内装工事が終わり、備品が運び入れられ、俺の仕事もいよいよ大詰めを迎えた。
 開店予定日より1週間前。夜8時。
 実際に店が稼動すれば一番忙しくなるこの時間帯に、まだ床のあちこちに作業用のビニールが敷かれている店内のフロアで、俺は工事期間中一番緊張した気持ちで同じくビニールをかけたままの大きな一枚板のテーブルに着席していた。
 「まだ到着されていないんですか」
 オープニングスタッフが試験運用をはじめている厨房から、気を利かせてコーヒーを持ってきてくれたこの店の店長になる山之内さんが言った。
 「ええ、携帯電話も通じないんですよ」
 湯気のたつ白いカップを受け取りながら、俺が前の会社にいた頃に奮発した愛用のタグホイヤーの腕時計を見た。その時。
 「すーみませーん、遅くなりましたぁ」
 息せき切ってかけこんできたのは、ジーンズに淡いミントグリーンのシャツというラフな姿の小柄な男性。今回の企画の目玉であるライティングを担当した照明デザイナーの折橋ミツイさんだ。
 「あれ、折橋さん、眼鏡……?」
 今まで、打ち合わせで何度か会っていたときは眼鏡をしていなかった折橋さんが、今日は細い赤のセルフレームの眼鏡をしていた。
 「や、井村くん、お疲れ様!……これ? うん、コンタクトを壊しちゃいましてねぇ。ここしばらく眼鏡になっているのですよ」
 「へー、その眼鏡、つるのところが少しジグザグになってるんですね」
 「そうそう、ちょっとイイでしょ? 井村くんが気づいてくれて嬉しいなぁ」
 俺よりも若く見えかねない茶髪と小顔でセリフの通り本当に嬉しそうにする折橋さんに、はっと我にかえる。
 俺、何で眼鏡の話なんかしてるんだよ。志雄さんじゃあるまいし。
 「あ、で、ええと……折橋さん、永峰社長とご一緒だったんじゃ?」
 そう、今日は今回のプラン最大の目玉、折橋さんデザインの照明の最終確認日だったのだ。俺はてっきり折橋さんと永峰社長が一緒に来るものだとばかり思い込んでいたのだが。
 「うん、僕、今日の日中は大阪のほうに出てましてね。で、夕方から新幹線でこっち駆けつけたから……永峰社長との待ち合わせは遠慮しておいたんだけど」
 案の定遅れちゃったし、と肩をすくめる折橋さんはこれまでの俺との打ち合わせでもしょっちゅう遅刻をしていた。
 俺と折橋さんが話をしているところに、また山之内さんがやってきた。
 「井村さん、永峰社長からお電話です」
 そら、噂をすれば影。俺は電話の子機を受け取ると、電話口でも大きい永峰社長の声を予想して、微妙に耳を離した姿勢で電話に出た。
 「井村くん? 永峰だけど! 今タクシーからでね。ちょ〜っと渋滞につかまっちゃってさ。もう少しかかりそうだから先に折橋くんや山之内くんと始めちゃっててよ」
 折橋くんがオッケーならいいから、と折橋さんに全幅の信頼を寄せているらしい社長に、俺は素直に了解の意を伝えた。
 「あと、それからー。……、……、も連れていくからさ。終わったら……でメシでも食いに行こうって折橋くんと山之内くんにも伝えておいてー」
 「え?どなたとご一緒なんですか?」
 「し・ら・い・し君だよ……じゃ…そういうことでまた…で」
 永峰社長が切ったのか、電波が届かなくなったのか。そこで電話は切れた。
 思わぬ話の内容に、俺は呆然と手にしていた受話器を凝視してしまった。
 おいおい、白石さんが来るのかよ! 何でまた?! 永峰社長のイヤガラセか?
