2台のタクシーで永峰社長に連れて行かれた先は、高級住宅街の中にひっそりと立っている一軒家の店だった。
言われなければレストランともわかりづらいような手入れの行き届いたガーデンがついたお屋敷で、その佇まいから最初はフレンチかイタリアンレストランだろうと思ったが、お迎えはなんとチャイナ服のウェイトレスさん。
「コンセプトとは“コロニアル・チャイナ”とでも言おうかなぁ、シンガポールとかマカオとか、あるいはちょっと前の香港とか上海?
うん、まあそういう感じ。でも料理はヌーベル・シノワーズでね。香港のお店と提携してるんだ。美味しいと思うよ」
どうやらここも永峰社長関係の店らしい。
社長の顔もあってか、案内されたのは5人という人数には広すぎるような個室だった。
寛げるような、寛げないような微妙なサイズだ。
部屋の上品なクリーム色の壁紙はよく見れば蓮の花柄が織り込まれていて、家具も李朝風とかそんな感じのデザイン。透け感のあるオーガンジーの白いカーテンに飾られた大きなガラス窓からは、庭園灯に照らされたプールが見える。
そんなロケーションも落ち着かなければ、同席の面子もリラックスできるメンバーじゃない。
白石さんがいなければ、いや、今さっきの志雄さんへの荷物の一件がなければ、こんなに緊張しなかったのかもしれないけれど。
些細といえばこんな些細なことでビールのピッチも箸の動きもひどく鈍ってしまう自分がちょっと情けなかった。
「どうしたの、井村くん。食欲ない?」
傍若無人なようでいて、時々鋭い永峰社長に指摘され、俺は曖昧に笑ってごまかすしかない。
「いや、なんかガツガツ食べるには上品な中華料理なもんで」
「いつも食べ盛りの学生みたいな食べ方するくせにー。遠慮せずにガンガン食べなさいよ」
社長は蘭が飾られた青磁の皿から巨大な揚げ海老を2匹とって俺の方にまわしてくれてから、今度は白石さんに向って話し始めた。自分から話を振り出す人間がいない席では、この社長の“仕切りたがり”という癖はひどく重宝なものだ。
「そうそう、白石くん。例の新しい店の話!
よかったらもうちょっと詳しく聞かせてよ」
「永峰さんがそう仰ってくださるなら」
落ち着いた口調で返事する白石さんは、生春巻きを手づかみで食べる様子もサマになっている。この人ならたとえ石焼イモを食べていても、カッコよく見えそうだ。
「ご紹介いただいたときから、折橋先生にご協力いただければ嬉しいと考えていたのですが」
突然のご指名に、折橋さんは赤い眼鏡の向こうで小動物系の黒目勝ちな目を慌てたようにパチパチさせる。
「僕に、ですか?」
「ええ、今度、うちのブランドで同時に小さい店を三店同時に出す企画がありましてね」
一口のビールで喉を潤してから白石さんが説明をはじめると、自然と食卓の全員の注目がそちらに集まる。
皆の意識を十分にひきつけたのを見計らったような絶妙なタイミングで白石さんは話を続けた。
「腕時計。眼鏡。そしてカフスやタイピンといったメンズ向けのアクセサリー」
眼鏡、と聞こえたそのときに。
ちらりと、でも確かに白石さんの視線がこちらを向いた。
目と目が合ったと感じた、その瞬間に理解する。
そうか。白石さんが志雄さんに声をかけたのはこの企画のためか。
「それぞれの小さな専門店を『エグザクトリー』のブランドで。どの品物も決して大きくない繊細なものばかりですから、照明には気を遣いたいと思っているんです。そこで折橋先生に……」
さらに続く白石さんの話は、俺にとっては耳の外を流れていくラジオのような感触になっていく。
この場の話から脱線した俺の頭が浮かべだしたのは、西條眼鏡店の時間の流れが違うような店内で眼鏡を丹念にいじっている志雄さんの姿だった。
続けて意識的にあの志雄さんが、たとえば銀座や表参道の小さなお店にいるところを想像してみようとすると、たちまち俺の脳裏には、やけに鮮明な光景が描き出された。
エグザクトリーの本店の雰囲気を切り取ったような、フローリングとコンクリート打ちっぱなし、そして分厚いガラスをそこかしこに配置した明るい店内なんかで、ファッション雑誌から抜け出てきたような服装で接客している志雄さん。
多分、そういう格好も志雄さんはちゃんと似合うだろう。
本人は洒落ッ気なさそうだけどね。
言葉で浮かぶそんな感想は薄っぺらな強がりだ、と自分でも思う。
その下でもやもやと渦巻く落ちつかなさは否応無く自覚させられるほどの質量があった。
俺が知っている志雄さんは、骨董品風の眼鏡をかけて、洗いざらしのシャツと黒いエプロンをつけて、商店街のざわめきが聞こえるカウンターにいる、小奇麗なのにちょっと無愛想な男で。
商売する気なんか全然なくて、でもたまに見せる笑顔はひどく優しげ。
省みれば数えられるほどしか見ていない、それでいてその度に印象的な志雄さんの笑う表情を思い浮かべれば、むしろ自分の胸の中で揺れる不安にも似た感情は強くなってしまうばかりだった。
名前を付けられない圧迫感が胸を締め付ける。何だか、また少し息苦しい。
「……ですよねぇ? 井村さん」
「は、はい?」
突然に折橋さんに声をかけられて、俺は居眠りから覚めたように話の席に呼び戻された。
「すみません、ちょっとボーッとしちゃって……」
何に同意を求められたのかまるでわからない俺が気まずそうに言うと、さりげなく山之内さんが気を遣ってくれた。
「やっぱり井村さん、お疲れなんですよ」
「そ、そんなに顔に出てます?」
