翌日は案の定とでもいうべき二日酔いに悩まされた。
そもそも目が覚めたのが午後1時、重い頭をようやく持ち上げてシャワーを浴びてから、買い置いてた食パンをトーストにしてスポーツドリンクと胃に入れた。その後何とか1回洗濯機をまわして。
だらだらと1週間分以上の洗濯物を干しはじめた頃にはもうだいぶ日が傾いていた。
すっからかんになっている冷蔵庫の中身を補充すべく、ようやく買い物に行こうかという気になったのは、夕方も5時をまわってからのことだ。
ぶらりと普段着で商店街に出て、スーパーで軽く買い物を済ませてから、俺は志雄さんのところに寄ってみることにした。昨日は一人で酔っ払って迷惑をかけたから、お礼の一言ぐらいつたえておきたかったのだ。
スーパーの近くの和菓子屋さんの前を通りかかって、何か買っていこうかとも思ったが、それもむしろ志雄さんに気を遣わせそうで、自分の買い物袋だけを下げて商店街の端へと歩いていく。
土曜日も一応シャッターを上げている西條眼鏡店のくすんだような扉を押し開けると、いつもと同じにチリン、とベルの音が鳴った。
「いらっしゃい」
「あ、こんにちは……」
てっきり志雄さんがそこにいると思っていたのに、店番をしていたのはいつも通りにかくしゃくとした西條のじいさんだった。
「おお、井村くんか。昨日は志雄が世話になったようじゃな」
ぱっと明るい顔で俺に礼を言ってくれるじいさんに、実際のところがアレなだけに俺のほうが恐縮してしまう。
「いえ、俺のほうこそ志雄さんに世話になっちゃって。ところで、志雄さんは?」
工房のほうにも人の気配がないので、近所に買い物にでも出ているのかと気楽な気持ちで尋ねた俺だったが、じいさんの返事は思いもよらぬものだった。
「午後からでかけたぞ。めずらしいこともあるもんだ」
これも井村くんの影響かの、と爺バカの表情になってひとしきり眼を細めてから、じいさんはふと思い出したように俺のほうを見た。
「あー、そういえば井村くんは一緒じゃなかったのか」
「は?」
なぜ、そこで俺が出てくるのかと思いきや。
「確か、昨日知り合った人に会ってくるとか言っていたからな」
「ええっ?!」
志雄さんが昨日知り合った人って、あの白石さんしかありえないじゃないか!
想像もしてなかった話に、俺は大人げなく驚いたまま次の言葉をすぐに探せなかった。
「何を驚いておるんかの」
俺のリアクションに逆に驚いているようなじいさんに、俺は慌ててとりつくろうように言う。
「いや、その……意外だと思って」
「うむ、ワシも驚いたが……何にせよ、志雄が外に行くのはいいことじゃ」
うんうん、と一人で頷いているじいさんには、あまり細かいことを根掘り葉掘り聞くのも気が引けた。俺としては志雄さんから白石さんに連絡をとったのか、白石さんから志雄さんに電話でも来たのか、気になるところだったのだが。
「ええと、それで……おじいさんは志雄さんが何時ごろお帰りかご存知ですか」
「ああ、夕食はその人と一緒だと言っていたが。ところで志雄の相手は女性だと思うかね?
」
逆にじいさんに身を乗り出すように聞かれて俺は返答につまってしまった。
ここで、それはないですときっぱり否定するのもいかがなものだろう。
「わはははは、まあ男同士の友情もあろう。井村くんにも野暮は聞かんよ」
じいさんは俺の沈黙を肯定と受け取ったらしい。
志雄さん、ごめん。おじいさんに余計な誤解を招いたかもしれない。
俺は心の中で志雄さんに謝りつつも、今、ここに志雄さんがいないということには微妙に恨みがましい気持ちにさせられる。
「じゃ、俺、帰ります。志雄さんに井村が来たってことだけ伝えておいてもらえます?」
「おお、わかったわかった。井村君も忙しいだろうが、また寄ってくれ」
俺は何となく気の抜けた気分で、西條眼鏡店を後にした。
夕方の商店街で買い物に励む主婦の皆さんの自転車の間をすり抜けるように歩きながら、俺はつらつらと考えていた。
おそらく白石さんから志雄さんに連絡をとってきたんだろう。志雄さんはいくら眼鏡の話で意気投合したからって、昨日の今日に知り合った相手に電話をするタイプとは思えなかった。
俺の仮定が合っているとして。じゃあ、なんだって白石さんはこんなにも電光石火に志雄さんにコンタクトをとってきたのか?
