グシャグシャとした気分のままで日曜日もすごし、気疲れを癒せないまま月曜日を迎えた俺は、少々の残業を終えてから一人で例の山之内さんのお店「ダイニング・HAKONIWA」のオープニングへと足を運んでいた。
オープニングと言ってもパーティーなどをするわけでもなく、招待状を受け取った人が個々に適当な時間に店を訪れる……そんな感じの何気ない初日だった。
それでも店のあちこちには「祝・開店」の花が飾られ、やや遅い時間になってお客も気心のしれたメンバーが集まっているのか、店内はすごく寛いだムードになっている。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
居酒屋にありがちな叫ぶような調子ではなく、スタッフとすれ違う度にそっと丁寧に告げられる挨拶。何となく店長である山之内さんのキャラクターを連想させる雰囲気だ。
出迎えのスタッフの人は、最初、俺を店内中央の大テーブルへと案内してくれようとしたが、俺は頼んで隅の方の二人がけの席につかせてもらった。
誰かが時折あの照明を操作していて、渾身の仕掛けである壁面の絵が現れたり消えたりする。そのたびに客の間から歓声ともどよめきともしれない声がするのが、俺にはちょっと嬉しい。
「ようこそ、井村さん」
談笑のさざめきの中、やけに落ち着きはらって聞こえるこのバリトンの声はあの山之内さん。
「よかったです。無事にオープンできて」
「おかげさまで。お花までありがとうございました」
あそこに飾らせていただきました、と山之内さんが指し示した先は、ヴィーナスが現れる壁面近くの飾り棚。会社の名前の札を立てた花が並べられていた。
俺の会社の花籠の隣には一際大きなナガミネ・プランニングの胡蝶蘭の鉢。さらにその隣はエグザクトリーの白石さんの名前で、シックなバラのアレンジメントが飾ってある。誰が並べたのか知らないが、俺のココロをチクチクと複雑に刺激する組み合わせだ。
「永峰社長や白石さんもいらしてるんですか?」
「社長は開店時間にいらしてスピーチされた後、次があるご様子で……もうお帰りになりました。白石さんについてはお花を頂戴した際に、今日はいらっしゃれないとのこと承っています」
山之内さんの説明に、安堵で自分の肩の力が抜けるのがわかった。
「井村さんは、今日はお一人ですか」
「ええ」
「それでは、何か食べるものをお持ちしますので少々お待ちください」
さらに「お飲み物は?」と尋ねられて俺がビールをお願いすると、山之内さんはご丁寧にも「かしこまりました」と会釈をしてから、足早に厨房の方へ向って行った。
その背の高い後姿を見ながら、志雄さんの話し方や仕草をもう一段階洗練すると山之内さんみたいになるのかなぁなどと漠然と思う。
白石さんの店に勤めたら、志雄さんもあんな雰囲気になったりして。
そんな想像をして楽しくなったのも一瞬、続けて思い出したのは土曜日の冷めた志雄さんの視線。
彼に距離を置かれてしまったことをひしひしと感じたあの時の。
取り残されたような感覚をひきずったままの俺は、このダイニングの楽しそうな人たちの中で、明らかに一人浮いているような気がしなくもない。
被害妄想っぽいよなぁと思いながらも、自嘲的な俺の視線は東側の壁前に置かれた淡いオレンジ色とクリーム色のバラたちへと行ってしまった。
また脳裏に交互に浮かぶ、白石さんの顔と志雄さんの顔。
“君、もう少し西條くんと話をするべきだよ”
“僕、白石さんのお店に勤めてみます”
うう、昨日も今日も何度二人の台詞が頭の中でリフレインしていることか。
単に俺は、志雄さんともう少し気軽に話せる友達になりたいと考えているだけのはずなのに、この焦燥感は一体何?
