「志雄さんって、そうなの?」
 「多分。僕は男の人しか好きになったことがなかったから」
 駄目押しのような一言。
 志雄さんはそれ以上何も言わずに、俺を見ていた。
 緊張しているというのも違うし、悲しそうというのとも違う、こう何ともやるせなさげな表情で。
 そんな志雄さんを前にして、俺はといえば、もう頭の中でいろいろなことが浮かんでは消えて、一体どの気持ちを声に出していいのかすっかりわからなくなっていた。
 先だっての軽薄な発言について弁解するべき?
 たとえ、そうだとしても俺にとって志雄さんは友達だと伝えるべき?
 そんな重要なことを伝えてくれた信頼に感謝すべき?
 それとも。
 何かを話そうと口を開きかけても、そこで全てが止まってしまう。
 「うーん……何て言ったらいいんだ」
 無駄な時間を費やして、結局、俺が声にしていたのは、そんなしょうもない呟きだった。それもせめて下でも向けばいいのに、大真面目に志雄さんの方を向いたままで。
 志雄さんから見たらさぞかし間抜けな顔をしていたんだろう、彼が苦笑混じりに言う。
 「こんなこと突然言われたって、井村さんも困りますよね」
 いや、困るというのとは違う。俺は慌ててそう言った。
 「その、何から言えばいいのかわからなくなっちゃって」
 ちょっと考えさせて、と頼むと志雄さんは黙って待ってくれた。俺のまとまりのつかない思考をさらにあせらせるように、壁の時計が9つ低い古風な音を響かせた。
 時計のぼぉーん、という最後の音の残響が消える頃になって、俺はようやく口を開くことができた。
 「最初に、謝らせてほしい。俺、確かにスゴい無神経なこと言った」
 志雄さんが同性愛者だからって、差別発言をナシにしてっていうのは冷静に考えて全然すじが通っていない気がするけれど、やっぱりこれを一番初めに言っておきたかった。
 「本当に悪かった」
 「気にしないでください」
 「いや、すごく卑怯な言い方をした。ごめん。今さら謝ったところで本当にどうしようもないんだけど」
 こうやって話しているうちに、あの時の感情の記憶が甦ってきた。
―― 白石さんが男ともつきあえる人らしいって噂を聞いていたから……
 そう、何かひどくあせっていた。あの時の俺は。
 何でだ? 何をそんなに?
 つきつめて考えてみて、今まで直視してこなかった感情が見え隠れしているのにようやく気づく。
 「あのさ、一つ聞いていい?」
 「……何でしょう」
 ちょっと警戒するような硬さを帯びた志雄さんの顔。俺の方も俄然緊張してしまうけれど思い切って尋ねてみた。
 「志雄さん、白石さんのこと、好き……なの?」
 そういう意味で、と付け加えると、声はないままに志雄さんの口元が「え?」という形になる。
 「それならそれでいいんだけど、だけど、気になってて」
 俺がつっかえながらもそう続けると、今度は志雄さんの方がちょっと言葉を選ぶような素振りをしながら、話を続けた。
 「白石さんは、色々な面で見習いたい人だとは思っていますけど」
 「うん」
 「特別な関係になりたい、とかそういうのじゃないです」
 志雄さんのそんな答えに奇妙に高まっていた脈拍がすーっと収まっていく感じがした。あるいは心の中で何かがふわ〜っと緩んだような。
 「そう、なんだ」
 俺がほっと安堵に似た息をつくと、志雄さんは今にもクスッと小さく笑いそうな気配を含んだ穏やかな調子で話しを続けた。
 「井村さんは、何でそんなに白石さんのこと気にするんですか?」
 「別に……気にしてるってわけじゃなくて」
 とりあえずそれだけ口にして、また言葉につまった。
 せっかく落ち着いたばかりの心臓が、またせわしなくざわめきだす。
 “井村君はなんでそんなに西條くんのことを気にするの?”
 いつか白石さんに投げかけられた問いによく似た、不意打ちの志雄さんの質問。

 そう、俺が気にしていたのは志雄さんのことで。

 そして、志雄さんのことが気になるから、白石さんのことが気になって。
 ひっかかりっぱなしの二つの名前を並べればあっさりとそういう結論にたどり着く。
 だけど。
 「ううー、どう説明したらいいんだろう」
 俺は必死で宿題を忘れた言い訳を考えている子どもみたいに、声に出して自問するしかない。
 志雄さんのあんなカミングアウトを聞いた直後じゃ、いよいよ言えないじゃないか。
 “気になってるのは志雄さんの方だ”なんて。
 だって、俺は、ホモじゃないのに!
 “気になってる”なんてこういう場面で言ったらそれって“好きだ”って告白してるも同然のような気がした。
 確かに志雄さんのことは嫌いじゃないんだ。好き、といえば好きなのかもしれない。
 好きなのかもしれないけれど、恋愛とかそういうんじゃない。
 「うーん、白石さんが気になるというより、何て言うか、志雄さんが……」
 黙ったままじゃ余計な誤解を生みそうで、おれはひどくぎこちなく言葉を探し回りながら訥々と話しを続けるしかなかった。
 「志雄さんが、ね」
 「僕が?」