白石さんだって決して暇な身ではないはずだし、時間があったとしても誘うべき相手は、男女問わずいろいろいるに違いない。いや、それ以前に一人でも十分に充実した時間をすごせるタイプの人だと思う。
つまり、白石さんには何かしら志雄さんと積極的に関わりたい理由があるのだ。
―― 微妙にあちらの企業秘密に関わるようなことなんですよね
パーティー会場で聞いた、少しよそよそしい志雄さんの声が脳裏に甦って、気分が日暮れ時の空模様に似た調子で勝手に薄暗くなっていく。
溜息交じりにアパートの部屋の扉を開けた俺は、手に提げていたスーパーの袋を小さな台所に置いた小さな折り畳み式のテーブルの上に投げ出して、そこからまだ冷たいビール缶だけをひっつかむとベッドもテレビもちゃぶ台もいっしょくたに置いてある部屋のほうへと行った。
クッションのなれの果てであるひらべったくなった座布団の上に腰を下ろせば、俺は条件反射のようにテレビをつけてしまう。
電源をいれて、とりあえず現れた画面に目は向けてみたものの、俺はまだ志雄さんと白石さんの関係を考えることをやめられない。
そう、志雄さんの関わる企業秘密といえば眼鏡しかないじゃないか。
白石さんは眼鏡屋でも始めるつもりなのかな。志雄さんを自分の店の店員にでもしようとしているのかもしれない。
他に理由なんて……あるだろうか? 白石さんが志雄さんを気にかける理由。
考え事をしながら、ちびちびと飲むビールはあまり美味しくない。
「あー、ビールがまずいのは、やっぱり昨日飲みすぎたせいかなぁ!」
およそいつもと変わらぬ一人だけの部屋で、あえて明るめに独り言を言ってみたが、余計に空しい気持ちになっただけだった。
テレビから聞こえるちゃちなお笑いタレントの笑い声が癇に障って、俺は無造作にチャンネルを変えた。
西條眼鏡店の休業日である日曜日に志雄さんに会いに行くのも気が引けて、何となく曇り心地の気分のまま、新しい週を迎えようとしていた。
そもそも志雄さんのことをこんなに気にするほうがおかしいのかもしれない、とようやく思えたのは日曜日ももう終りに近づいた時間。次の日からの怒涛の忙しさを思い、溜息を何度となくつきながら、風呂につかってユニットバスと同じ色の天井を見上げながら、俺は志雄さんと白石さんのことを何とか頭から追い出した。
追い出した、はずだったのに。
月曜日の朝1番、大詰めを迎えた仕事の現場で顔をあわせたのは、否応なしに志雄さんも白石さんも連想させる永峰社長だった。
仕立てはよさげだが、ピンストライプというには大胆なストライプが目立つ日本人離れした背広を着込んだ社長は、すでに忙しく働いている内装業者の人たちにも気軽な様子で声をかけながら、俺の方へとやってきた。
「おはよう、井村くん。先週の金曜日は来てくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそお招きいただいてありがとうございました」
俺がそう言って頭を下げると、突然に永峰社長は俺の肩をばん、と叩いて笑った。
「はっはっは、いやぁ、しかし驚かされたね!」
……驚かされたって志雄さんのことだよな、当然。
俺は仕掛けたあの悪戯がこの食えない社長によほどインパクトを与えていたらしいことに、あらためて“してやったり”という気分になれた。
しかし。今度は俺が驚かされる番だった。
「まったく、井村くんも隅におけないなぁ。僕はそういう趣味ないんだけど、井村くんが彼にベタぼれなのは理解するよ」
俺は一瞬、社長が何を言っているのか理解できなかった。
驚かされた、って……。永峰社長は俺の意図した方向とは違う方向で驚いてくれていたのか。永峰社長は、俺と志雄さんが…カップルだと本気で思っていた?!