 「……井村さーん、永峰さん、何て?」
 折橋さんに尋ねられて、俺は慌てて子機をテーブルの上に置くとできるかぎり平静を装って今の電話の内容を伝えた。
 「白石さん?」
 「『エグザクトリー』ってセレクトショップのブランドマネージャーさんなんですけど……」
 「わぉ!僕、あそこのグリーンの文房具のシリーズ好きなんですよねぇ」
 楽しみ!と明るい折橋さんに適当に話をあわせながら、俺の脳裏はまた別のことを考えてしまう。
 な、何で白石さんがこの現場に来るんだよ。いや、それはそれとして。
 この際だ、白石さんに聞いてしまうか? 志雄さんと何で関わっているのか。
 いや、しかし、どうよ、それって……おまけに今回は仕事の席なわけだし……。
 「井村さん?」
 つまらないことで頭を悩ませていたのが顔に出ていたらしい。折橋さんに不思議そうに顔を覗き込まれた。
 「永峰社長もいいとおっしゃっているとのことですから、始めちゃいましょう」
 「は、はい! そうですね!」
 俺は冷めた残りのコーヒーを一気に飲み干すと、山之内さんと一緒に照明コンソールのある一角へと向った。
 「じゃ、こっちの壁のA照明いれてくださーい」
 この居酒屋で一番大きな壁面になっている東側の壁の前に立って、折橋さんが手をふった。
 「ええと、コレですね」
 俺の横で、実際にこの照明システムを管理することになる山之内さんがパチン、とスイッチをいれる。
 「あれ?」
 壁面が暗いままで、俺はドキっとした。まさか配電ミス? 配電工事の当日はきちんとついたはずなんだけど。
 「……あ、こっちもまわさないとダメなんですね」
 どうやら調光スライダーがオフの位置にあったらしい。山之内さんがつまみをぐーっと上へと押し上げるとふわっと壁面が明るくなり、照明が強くなるにつれて何もなかったように見えていた白い壁に繊細な陰影が現れはじめ、ボッティチェルリの優しげなヴィーナスの姿が一面に浮かび上がった。
 「よしよし、大丈夫みたいですね」
 数歩離れた位置から壁面を見上げていた折橋さんの満足そうな声が聞こえた。
 「じゃ、スイッチをB照明に切り替えてください」
 指示通りにスイッチをAからBに切り替えると。フッと手品のようにヴィーナスの姿が消えて真っ白な壁になる。壁の明るさは変わらないのに、だ。
 「おー、成功成功。やっぱり実際に見せてもらうと、自分で作ったはずのものでも感動しちゃいますよぉ」
 「ですよね!僕も工事が終わって、最初に配電チェックをしたときは本当に感激しました」
 とにもかくにもこの仕掛けには苦労させられましたから、とは言わないでおくのがオトナのマナーだろう。そう、今回の企画の最大の難所がこのシステムだった。
 特定の方向から照明が当てられたときだけ浮かび上がって見えるこのレリーフ、何せこれまでは折橋さんが学会だか展示会だかでのプレゼン用に作ったB2サイズのモデルだけしかなかったのだ。
 折橋さんの知り合いの知り合いの知り合いという感じで緻密な作業を引き受けてくれるセラミックの加工業者さんを見つけて、特別なタイルを作ってもらって何とか実現することができた。
 もっとも、この絵に予算の大部分をつぎ込むハメになり、また別の部分でもやりくりに奔走することになったわけなんだけど。
 最初に「無理です」って断っておけばよかった、と仕事中に何度思ったことか。
 俺は腕を組んで感慨深く、折橋さんが自分の仕事をチェックする様子を見ていた。
 折橋さんの指示通りに、山之内さんが次々とスイッチが入れば全ての壁面に絵が現れる。そして、次の瞬間には絵が消える。やはりフロアの明るさはまるで変わらない。
 その光景を見ながら、我ながら無茶な提案をよく実現させたものだとしみじみと思う。
