翌日の土曜日。
昼を過ぎた頃から、勢いのない雨がベランダの窓辺にシトシトと降りはじめた。
何となく晴れない俺の気分に見事にコーディネイトされた空模様だ。
もとより細くてコシのない俺の髪も湿気に敏感に反応してへたり気味。
首まわりが緩みかけたお気に入りのグレーのプリントTシャツと膝がでがちな古いデニムパンツに着替えると、いくら志雄さんが見立ててくれた眼鏡が“仕事できる風”でもその効果は形無しだと鏡の中の自分を見て思う。
それでもとりあえずパジャマ姿ではなくなった俺は、朝飯とも昼飯ともつかない半端な食事をおざなりに腹に仕舞ってから、昨日白石さんから預けられた包みを持って商店街へと足を運んだ。
天気のせいか時間帯のせいか商店街は人通りが少なく、開けている店も景気が悪そうに見える。
もっとも、商店街の端にある志雄さんとこの眼鏡屋は晴れていようが何時だろうが、決して商売繁盛しているようには見えないんだけど。
庇が張り出した狭い軒先で手持ちのビニール傘をたたんでから店の扉を開けると、いつものベルがちりんと響く。
軽く冷房が効いた店内の乾いた空気は少し雨に濡れた肌にはひんやりと感じられた。
「いらっしゃい」
色気のない蛍光灯の下、志雄さんの声がした。扉のベルに条件反射したような無機質なほどの素っ気ない挨拶だ。
それもそのはず、店先のユニフォームらしいエプロンをつけた志雄さんは何やら雑誌を読んでいて、こちらを向いてなかったのだから。
「こんにちは」
俺が挨拶をして、ようやく気づいてくれたらしい。
志雄さんは少し慌てたように読んでいた本をカウンターの下へとしまいこむと、いつもの古そうな黄銅色のフレームの眼鏡をかけ直しながらさっきよりはずっと柔らかい調子で声をかけてくれた。
「あ、井村さん。こないだはどうも……今日は眼鏡の調整ですか?」
志雄さんにまっさきに聞かれたのは眼鏡のことだった。あのパーティーのことも、白石さんのこともとりたてては話題にされなかった。
志雄さんとは、少し互いの距離が縮まっていたような気がしていた俺としてはちょっと残念だった半面、まるで変わらない志雄さんの様子にホッとしたような気持ちも感じたりして。
「うん、眼鏡もお願いしたいけど。その前に、これ」
俺がカウンターに白石さんから渡された生成り色の厚みのある封筒を置くと、志雄さんは不思議そうにそれを見た。
「昨日、仕事で白石さんに会ったんだ。それで、白石さんが志雄さんにって」
「白石さん、が?」
カウンター奥の椅子に座ったまま俺を見上げた志雄さんの、眼鏡の奥の黒目がちの眼が驚いたように少しだけ大きくなっていた。
そんな表情のまま、志雄さんは視線を俺と置かれた封筒の間を往復させてから、何だろう、と小さく独り言を零しながら封筒へと手を伸ばす。
糊付けされていない蓋を開いて志雄さんが取り出したのは銀色の筆箱に似たケース。
「これは……」
パチンと小さな音をたててそのケースを開けた志雄さんの唇から、呟きが漏れたのが聞こえた。
ケースの中身は、予想通りといえば予想通り。一つの眼鏡だった。
少し離れたところからでも見えるその楕円形をした金属製の小さいレンズ枠ですら、そのへんの安物とは違う雰囲気をまとっていることがわかるきれいなデザインだ。
「井村さん、この眼鏡のこと、白石さん、何かおっしゃってました?」
「いや、この荷物については、特に」
俺がそう答えると、志雄さんは眼鏡をケースから取り出してそのつるを広げて、じっくりと吟味するかのように見始めた。耳にかかる辺りが黒曜石に似た風合いのセルロイドで飾られたつや消し銀のつるが鈍い光を放つ。
「ひょっとして、それ。白石さんのブランドの眼鏡、なのかな」
俺が尋ねると、眼鏡を眺め回すことを中断して志雄さんがこちらを向いた。
「井村さん、知っていらしたんですか?」
「うん、白石さんが“エグザクトリー”のブランドで眼鏡の店を出すってことは」
昨日の夕食の席で聞いたことを、俺はかいつまんで志雄さんに話す。
話しながら、考える。志雄さんに白石さんが眼鏡を贈る経緯について。
志雄さんがこの店で、エグザクトリーの眼鏡を扱う?
