その翌日から多少は落ち着いた気分で、俺は通常の細々した仕事に励んでいた。
仕事と仕事の合間の小さな空き時間に、ふと来る土曜日のことを考えたりはしたけれど。きっと何とかできる、と思えるようになっている。
ところが。
木曜日の夜だった。
わりと早い時間に自宅に帰ってきた俺を、留守番電話のランプの急かすような点滅が迎えた。
荷物を適当に置き、背広の上着をとりあえずベッドの上に放り出して、片手で窮屈なネクタイの結び目を緩めながら、後ろ手に電話のボタンを押す。
ピーッという軽い電子音に引き続いて、再生されたメッセージ。
「井村さん? 西條眼鏡店……西條です。こないだはすみませんでした」
志雄さんの声に、俺は思わず電話の方向へ向き直った。
「もしよかったら、いつでもご都合のよいときにいらしていただければと思っています。お待ちしています」
ピピッ。メッセージ終了の電子音が鳴った。
途端に静まり返った部屋の中で、俺は自分の心臓が脈打っている音が聞こえるような気がした。訳わからない緊張感と高揚感にドキドキしていた。
もう一度、留守番電話の再生ボタンを押す。
「井村さん? 西條眼鏡店……西條です……」
決して音質のよい録音ではないけれど、志雄さんの声にちょっと自信なげな感じをおぼえた。
“眼鏡の調整をしにきてください”って言うときは、もう少し穏やかながら有無を言わさない調子があるような気がする。
時計を見ると夜の8時過ぎ。眼鏡店の閉店時間はすぎているけれど。
こんなメッセージを聞いてしまって、志雄さんに会いたいという気持ちが俺の中でどうしようもなくこみ上げてきた。
会って、話しがしたい。きちんと。
でも、突然にそんなことを言っても迷惑に思われるだろうか?
先週の土曜日の、志雄さんの不機嫌そうな表情を思い出すとまた否応なしの不安に駆られた。
だからと言って、どうしても次の土曜日が来るのを待っていられる心地じゃなかった。
どうしよう。どうすればいい。電話の前でしばらく固まっていた俺だったが。
「ええい!」
傍から見たら何をイラついているのかと思われそうな手つきで、俺は乱暴に片手でかけていた愛用の眼鏡をはずした。
そのまま、片手の指先で蝶番に不自然な方向へと濃青色の金属のつるを倒していく。
志雄さんが丁寧にメンテナンスしてくれた眼鏡にそんな仕打ちをしていることに少し胸が痛んだけれど、それ以上に俺は焦っていたのだ。
じりじりと力をいれると、ふっとつるがヘンな方向に曲がったまま戻らなくなった。
「よし」
俺は自分自身を落ち着かせようと、ふーっとひとつ息を吐いてから壊した眼鏡を電話の横に置き、床に置いたままにしていた仕事カバンから携帯電話を取り出すと、西條眼鏡店の電話番号を呼び出した。
「はい、西條です」
「……もしもし。井村です」
電話の向こうで、志雄さんが驚いている様子が目に浮かぶような気がした。
「井村さん?」
「あ、あのう。今日は電話をありがとう」
俺は、壊したばかりの眼鏡を電話機の脇からとりあげながら話しを続けた。
「それで、実は……今日、眼鏡を壊しちゃったんだ」
「それは……」
「明日も仕事で要るんで……無理を言って悪いんだけど、今から修理お願いできるかな……?」
我ながら酷い理由だ。
だけど、これしか思い浮かばなかった。志雄さんに今日会ってもらえる方法が。
案の定、志雄さんは親切な口調で“今からすぐに来てください”と言ってくれた。
「すみませんけど、また裏口からお願いしますね」
「うん、わかった。本当にごめん。すぐ行くから」
そう言って電話を切って、俺は自分の眼鏡を今更そっと手に持った。
そして財布をズボンの後ろポケットにねじこむと、すぐさま玄関を出た。
手すりにつかまりながら急な階段を下りる。勢いあまって眼鏡を壊してみたが、やはり自分の視力では眼鏡なしだと暗い道はちょっと足元が心もとない。