 「オッケー、これでいけます!」
 照明コンソールから一番離れた壁面のほうから、折橋さんの声が聞こえた。
 折橋さんのGOサインが出れば一安心、あとは本当に開店を待つばかりだ。
 俺はほーっと息をはくと、文字通りに力の抜けてしまった肩を落とし、重力に引かれるままにだらりと体操のように上半身だけを前屈させた。
 「大丈夫ですか?」
 「はは、オッケーもらったら力抜けちゃった」
 親切に心配してくれる山之内さんに脱力したまま答えていると、折橋さんもこちらへとやってきた。
 「どうしたんです?」
 そんなに俺、妙なポーズをしているだろうか……。
 「井村さん、折橋さんのオッケーをもらったら力が抜けたそうです」
 生真面目な山之内さんの説明に折橋さんはぷっと吹き出した。俺のこのクタッとした姿勢がおかしかったのやら、バカな内容を淡々と説明する山之内さんの口調がおかしかったのやら。
 「そうなんだ、ははっ。まあ、井村さんにはだいぶ苦労させちゃいましたよね」
 「ホント、苦労させられました!……なーんて、ね」
 がばっと勢いよく背筋を起こして、ずれかけた眼鏡を指先で直しながら笑ってみせると折橋さんはあらたまった口調で、ありがとうと言ってくれた。
 「僕の現時点での代表作になったと思います。井村さんのおかげです」
 「こちらこそ、いい仕事をさせてもらいました」
 苦労も忘れるっていうのはこういう瞬間のことを指すんだろう。ああ、ここまできてようやくこの仕事をやらせてもらってよかったと思える。

 そんな俺と折橋さんの感動の余韻も消えぬ間に、フロアの方へと誰やらやってくる気配がして俺たちは入口のほうを向いた。
 「永峰社長が到着されたようですね」
 照明コンソールからきびきびとそちらに足を向ける長身の山之内さんは、こういう居酒屋の店長よりもホテルマンか一流フランス料理店のギャルソンの方が似合いそうだ。
 「やあやあやあ、遅くなっちゃったなぁ!」
 ごめんごめんとまるで悪いとも思ってなさそうな調子で言いながら、ハンカチで汗を拭き拭きやってきたいつも通りの永峰社長の後ろには。
 本当に来た。そこにいた。確かに、あそこで会ったあの人以外の何者でもない。
 「すみません、お仕事中のところをお邪魔します」
 山之内さんに声をかけてから白石さんは永峰社長に半歩遅れてこちらへとやってきた
 まだ接着剤と塗料の臭いが残る工事したての室内に、どちらがつけているものだか複雑な香水の香りがふわりと混じる。
 「白石くんと井村くんはもう顔あわせてるよね? ええと、折橋くん。彼、白石くん」
 永峰社長の紹介はむやみに端的だったが、そこで白石さんは折橋さんへと近づいてきた。
 「はじめまして、白石と申します。折橋……先生とお呼びした方がいいでしょうか」
 スッとしごくスマートに懐から名刺入れを取り出し、俺ももらったあの名刺を差し出す白石さんに「先生」と呼ばれて折橋さんの方が慌てていた。
 そう言えば、折橋さんは某有名美大の助教授だったかのポストも持っているんだったっけか。
 「いや、はじめまして、白石さん。“先生”だなんてとんでもない! 僕、そんな偉くないんですから」
 そんな風に言いながら折橋さんは名刺入れを探しているのか、胸のシャツのポケットやらジーンズのポケットやらをゴソゴソと漁りながら、ひどく恐縮したように答える。
 「すみませーん、ちょっとカバンから名刺入れとってきますー」
 「どうぞ、おかまいなく」
 折橋さんが俺と白石さんの間をすり抜けるようにさっきまでいたテーブルの方へ行ってから、俺は白石さんに声をかけた。
 「こんばんは、白石さん。先日はどうも……まさかこういうところでお会いできるとは思ってもいませんでした」