それはないだろう。客層が合わないし、白石さん自身が新規出店する店の品物はその直営店でしか扱わないようなことを言っていた。
「眼鏡と、腕時計と……あと、ほら、ネクタイピンとかカフスみたいなメンズ小物で、そのお店でしか買えないようなものを扱うって」
「ええ、僕もが聞いたのも大体同じです」
俺の話に志雄さんがそんな風にうなずいたので、俺はちょこっと探りを入れてみた。
「志雄さんがその話を聞いたのって、あのパーティーのとき?」
詮索しているようで落ち着かない心持ちを紛らわせるかのように、つい手は下ろした自分の前髪へと行ってしまう。
そんな俺をカウンターから見上げながら、志雄さんは手にしていた眼鏡をそっとケースに戻して小さく首を振った。
「あの後、白石さんから電話をいただいて、お会いして」
そこまで話した志雄さんが、何かを思い出したようにまた丸いレンズの向こうの大きな眼をぱちぱちっとさせる。
「ああ、それででかけている間に井村さんがいらしたって、おじいちゃんに聞いたんだった。連絡さしあげないですみませんでした」
「いや、それはかまわないけれど」
俺の答えのあと、一呼吸をはさんで志雄さんが言った。
「白石さんに、一目惚れだって言われましたよ」
落ちつかなげな感じの、ややこもった早口で言われたそんな台詞。
聞こえたけれど、一瞬意味がわからなくて俺は思わず聞き返した。
いや、言葉の意味はわかっていた、けれど。その話の展開が理解できなかった。
「え? ひとめ、ぼれ?」
「すごい口説き文句ですよねぇ」
「口説き……?」
白石さん、そんなストレートな行動に出ていたのか?
俺の脳裏に昨日の白石さんの、いかにも余裕あるオトナといった顔がよぎる。
“君、もう少し西條くんと話をするべきだよ”
なんて言ってた白石さん、すでにそんな大胆なこと、志雄さんに?
俺が動揺しているのが見てとれたのだろうか。志雄さんは頬杖をついて苦笑にも似た表情でこちらを見ている。
「突然のことだったので僕もびっくりしましたけど」
「いや、そりゃ、びっくりすると思う……」
男に“一目惚れだ”なんて告白されたら、もうホントになんて反応していいのやら。
あの白石さんにそんなことを言われて、志雄さんがその場でどんなリアクションをしたのか俺にはどうにも想像できなかった。
「で、志雄さんはどう答えたわけ?」
「……ちょっと考えさせてください、と」
「はぁ?」
志雄さんの答えを聞いて、俺の口からは自分が思っていた以上に大げさな調子で呆れたような声が飛び出した。
「考えるも何も、白石さんは男じゃん……」
それも、永峰社長情報によればそのいわゆる“両刀”だって話だし。志雄さんは本気でそんな白石さんとつきあっちゃったりすることについて、考慮の余地があるのだろうか。
普通、速攻で断るよなぁ。
最初、この店で会ったときからちょっと変わったやつだとは思っていたけれど、まだまだ志雄さんにはミステリアスな部分がある。
思わずマジマジと志雄さんの顔を眺め下ろしていたら、俺を見上げていた志雄さんがふっと笑った。眼鏡の向こうの眼がいつか見たきれいな半月を思わせる形になる。
「井村さん、何か勘違いしてる」
「え?」
「僕、白石さんところの新しい店で働かないかって言われたんですよ」
「あー……」
志雄さんの答えにヘンな想像をしていた自分が途端に気恥ずかしくなった。
「店長は店長で別の人間をつけるから、技術スタッフのリーダーとしてぜひエグザクトリーに来てくれって」
「なんだ、そういうことかぁ……」
ほっとして、俺も笑う。思い違いをごまかすような、曖昧な笑い方で。
「あははっ。てっきり志雄さんがソッチの気があるのかと思っちゃったよ」
「ソッチ……?」
「いや、あのその。白石さんが男ともつきあえる人らしいって噂を聞いていたから……志雄さんって美人だし、その、なんていうか」
安堵感からついそんな風に口走った俺を見上げたまま、志雄さんは何も言わなかった。
いつのまにか、俺でも美人だと思ってしまうその顔から笑顔が消えていた。
俺のうすっぺらな笑い声はフェイドアウトして静かな店内に飲み込まれていく。
沈黙。
外から響く雨の音が少し大きくなったように感じた。
黙ったまま志雄さんはまたさっきケースに戻したばかりの眼鏡を手にして、そこへと視線を落とす。
「……そうですよね」
「志雄さん?」