「この1週間、毎日店でお会いしていたわけですけど、確実に疲れが蓄積されている様子がわかります」
わずかに眉をしかめた表情で淡々という山之内さんの低い声に、宴席のトーンが微妙に下がった。
その場の空気に、永峰社長は咳払いとともにやや大げさな身振りでご自慢のロレックスの腕時計を覗き込みながら言う。
「んー、まあ、時間もだいぶ遅いしねぇ。白石くんと折橋くんのお見合いもまあ前向きな方向ってことで。今日はお開きにしたほうがいいかな」
「なんか、自分がせっかくのセッティングしらけさせちゃった、みたいで……」
いたたまれない気持ちで俺が背中を縮めながら言うと、折橋さんが慌てたように手をふった。
「いや、もぉ、ほら。井村くんを疲れさせちゃったのは僕だからっ」
「ソレ言うなら、元凶は僕だよねぇ? 井村くん」
「そーですっ!!! 郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、皆社長が悪いんですっ!」
自分でも虚しくなるほどテンションをあげて、無礼講以外の何物でもない返事を永峰社長に返す。これくらいしないと、自分のせいで本当に雰囲気のよろしくないお開きになってしまいそうだったから。
俺の答えに思った通りにがはははと豪快に笑い出して宴席を〆てくれた社長に、俺は感謝するしかないだろう。
「で、皆さん、帰りはどうされますか」
帰り支度を終えて、玄関先に集った面々に秘書のような物腰で山之内さんが尋ねると、帰りは二つのグループに分かれることがわかった。
タクシーに乗って、JRの駅に向うのが3人。
歩いて最寄の地下鉄駅に向うのが2人。
「いい酔い覚ましですよね? 白石さん」
地下鉄組の一人として、あえて先にそんな風に言ってみた自分自身の声は何だか硬い。
「……そうですね」
白石さんの返事に、微妙な間があったように聞こえたのは俺の気のせいだろうか。
やがてタクシーに乗り込んでいく社長と折橋さんと山之内さんを見送ると、俺たちが立っている住宅街は途端に静まりかえった。
地下鉄の駅まで歩いて10分ほどだろうか。
並んで歩き出して、俺は意を決してすぐに尋ねてみた。
「志雄さんに声をかけたのは……さっきの新しい眼鏡店の件だったんですね」
できるだけ、明るい口調で。さも納得したというように。
「うん、そういうこと」
一緒に食事をした気安さもあるのか、白石さんの返事はくだけた言葉遣いになっていた。
「西條くんは、君には話してなかったんだ?」
「ええ。白石さんとこの企業秘密ですから、って教えてくれなかったんですよ」」
あの白石さんと知り合ったパーティーの後のことを伝えると、白石さんが小さく笑った。
「はは、彼は真面目なんだね」
その楽しそうな声のまま、白石さんは俺に尋ねかえす。
「ところで、井村君はなんでそんなに西條くんのことを気にするの?」
闇の中からさりげなく突きつけられた質問に、俺の心臓がドキンと鳴った。自分でも驚くほどの強さで。
落ち着け落ち着け。永峰社長がほら、ヘンなこと言ってたじゃないか。
「な、永峰社長に何か言われたんじゃ……あれは……」
気の利いたフォローが口から出せなくて、俺の脈はますます早くなる。
「永峰さんの話は最初から冗談だと思っていたよ」
少しの沈黙。互いの足音がちょっと大きく感じる。
話を続けられない俺に、白石さんは歩きながらふいと視線を足元に落とした。
「心配なのかな? 彼のことが」
「心配、といえば……」
心配、と言ってもいいのかもしれない。白石さんと志雄さんの繋がりを知ってからというもの、ずっと頭の片隅から離れない居心地の悪さは。
でも、俺にはどうしても白石さんの指摘に素直に頷けなかった。
また、しばしの沈黙をはさんで、再び白石さんが口を開く。
「ちょっといいよね、 彼」
目をあわせないまま、さらりと言われた曖昧なセリフ。普段だったら聞き流してしまうような。
でも、そのときはどうしてもある方向性を持った意味にしか聞こえなくて、俺は凍り付いてしまった。
3歩ほど俺より先に行ってしまった白石さんは歩調だけ遅くしてこちらを見ずに言った。
「いささか変わっているけど、もう少し話してみたいと思わせる。井村くんもそう思わない?」
ああ、何でそんなことをこっちに尋ねてくるかな……この人は。
そうだよ。その通りなんだけど。
歯がゆいようなイライラするような気持ちで足並みを早めて、俺は白石さんとまた並ぶ。
常日頃からもう少しだけ身長が欲しいと思う俺からすれば、理想的な高さにある白石さんの頭の方から独り言のような呟きが落ちてきた。
「ふーん、そうか」
「何か?」
「なんでもない」
地下鉄の入口が見えてきて、少し明るくなった歩道。白石さんはそう言ってゆるく首をふった。
「君のところの駅だったら、道路を渡って反対側の階段を使ったほうが楽だよ」
うちの最寄り駅のことも、志雄さんに聞いていたんだろう。白石さんが指差す先には横断歩道があり、そのすぐ隣で鏡合わせのように反対側の地下鉄入口の看板が光っていた。
「そうですか。じゃあ、ここで……」
「それからね、井村くん」
歩き出した俺を白石さんが呼び止める。
振り返ると地下鉄の駅の明かりが、志雄さんも好きだと言っていたあのドイツ製の眼鏡のレンズを少し白く光らせていた。
「君、もう少し西條くんと話をするべきだよ、きっとね」
何か知っているんだ、この人は。
俺の知らない、志雄さんのことを、何か。
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