ついでに、スペアの眼鏡のことも相談してこようと思いながら商店街の方へと歩いて行った。
顔に触る夜風が温い。深い呼吸を繰り返すと肺の中まで湿っぽくなってくる感じだ。
「そういえば、山之内さんところのお菓子持ってくるの忘れた……」
もう西條眼鏡店の看板が見えるようなところでそのことに気づいたが、俺は引き返さずに店の裏口の方へとまわってしばらくぶりに見る気がする小さな扉の前に立った。
そっとノックをする。
「はーい……」
家の奥から、近づいてくる声と気配。ドア越しに木の廊下を踏む足音が聞こえてきた。
「井村さん?」
ガチャッと音をたてて開いた玄関先。
街灯の光がようやく届く暗さの中、現れた志雄さんは店先での黒いエプロンをはずして生成りのシャツとジーンズという格好。
俺は安心と緊張が入り混じった落ち着かない心地を覚えながら言った。
「こんばんは」
一言伝えると、ようやく頭と口が動くようになってくる。
「……突然にごめん。壊した自分が悪いんだけど……」
「物は壊れることがあって当然ですから」
志雄さんの優しい言葉に余計罪悪感が煽られた。どうぞ、と促されるままに西條家に上がりこみながら、心の中で別の意味で“ごめん”と志雄さんと自分の眼鏡に謝る。
前にお邪魔したときのパターンだとここらで物見高いじいさんが顔を出してくるのだが、今日はやけに静かだった。
「……おじいさんは?」
以前に夕食をごちそうになった居間に通されて、勧められるままに座布団の上に座りながら志雄さんに尋ねると、
「今日と明日、町内会のお達者倶楽部恒例の温泉旅行だそうです」
お留守らしい。道理で静かなはずだ。
「で、井村さん。眼鏡はどんな具合ですか?」
横に座った志雄さんに俺は手にしていた自分の唯一の眼鏡を差し出した。
志雄さんはそれを手にとってしげしげと眺めた。志雄さんのことだから、見ただけで俺が何をしたのかわかってしまうのかもしれない。
「だいぶ……曲がりましたね」
「う、うん。つい」
本当のことが本当のことであるだけに、壊した状況について細かいシチュエーションを伝えられない俺。志雄さんにそれ以上のことを聞かれなかったのが救いだった。
「じゃ、直してきます。これくらいなら戻せるでしょう」
パタンと音を立てて襖の向こうに消えた志雄さんを見送ってから、俺は思わず小さな木のちゃぶ台の上に身体を突っ伏した。
後は、志雄さんが工房から戻ってきたら。
「何て、話し出せばいいのかな……」
人の家の居間で脱力した姿勢で独り言を呟くと我ながら間抜けな気分がして、あらためて身体を起こした。そのまま次にそこの襖が開いた後のことを考えているうちに、時間が過ぎていく。
短いような長いような間の後。廊下からハタハタと歩く足音が近づいてきて俺はキュッとちゃぶ台の下で拳を握った。
「お待たせしました」
志雄さんの片手には、いつもの眼鏡を載せるためらしい四角いお盆のような布張りのケース。その中に、災難にあった俺の眼鏡がきれいに修復されているのが見えた。
「失礼します」
元通りになったつるを広げて、眼鏡を手にとった志雄さんが俺の正面に膝をつく。
志雄さんはその俺の顔を覗き込むような感じのまま、そっと俺の鼻すじに眼鏡の中央を置いて、つるを両耳にかけた。
最近ちょっと伸び気味だった俺の髪の毛がつるにひっかかっているのを、スッスッと志雄さんの細長い指先が梳くようにして解いていく。
その感触があまりに柔らかくて、俺は一瞬呼吸を飲み込んだ。
「これで、大丈夫ですね」
眼鏡を取り戻してクリアになった俺の視界に、比較的至近距離で志雄さんの笑顔が見える。志雄さんの眼鏡越しの眼がきれいな半月型になっていた。
やっぱり、きれいな眼だなと思った。
そのままジッと少し見上げるように志雄さんを見ていると、その笑みにふっと陰りがさして微苦笑とでもいうような表情になった。
「井村さん」
