は、我ながらひどく格好悪い。
 眼鏡のおかげで「仕事のデキるオトナの男」を作っている分、こんな風に崩れた自分が余計にみっともなく思えて、俺はほとんど無意識に片側のつるだけを持つ乱暴な所作で眼鏡をはずした。
 途端に視界がぼやけて、窓に映る自分の姿もよく見えなくなった。
 少しして。
 「大丈夫、ですか?」
 水のタンブラーとオードブルを盛った白い皿を手にして志雄さんが俺のいるソファへとやってきた。
 志雄さんは俺の前に立ち止まると、俺の顔と、頓着なく俺の右手の指先にぶらさげられている眼鏡を順に見る。それから手にしていた皿とグラスをサイドテーブルに置いて、何も言わずに俺から眼鏡をとりあげた。店先でと同じような手つきで丁寧にその眼鏡つるをたたむと、彼はそれも皿の横に沿えた。
 眼鏡の取り扱いにはいつも小うるさい志雄さんが黙っている様子に、ますますいたたまれない気持ちが募る。
 なんか俺、情けなさすぎ。
 「井村さん……?」
 「ありがと。ちょっと、休めば大丈夫」
 俺は、隣に座った志雄さんに背中を向けるような姿勢でテーブルの上の水に手を伸ばした。
 コク、コクと冷たい水を飲み下すと多少頭の中がクリアになったものの、次にはどっと重苦しい疲労感が押し寄せてきた。
 眼鏡をはずしていることを差し引いても、視界の中に焦点がうまく定まらない。だめだ、これ以上ここにいたら、本気で眠ってしまいそうだ。
 俺の意識がゆらいだのを見てとったかのように、志雄さんが軽く俺の肩をたたいた。
 「井村さん、もう、帰りましょう」
 背後から小さく静かに伝えられたその声は、酔い覚ましの水よりもひどく染み渡るように聞こえた。
 
 帰り道の電車の中、俺たちはほとんど無言だった。
 電車の中は知り合い同士並んでいるようでも、お互い話しをしないグループが多くて、俺たちも特に会話そ持たなくても特に気まずい雰囲気にはならなかった。
 
 互いの家の最寄駅について、商店街に差し掛かれば店はもう全部シャッターが下りていた。ど田舎の商店街でもこれまでといった垢抜けないすずらんの花に似せた街灯が放置自転車ばかり目立つ通りを照らしている。
 電車の乗り降りでますます酔いのまわっている俺には、毎日通っている道と同じはずのこの道ですら、もはややたらに長く感じられた。
 「井村さんのアパートって、ウチの店の手前の角を曲がった先、ですよね?」
 俺のとろとろとした歩調に合わせて歩いてくれている志雄さんが、聞いてきた。
 「あ、うん、でも、ウチ、くらいは帰れる、大丈夫……」
 「そういう割には、千鳥足っぽくなっていますよ。わかっています?」
 諭すような口調で志雄さんは言うが、俺自身も足取りのあやうさについて自覚がないわけではないから、強く反論もできない。
 「井村さんが道端にころがっているのではないかと思うと気が気ではありませんから。玄関先まで送ります」
 「ごめん、迷惑かけて……」
 パーティーに誘ったのはこっちなのに、このテイタラクとは。
 分不相応に華やかな会場で、夜景が透ける夜の窓を眺めながら感じていた激しい自己嫌悪がまたぶりかえす。
 今日、この商店街がまだ買い物の人たちで賑わっていたあの時間は、俺は志雄さんをひっぱりだすことに成功して、意気揚々と駅に向って通りを歩いていたのに。
 今の、この低空飛行な気分は一体全体どうしたもんか。
 ほんの5時間ほど前の、あのむやみにハイだった気分をまだ覚えているからその落差に俺はますます落ち込むばかりだった。
 夜だというのにどこからか聞こえる蝉の声を聞きながら、俺と志雄さんは黙ったまま人気のない商店街を歩いていく。
 足だけを動かすうちにいつのまにか商店街も終りのほうになり、西條眼鏡店の看板が先に見える四つ角に差し掛かった。
 俺はもう一度、ここまででいいと志雄さんに言ったが志雄さんは本当に俺のアパートの前まで送ってくれた。
 「ホント、色々とごめん」
 2階へと上がる鉄骨作りの外階段の前で、俺はもう一度志雄さんに謝った。
 「何言っているんですか。今日は、楽しかったですよ」
 ありがとう、と言ってくれる志雄さんを見ながら俺はなぜかまたあの白石さんのことを思い出していた。
 それと白石さんと楽しそうに話し込んでいた志雄さんの様子。
 そんなつまらない光景が、理由なく俺の気持ちにさざ波をたたせる。
 帰り道にずっと重く感じていた、胸の中の何かが小さく震えた。
 「それじゃ、おじいさんにもよろしく。おやすみ」
 やっと挨拶を告げた声だけはいたって落ち着いていたけれど、その時自分自身がどんな表情をしていたのか、俺にはわからなかった。
 一方的に階段を上り始めた俺を、ふいに志雄さんが呼び止めた。
 「井村さん!」
 数段上がったところから振り向くと、志雄さんは片手をジャケットのポケットにつっこみ、片手の指先を自分の眼鏡のフレームのない縁に触れさせながらこちらを見上げていた。
 「眼鏡かけたまま寝ないでくださいよ!」
 そんなまるでいつもの小言のようなことを言う志雄さんが、今だけはレンズの向こうの眼をあの可愛いようにも見える半月型にして悪戯っぽく笑っているのが離れたところからでもわかった。
 まったくこの人は。
 冗談ですら、眼鏡のことなんだからかなわないなぁ。
 「ちゃんとはずして寝るよ!」
 そう、ちょっと大きな声で答えながら、俺はいつのまにか笑っていた。
 子どもっぽく手をふりかえすしてから、俺は階段を上がる足取りに勢いをつける。
 たどりついた2階の自分の部屋の前で、鍵をポケットから出して。
 無駄に重い金属製の扉を開けて。
 ドアノブを回して暗い室内へと目をやって。
 そして部屋に入る前。
 ふと、もう一度、通りを見下ろした。
 志雄さんが、まだ同じ位置に立ってこちらを見ていた。
 俺はもう一度彼に小さく手をふると、部屋の中に入って後ろ手に扉を閉めた。
 俺のほかは誰もいない部屋、俺は遠慮なくそこらにスーツもネクタイもシャツも靴下も脱ぎ散らかして安っぽいパイプベッドにころがりこもうとしたけれど。
 今さっきの志雄さんとの約束どおりに、俺は枕に頭を沈める前に、眼鏡だけはそっと両手ではずして定位置であるベッドサイドの小さな棚の上に置いた。
 その時かすかに耳に届いた、棚板とフレームが触れ合う音と一緒に。
 どうにもこうにもぐらつきまくっていた自分の気持ちも、ようやくコトッとすわりのいい位置におさまったように感じた。


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