 「志雄さんが……よくわからないんだけど、気になってて!」

 結局、俺がそう伝えると志雄さんの眼が少し見開いたようになって、まるでめずらしい奇妙な生き物でも見つけたかのような表情になった。
 「気になります……か」
 「心配っていうか、興味があるっていうか、次に何をするのか予想がつかないっていうか」
 「はぁ……」
 あー、何か俺、志雄さんに呆れられている気がしてきたぞ。
 自分の感情と思考に収集つけられない苛立ちと情けなさに、俺が口をつぐんで古ぼけた西條家の畳に眼を落としていると。
 「井村さん、僕の話、聞いてました?」
 小言を言わんばかりの調子でたずねられて、俺は顔を上げた。
 「聞いてたって、志雄さんが」
 ゲイとかホモという単語はちょっと生々しくてすぐに俺は口にできなかったが、志雄さんは上手に会話を繋いでくれる。
 「ええ、男が好きだって」
 「う、うん」
 「で、そういうこと言っちゃうんですか」
 井村さんはノンケなんでしょ、と確認されて俺はすぐさまうなづく。
 「それこそ気になる人から、“気になる”なんて思わせぶりなことを聞かされる方の身にもなってくださいよ」
 ちゃぶ台に肘をつき、頬杖にしてこちらを見やる志雄さんの口ぶりは、赤ちょうちんで愚痴をこぼす酔っ払い親父のそれにむしろ近かった。
 しかし、その愚痴の中身は。
 「志雄さん、それって、つまり」 
 志雄さんって、俺のこと、気にしてたの?
 「……あー、もう。言っちゃった」
 志雄さんが頬杖から頭を抱えるような姿勢になった。いつもの店頭での落ち着きはらった態度からはかけ離れた様子で。
 「何で、井村さんにはこう……用心がきかないんだろう」
 「用心?」
 「そうです、用心です」
 そう言うと、志雄さんは改めて頬杖の姿勢を取り直すとしばらく黙ったまま、俺から90度ずれた砂壁の方を向いていた。俺も何も言えず、そのままじっとしていた。
 「井村さん」
 「何?」
 「パーティーに誘ってくれたじゃないですか」
 「誘った、けど」
 「あの時、僕、半年ぶりに電車に乗ったんですよ」
 その前はおじいちゃんと眼鏡関係の展示会に行ったときだったかな、と付け加えながら志雄さんはまたこちらを向いた。
 「その前に井村さんがうちに来て、ご飯一緒に食べたでしょう」
 「この眼鏡を作ってもらったときだよね」
 俺が今日壊してさっき修理してもらったばかりの深い青のフレームに触れると、志雄さんの眼がゆるやかに半月の形へと変化する。
 「おじいちゃん以外の人と食事したのが5年ぶりくらい」
 志雄さんが言った。
 「僕は、言わば体のいい“引きこもり”だったもので」
 自分が同性愛者だと気づいてから、人と会うのが怖くなった、と志雄さんは淡々と話した。
 「高校2年の頃からかな。ホント、いい歳して他人と気軽に話もできなくなっちゃって」
 俺は志雄さんのそんな自嘲的な話し方に、思わずムキになって反論した。
 「でも! 志雄さんは、あれだけ眼鏡の仕事できるじゃないか」
 「仕事以外できないんです!」
 ほとんど言い合いのような強い語調ですぐさま反応してきた志雄さんは、怒ったかのように眉間にしわが寄っていたけど、眼はむしろ泣きそうに見えて、俺にはむしろ精一杯意地を張っているような痛々しさが感じられた。
 「……仕事以外で、人と話すのが本当に怖かったんですよ、これでも」
 志雄さんのきれいな顔にふっと影がさす。
 「中学くらいから、ぼんやりと自分が同性しか好きになれないことを自覚しはじめて。その頃はゲイという生き方があることをよく知らなかったんですよね」
 自分はおかしいと思った。だんだん友達と普通に話せなくなった。
 高校に進学してからは、ほとんど一人ですごしていたのだけれど。
 「それなのに、ある同級生に本気の片思いをしました」
 「それで……?」
 「隠してたつもりだったのですけど、何となく態度に出ていたんでしょうね。ずいぶんからかわれましたよ」

―― 西條、ホモなんじゃねーの?
―― 顔つきとかもソレっぽくね? 女装したら似合うぜ、きっと。
―― シオちゃ〜ん、今度ケツ貸してー?