 「井村さん。こちらこそ、打ち合わせにお邪魔してしまってすみません」
 そう言って、涼しげに笑う白石さんの眼はあの時と同じ眼鏡の向こう。何ていったっけ、ドイツのブランドだったのは覚えている。
 「今日は永峰社長とご一緒だったんですね」
 「ええ。それで折橋さんを紹介するからと言われましてね。図々しくもお伺いしたんですよ。それに井村さんに……」
 何やら言いかけた白石さんの声は、ようやく名刺入れを探り当てたらしく駆け足で戻ってきた折橋さんに遮られた。
 「やれやれ、あまり名刺を配り歩かないものだから……失礼しましたぁ」
 折橋さんが無事に名刺を白石さんに渡したところで、山之内さんと何やら話していた永峰社長が割り込んできた。
 「そうそう! もうチェックは終わったそうだけど、せっかくだから折橋くんの作品見せてよ。白石くんにも見てもらいたいし」
 「そうですねぇ。じゃ、また電源いれてもらえますか」
 折橋さんは社長と白石さんをフロアの中で一番壁面を眺めやすい位置に連れていき、俺と山之内さんは再びコンソールの前に立った。
 スイッチをいれる。調光スライダーを上げる。
 「おおー」
 「ほぉ……」
 永峰社長と白石さんの感嘆したような声がこちらにまで聞こえてきた。
 そら、ここが見所。スイッチを切り替えて絵を消してやる。
 「へぇー」
 「まったく明るさが変わらないというのがすごいですね」
 「ええ、僕もそこに苦心したんですよぉ」
 俺と山之内さんは、そんな三人の会話を聞きながら、次々とすべての壁面の絵をさっきと同じように出したり消したりして見せた。
 「いやはや、想像以上だよ。井村くんも、まあよくこんな工事させたもんだ」
 こちらに戻ってくるや否や、永峰社長が半分呆れたように俺に言った。やらせたのはある意味、社長だと思うのだが。
 「驚かされました。パーティーなんかでは特に映えそうですよね。きっとご繁盛なさいますよ」
 白石さんは店長の山之内さんに声をかける。山之内さんは少し目を伏せて、恐れ入りますとていねいな口調で答えただけだった。
 「さーてと。ちょっと遅くなったけど、メシでも食いにいこうかと思うんだけど」
 電話での予告通りの永峰社長の言葉に、全体が移動モードになる。それぞれに手に荷物を持ってぞろぞろと店の外にでようとする矢先に。
 「あ、井村くん」
 白石さんに声をかけられた。顔を向ければこちらに向って美しい生成り色の宛名のないA4版の封筒が差し出されている。
 「これ、忘れないうちに」
 受け取ると、何やら中には少し厚みのある箱のようなものが入っていた。微妙な重さだ。何だろう。
 「その品物……西條くんに渡しておいてくれませんか」
 白石さんの口から「西條くん」という名前を聞いた瞬間、俺の全身の動きが止まった。 
 「井村くんと西條くんはご近所だって、西條くんに聞いていましたので」
 「ええ、そうですけど……」
 そんなことまでこの人に話していたのか、志雄さんは。
 ちょっとばかりの間だけ忘れかけていた、今さっきまで気になって仕方なかったことが途端に頭の中に舞い戻る。
 ああ、俺は今ここで何をこの人に尋ねればいいんだ?
 「おおい、白石くん! 井村くん! タクシー来たよ!」
 先に出ていた永峰社長の大声がこの場の時間切れを伝えてきた。
 とりあえず、俺はいかにも快く引き受けたフリをして、白石さんの差し出した封筒をカバンに収める。
 まさか、こういうカウンターをくらうとは。
 すぐに気の利いた会話を続けられなかった自分に歯がゆい気持ちでいっぱいのまま、俺は先に歩き出した白石さんの後を追いかけた。


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