そりゃ驚くわ。俺だって驚く。
「あの、永峰社長……」
「ん? 気にしなくていいよ。僕、別に偏見ないつもりだからさー」
クリエイターってそういう人たちも多いし、とあっけらかんとしている社長はいよいよ自分が誤解しているという可能性を微塵も考えてはいなそうだった。
「いや、そういうことではなく……」
思わず小さく手を上げて永峰社長の話を遮りかけた俺の動きを止めたのは、かまわず続く永峰社長の言葉。
「白石くんもそのケがあるって話だしね。あ、彼の場合はどっちでもいいんだったかな」
え?
ええええ?!
白石さんって、そういう人だったのか?!
「そのケがあるって……そんな冗談、白石さんの前で言えますかぁ?」
「冗談っていうか、本人がけっこうあちこちでそれらしいこと話してたからね」
え、噂や冗談じゃなくて、マジな話しなんですか、それ?
「ほら、エグザクトリーのオリジナルブランドで“トリセクシャル”っていうのがあったの知ってる?」
「いや、すみません。よく知らないんですけど」
人が“知らない”というと途端に教えたがりになる永峰社長は、ここが現場であるということも忘れたかのように目を輝かせてしゃべりだした。
「“トリセクシャル”はエグザクトリー初のオリジナルファッションブランドでね。マスコミにインパクトを与えたいってのもあったんだと思うんだけど、白石くんはデザイナーにわざわざセクシュアルマイノリティーであることをカミングアウトしているメンバーを起用したんだ」
「はあ……」
「で、コンセプトの説明の折に、白石くんは自分も『男女にこだわらない』って、あちこちで話してたからね。もっとも、そういう話題も含めてちょっと先進的でとんがったブランドイメージを作ろうとしていたんじゃないかとは思うけど」
永峰社長の解説を聞きながら、俺はパーティーで会った白石さんのことを思い出していた。
着こなしから身のこなしまで全てがビシっと決まっている完璧な「オトナ」。あの人だったら、バイセクシャルということも自由でアーティスティックな、あるいは時代を先取りしたようなカッコよさの要素の一つになるのかもしれない。
そんな俺の記憶を反芻する意識に割り込むかのように、パチンと一つ指を鳴らして解説モードを終了した永峰社長が俺にニヤリと笑いかけてきた。
「あ、そうそう。ご心配なく、白石くんにはちゃんと釘さしておいたから」
「は?」
「ほぉら、志雄さんは井村くんのツレだってこと」
訳知り顔でまた肩をこづく永峰社長に、俺はさっきから、言いそびれていた件を伝え直した。
「あー、それについてはですねー……」
すっかり俺をゲイかバイだと思い込んでいる社長になぜか申し訳なくすら思いながらも、俺は自分の性癖がいたってノーマルであることをしっかりと弁明してしまった。カノジョいない歴3年という自虐的なエピソードまでつけて。
「何だ〜。そうだったのか。すっかり騙されちゃったなぁ」
俺の種明かしに、いかにもつまらなげに永峰社長は肩をすくめた。
「てっきりそのスジかと思ったのに」
トレードマークじみたオールバックの髪の生え際を指でかきながら、まだ名残惜しそうにその話題をふる永峰社長に、俺は苦笑交じりに言い足した。
「志雄さんは、まあ何というか……いい友人で」
考えてみれば俺と志雄さんは、元は眼鏡屋とその客という知人と表現するにも浅い関わりでしかなかったはずなんだけど、今なら友人と言ってもいいだろうと思って、とりあえずそう説明しておいた。
「そうかそうか。うーん、じゃあ次に白石くんに会ったらそう言っておかなきゃな」
永峰社長の独り言じみたその物言いに、俺はあらためて志雄さんと白石さんのことを思い出していた。
きのう、しばらく考えていた。白石さんが志雄さんに積極的な理由を。
永峰社長の話が事実だとすれば、ひょっとして白石さんはそういう意味で志雄さんに関心があるんじゃなかろうか。
だからと言ってこれまた尋ねてみるわけにもいかないよな。志雄さんにも、白石さんにも。
するだけ無駄といえば無駄な、俺のおだやかならぬ逡巡はあっさりと作業中の内装業者に中断させられた。
「井村さーん! ココのところ寸法が図面とあわないんだけどねー!」
依頼主の目前で図面の問題点を指摘され、気まずそうな面持ちで呼ばれたほうへ向おうとした俺に、永峰社長は言った。
「ま、ささいなトラブルは起きるものだよ」
何事においてもね、と呟くように付け加えた社長の表情を俺は見もしなかった。
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