そんな表情で名前を呼ばれたら、俺は何て返事をすればいいんだろう。
「こないだは、すみませんでした」
志雄さんの長めの睫毛がふわりと揺れて、視線がやや下向きになる。
「いや、その……」
俺はあらためて、先週の土曜日のことを思い返した。志雄さんが何を言って、自分が何を言ったのか。志雄さんがどんな表情をして、俺はどんな風に感じたのか。
ところどころが曖昧だったけど、できるかぎり考えて、今、何を伝えるべきなのか慎重に言葉を選ぼうとした。
「気にはしていた。正直に言えば」
そう言ったあと、またすぐに言葉が続けられなかった。
志雄さんも何も言わなかった。
二人でちゃぶ台の横、座布団の上でしばしの沈黙を分かち合う。
俺は唾をゴクリと飲んでからようやく言葉を続けた。
「……俺のほうが志雄さんに謝らなきゃいけないことがあるんじゃないかと思って」
「え?」
俺が続けた話に、意外そうに志雄さんが伏目になっていた視線を上げた。
「俺、何か志雄さんに悪いことしたかな」
あのとき怒ったようだった理由を。
きちんと教えてほしい。
俺がそう伝えると志雄さんは泣きそうに見えるくらいに沈んだ面持ちになった。
「俺の言ったこととか、したこととかでイヤなことがあったらちゃんと言ってほしい。自分で気づかずに志雄さんの気分悪くすることしてるなんて、そんなの俺がイヤなんだ」
志雄さんはまだ口を開いてくれなかった。何か言う前に涙を零されそうな表情に内心あせりが募る。
「俺の勝手な思い込みかもしれないけど。志雄さんはもう俺の大事な」
「僕も、井村さんは」
突然に、こちらにたたみかけるように志雄さんが言った。思い詰めたような、何かがギュッと押し込められたような、そんな調子で。
「井村さんは……」
俺の名前を繰り返した志雄さんの声は少し弱くなっていた。
「井村さんは、大事な友達だから」
だから……とさらに小さな声で、独り言のように志雄さんが呟くのが聞こえた。
「だから?」
志雄さんの話を促すように小さな声で聞き返すと、志雄さんはまた静かな暗さのある微笑を作った。
「井村さんの言葉に、勝手に悲しくなっちゃって」
「俺、何を言ったっけ……」
自問自答するようにほんの少し首をひねりつつ、俺は真剣に考える。
そして、一つ。ぼんやりと心あたりが浮かび上がってきたが、志雄さんにどう尋ねればいいのかわからなかった。
ただ、黙ったまま、志雄さんの半月型になりきらない眼をじっと見るしかできない。
「気にしないでください。僕の方がおかしいんです」
声だけは明るそうに、どこか自嘲的に志雄さんは言う。
「井村さんが普通なんです。わかっていますから」
「ね、ちょっと待って」
俺は志雄さんの一方的な物言いを小さく片手を上げて制止した。
その言葉の中に何かが見えているんだけど、眼鏡がないときみたいにピントがあわせられなかった。
もやもやとしたモノに向って必死にすがるような気分で、俺は志雄さんに尋ねる。
「ごめん。間違ってたらごめん。志雄さんにイヤな思いをさせたのって、ひょっとして白石さんに対して……」
俺は差別発言めいたことを言った。同性愛とか、そういうことに対して。
そのこと、なのか?
「ん……白石さんのことはこの際、関係ないんです」
俺がようやく辿りついた推察を志雄さんはごくあっさりと否定した。
「じゃあ……」
「僕が、悲しくなってしまったのは」
僕が。僕自身が。
「ヘンですよね。男が男の人を好きになるなんて」
まったく、微塵にも考えていなかった理由だった。
俺は志雄さんの重大な告白に、ふがいなく何も言えないままで。
ただ、先週の土曜日に自分が言ったひどく軽薄な言動が、脳裏で異様な質量の後悔と共に再生される。
―― てっきり志雄さんがソッチの気があるのかと思っちゃったよ。
志雄さんが、本当にそうなんだとしたら、こんなことは決して言わなかったのに。
|
|