「はぁ〜……」
「お待たせしました」
ちょうど盛大に溜息をついたところに山之内さんが戻ってきた。
「お疲れがとれていないようですね」
「あ、いや、大丈夫です。ご心配なく」
めでたい開店日だというのに辛気くさい様子の俺の前に、山之内さんは手際よくビールのグラスと色々な料理をのせた白い大皿、螺鈿で飾られた黒塗りの箸を並べていく。
「こちらから柚子胡椒風味のスズキのカルパッチョ、有機野菜とアンチョビソースの温サラダ、フルーツトマトのマリネ、ペンネとアボガドのペコリーノチーズ和え、生麩のスパイシーフリット、ヒヨコマメのパテ……」
山之内さんの解説を聞きながらずらりと並べられた鮮やかな品々を見て、この店が一応“ベジタリアン”をテーマにしていたことを今更ながらに思い出した。
「あー、肉を出さないのって何か結果的にタイムリーでしたよねぇ」
狂牛病とか鳥インフルエンザとか、と俺が挙げてみせると、山之内さんはその切れ長の眼を少し細めて上品なホテルマンをイメージさせる緩やかな笑顔を作る。
「そうですね。もっとも本当の菜食主義の人からすれば邪道なメニューらしいのですが」
そう言って山之内さんの表情が少し曇った。なんかこの人の感情が顔に出たのを初めて見たぞ。
「何かあったんですか?」
「ええ。まあ、ここだけの話ですが」
開店早々、客に文句を言われたのだという。
「厳密なベジタリアンの方は、魚もダメ、卵・乳製品もダメ、そういうものでとったダシもダメなのだそうで。“このメニューでベジタリアンってのは詐欺じゃないの?”と、ご意見いただきました」
「うっわー、ムカつく」
別に自分が怒られたわけではないが、こういう話を聞くとつい俺の眉間には皺が寄ってしまう。
「でも、別に『詐欺だ』と賠償金請求されたり告訴されたりしたわけじゃありませんから」
文句を言われた張本人の山之内さんが至極あっさりとしているのに対し、俺の方がその顔も見ぬ客に反感を露にしてしまう。
「それにしても、ちょっと言いがかりっぽいよ。ストレスが溜まってる客だったんじゃねーんかな」
ビールを片手に俺が言うと、山之内さんは直立不動の姿勢のまま“どうでしょう?”といでもいうようにわずかに首を傾けた。
「でも、直接こちらに文句を言ってくださるお客様はありがたいんですよ」
特にこういう客商売では、と山之内さんは客席に静かに一重の眼を向けて話を続ける。
「言ってもらえれば、あるいは態度で示していただければこちらは原因を考え、対策を取ることができますから。笑顔で店を出て、ヨソで悪口を言われたりする方がよほど困ります」
「うん、それはわかるかも……」
頷きながら俺は、山之内さんの話をどうしても頭から離れない一昨日の志雄さんのことに結び付けていた。
だいぶシチュエーションは違うけれど、確かにそうだ。
相手が“不機嫌”ということがわかっただけでもそれはヒントになるよな。落ち着いて考えなきゃいけない。なぜ、相手がそんな気持ちになったのかを。
当たり前のことと言えば当たり前のことなのに、土曜日の夜も日曜日も反省してみればその肝心のことに意識を働かせていなかった気がする。
まずは何で志雄さんの気を悪くしてしまったのか、本当のところを確かめなくちゃいけない。ちょっと勇気がいるけれど。
「そうか。そうだよ。うん」
「はい?」
俺はいつのまにか独り言を口走っていたらしかった。一人暮らしの悪い癖だ。俺は慌ててごまかすように山之内さんに手をふり、照れ隠しに残ったビールを一気にあおってから言った。
「実は今、ちょっと考え事があって。山之内さんの話がいいヒントになりました」
「私がエラそうに語る話ではなかった気もしますが……」
「さすが店長さんだなーって感心しちゃいましたよ」
俺の言葉に、山之内さんが重々しく目を瞑って答える。
「まだまだ未熟です」
「そんなそんな」
「だって、さっき話したお客様につきましても……」
山之内さんは姿勢を崩して腰をかがめると、一段と声を落として俺に耳打ちした。
「心の中ではきちんと塩をまいていましたから」
大真面目な口調でそんなことをささやかれ、俺は思わずふきだしてしまった。
「ぶっ……や、山之内さん、面白すぎる」
「そうでしょうか」
また背筋をびしっと伸ばした姿勢に戻ると山之内さんは「ビールのおかわりをお持ちしますね」と席を離れていった。
頭の中が整理できて、ちょっと笑わせてもらって、さらに一つ深呼吸。
気づけばこれだけの時間で、喉の奥に魚の小骨がささっているようなジリジリとしたイヤな気分、俺の胃の辺りをグッと圧迫していた何かはだいぶ軽くなっていた。
おかげでここ3日ほどの内でようやくはっきりとした空腹をおぼえて、俺は目の前のごちそうに唾を飲みつつ箸をとりあげた。
空腹ということを差し引いても、久々に直球の美味い食事だった。
「ホントにおいしいです! この店の仕事やらせてもらってよかったな」
二杯目のビールを持ってきてくれた山之内さんに本心からそう伝えると、山之内さんは彼らしいさりげない所作で「恐れ入ります」と会釈してくれる。
「そう言っていただけると嬉しいです。今日はサービスさせていただきますので、心ゆくまで召し上がっていってください」
結局、店長のその言葉に甘えて、図々しくも俺はその夜はそこで満腹になるまで食べさせてもらったのだった。
さらに店を出る際には「オープン記念です、どうぞ」と見送りのウェイトレスさんに、マドレーヌの詰め合わせまでもらってしまった。
帰り道。電車を下りて、いつもの商店街へと差し掛かる。
コンビニもなく静まりかえった通りを歩きながら、手にした小さな黄緑色の紙袋を眺めてまた志雄さんのことを思い出す。
このお菓子、土曜日にまた志雄さんところに行くときのお土産にしよう。
「よし」
“君、もう少し西條くんと話をするべきだよ”
少し酔っ払い気味の頭の中に再び響いた白石さんの声に、俺はむしろ挑戦的な心持ちさえおぼえていた。
そうだ、きちんと話をしてこよう。
次の土曜日こそ、俺は決して逃げたりしない。
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