 「すると、片思いの相手が『ふざけんな』ってかばってくれるわけですよ。いたたまれないでしょう?」
 そんなところで、そんな風に同意を求められても、俺は素直に頷けなかった。
 「それで、その人は……?」
 「高校2年のときに転校してしまいました。親御さんの転勤だか何だかで」
 それ以降、学校に行く気が失せてさぼりがちになったと志雄さんは言った。卒業も出席日数ギリギリだったとか。卒業式も休んであのじいさんに怒られたとか。
 「そんなわけで、同年代の同性と話すのがどうも苦手だったんです。幸い、この店のお客様はそういう人がいなかったんで、よかったんですけど……」
 そこで、志雄さんの眼があらためてじっと俺を見る。
 「ですからね、井村さんが店に来たときは身構えましたよ」
 そう言われて、俺は初めて西條眼鏡店に足を踏み入れた日のことを思い出した。
 志雄さんは無愛想で、眼鏡のことには自信満々で小うるさくて。こんな店二度と来ないと思ったんだった。
 あの時の客商売とも思えない物言いは、志雄さんなりの精一杯の防御策だったのか。
 「俺には、腕はいいけど無愛想な店員としか思えなかったけどなぁ」
 「それで済ませておけばよかったんですよね」
 どうしてそれができなかったんだろう、と。
 志雄さんの薄い唇が、そっと呟きをこぼしながら小さく動いたのがわかった。
 「今でも、おぼえているんです。井村さんにスーパーで挨拶されたときのこと」
 言われて俺の記憶も呼び起こされてくる。
 そうだ。あのエラそーな昼間の眼鏡屋が、夕暮れ時のスーパーで主婦よろしく野菜売り場のコーナーでナスだったかなんか買っていた光景が珍妙に思えたんだった。
 「じゃあ何で? 志雄さん、何であのとき俺を呼んでくれたの?」
 「何ででしょう」
 言いながら、志雄さんは俺の眼をじっと覗き込んできた。
 それだけでなんかドキドキさせられる。
 だから、俺はホモじゃない、はずなんだけどな。
 「その眼鏡のせいですかね」
 何だ、俺じゃなくて眼鏡を見ていたのか。心臓に悪いよ、メガネ屋さん。
 「井村さんがその眼鏡をかけているのを見たかったのかも。いや、違うか」
 志雄さんの視界の焦点が変わったのが何となくわかった。人の視線の力ってこんなに強いんだと気づかされる。
 志雄さんは、今度こそ。俺の顔をじぃっと見つめていた。
 「井村さんが、喜んでいる顔を見たかったんだと思います」
 「俺が?」
 「井村さん、思っていることスゴく顔にでるでしょう。自覚してるかどうかは知りませんけど」
 確かに、俺は嘘をつくのは苦手だ。麻雀やトランプをやってもすぐ顔に出てると周囲に指摘される。仕事していても、永峰社長や山之内さんには何かにつけて顔を読まれていたみたいだったし。
 「井村さんの眼鏡をフィッティングしたとき、井村さんの顔が本当に嬉しくなるくらいビックリしていて。それがずっと忘れられなかった」
 「そんなに俺、ビックリしてたっけっかなぁ……」
 照れくささにホリホリと頭をかきながらも、何だか不思議な気分がしていた。
 志雄さんがそんなに俺のことを強くおぼえていてくれていたなんて。てっきり俺が一方的に志雄さんのことを気にしているとばかり思っていた。
 こういうのを“惹かれあう”と表現するんだろう。これが男女の仲ならもうこの場でシンプルに「つきあおう」とでも言えば次の段階に行くところだけど、今回の場合は、そうはいかないよな。
 志雄さんも男、俺も男。
 その壁が、俺たちの口を重くする。
 俺たちがまた何となく途切れた会話を繕うのに不自由している間は、部屋の時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。
 「俺、志雄さんの気持ちに応えられるかは、正直言ってわからない」
 だいぶ時間をかけて見つけた俺の曖昧な言い方に、志雄さんはあっさりと答えた。
 「そりゃ、そうでしょう」
 十分予想の範疇ですってな具合。
 俺はそこでやめずに、もう一つの正直な気持ちを打ち明ける。
 「だけど、志雄さんのことをもうちょっと知りたいって」
 俺たちの仲ががどういう顛末になるか、今から先のことがまったく想像もつかなかったけれど、これで志雄さんとの縁が途切れてしまうことを本能に近いところが拒否していた。
 「ワガママかな」
 俺が言うと、志雄さんは小さく溜息をついてから答えた。
 「ワガママですね、本当に。報われない僕の気持ちになってみればいいんです」
 志雄さんの話す調子はちょっと怒ったようだったけど声の音色は温かかった。
 「……僕も、井村さんのこと、もう少し知りたいです。いいですか?」
 「もちろん」
 間髪入れずに俺は答えた。
 そして、続けざまに。
 「じゃ、とりあえずメシでも食いに行かない? 俺、腹減っちゃって」
 「井村さん、ご飯まだだったんですか?」
 「志雄さんは?」
 「まだ、ですけど……」
 あ、夕食抜きで眼鏡の修理させちゃったんだ。悪いことをした。
 「じゃ、修理代でメシおごるからさ! 大通りの方のファミレスならまだやってるし」
 「いいですよ、行きますか」
 それぞれに立ち上がってから、志雄さんが今度こそ明るく笑いながら言った。
 ファミレスは6年ぶりです、と。


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