「……何でもないです」
志雄さんは、数回その細かい作業に向いていそうな華奢な指先でパタパタと落ちつかなげに眼鏡のつるをいじってから、深くひとつ息を吐いた。
「よし、決めた」
「決めた、って」
「僕、白石さんのお店に勤めてみます」
「ええっ?!」
あまりに唐突な志雄さんの発言。
「こ、このお店はどうするのさ?」
「おじいちゃんもまだ元気ですから。それに、おじいちゃんにも実は以前から外で修行してこいって言われていたんです」
「でも……」
ああ、俺、何でこんなにあせっているんだろう。確かに突然の話だけど俺がどうこう言うような話じゃないはずなのに。
「僕も、いいかげんずっとここにいちゃいけないなとは思っていたんですけど」
志雄さんは俺のほうを見ることもなく、ただ手元の眼鏡のほうを向いたまま淡々とした口調で言った。
確かに、職人とか自営業の世界には丁稚奉公という感覚があるのはわかるけど。
俺は気の利いた台詞を見つけられないまま。こちらを向いてくれなくなった志雄さんを一方的に見ていた。
雨の音。商店街を通過していく車の音。店の横を過ぎていく人の気配。
俺たちの間だけがやけに静かで。
じりじりと高まっていく俺の正体不明の緊張感を緩めたのは、店の出入り口にかけられた例のベルの音だった。
「おお、井村くんじゃないか!」
入ってきたのは西條のじいさん。永峰社長に勝るとも劣らない傍若無人なじいさんの勢いが、今ほどありがたく感じられたことはない。
「おじいちゃん、おかえり」
「どうも、お邪魔しています」
じいさんは、左手に何やら紙包みをぶらさげてこちらへとやってきた。
「花明堂のご主人から水まんじゅうをいただいたんだが、井村くんもどうかね?」
花明堂というのは、この眼鏡屋の三軒隣くらいにある小さな和菓子屋だ。
別に甘いものが嫌いではない、いやどちらかというと好きな俺にとってはじいさんのお誘いは決して断る理由のあるものではなかったのだが。
「おじいちゃん」
じいさんの招きを制した志雄さんの声には、じいさんをも黙らせる冷えた力がこもっていた。
「いや、無理は言わないが……」
途端にしゃべりの歯切れも悪くなったじいさんをちらっと見てから志雄さんはようやくこちらを向いてくれた。
半月のカタチ、笑ったような目。でも。
「すみませんね、井村さん。すっかり長くお引止めしちゃって」
よそよそしい言葉。
ヘタすれば初めてこの店に足を踏み入れたときよりもさらにずっと遠くに志雄さんがいるような。
「いや、大丈夫だから」
何とか辻褄があいそうな返事をしながら、俺は内心では泣きたいような気分になっていた。
俺、何か志雄さんの機嫌を損ねるようなことを言ったろうか。
白石さんがバイだったことを軽々しく口にしたのはあまり印象がよくなかったかもしれない。でも、それならそれでその場で「そういう言い方は嫌いだ」と言ってくれればよかったのに。
自分の失態を振り返る気持ちが反転して、俺の中にも訳のわからないイライラ感が募ってきた。
状況が見えない。話が通じていない。志雄さんが何を考えているのかわからない。
「じゃ、俺、今日はこれで」
俺はカウンターから離れ、じいさんの横をすり抜けるようにして店の出入り口へと向った。
「おう、また寄ってくれ」
背中から聞こえてきたのはじいさんの声だけ。
振り返って、志雄さんがこちらを見ているのか見ていないのか確認したかったけど。
俺はただ足元を見ながら、店先に置いておいた自分のビニール傘を手にすると雨の商店街へと早足で出ていった。
西條眼鏡店から離れてから、ようやく俺は気がついた。
「志雄さん、結局、眼鏡の調整してくれなかったじゃん……」
恨みがましく呟いた声は、雨の中へと溶けていく。
“今日は眼鏡の調整ですか?”って真っ先に聞いてきたのは志雄さんだったのに。
舌打ちしたくなるような気分も歩いているうちにだんだんと収まってきて、自分の部屋の玄関を開ける頃には、俺はむしろ落ち込んでいた。
「志雄さん……」
そもそも俺は、何で彼にそんなこだわっているのだろう?
頭の片隅にはそんな疑問もよぎったが、それよりもやはりどうやら何かまずいことをしてしまったらしいという後悔の念のほうに俺は意識を奪われていた。
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