話がまとまった俺と志雄さんは志雄さんの店兼自宅の玄関を出て、すでに暗くなった商店街を歩いてつっきり、国道沿いのファミリーレストランへと向かった。
夕食にはちょっと遅い時間にもかかわらず駐車場は満車だったけど、幸いすぐに国道を見下ろす窓際の禁煙席に案内してもらうことができた。
二人してほとんどメニューを見ずに、水を持ってきてくれたウェイトレスさんに注文を済ませる。
世がどんなに健康志向になろうとファミレス定番のマッシュルーム入りデミグラスソースのかかったハンバーグと、長話には必須のおかわり自由のドリンク。
「志雄さんもハンバーグでよかったの?」
機械的に注文を確認し終えたウェイトレスさんが席を離れてから、なんとなく“和食”のイメージが強い志雄さんに俺がたずねると
「いや、おじいちゃんと一緒だとこういうものなかなか食べられないから」
と苦笑されてしまった。
「そうなんだ。いろいろ気をつかっているんだぁ」
「だってねぇ。元気で長生きしてもらわないと僕が困るでしょう」
「あー、そうかもしれない」
そんな言葉を交わしながら、ドリンクコーナーからそれぞれアイスコーヒーと緑茶を手にして戻ってきた俺たちは、さらにのんびりした調子で互いにとりとめなく、自分の話をし、相手のことをたずねた。
それはすごく寛いだひとときのようでいて、何かを話すたびに自分の底で張り詰めている緊張感を意識する、そんな奇妙な時間だった。
それはおそらく志雄さんも同じだったろうと思う。新しい質問を口にする前には、いつも彼の表情にはとまどいが見え隠れし続けていた。
たとえば、こんな質問の前ですら。
「井村さんって、いつから一人暮らししてるんですか?」
質問に答える方がずっと気楽でいい会話。
「うん、大学の3年生のときから」
「3年生?」
「それまでは1時間以上かけて実家から通ってたんだけど、3年になって実技の課題が増えてきたらしんどくなっちゃってさぁ」
ここで、またほんの少しだけ間が空いて。
「あれ、井村さんのご実家ってどちらなんです?」
すぐに俺が実家の最寄駅を答えると、志雄さんの目が驚いたようにまたちょっと丸っこくなった。
「ここからそんな遠くないじゃないですか」
何故に安くない家賃を払ってわざわざ一人暮らしなのかと言いたげな志雄さんに、俺はひらひらと手をふりながら笑ってみせた。
「だって、もう実家には俺の居場所ないし」
俺が一人暮らしをしているうちに姉貴が結婚して、人のよい義兄の許可を得たのを幸いと俺の両親はさっさと実家を二世帯住宅にしてしまったのだ。
気づくと俺の部屋は、実家になかったというわけで。
「でも、一人暮らしだと気兼ねなく仕事もできるし。こうやって夜遊びもできるし」
ざわつくファミレスの席でしゃべっていたのは本当に何気ない話ばかりだったけれど、しばらくの時間をすごしても俺たちの会話からは練習が足りないピアノか何かの曲のような、ほんのわずかのたどたどしさが消えないままだった。
それでも、今までは話すきっかけがなかった幾つかのことを聞くことはできた。
志雄さんのお母さんは、志雄さんが小学生のときに亡くなっていて、お父さんは中学生のときに亡くなっているということとか。
小学生のときから家の仕事を手伝って(手伝わされて?)いたとか。
生まれも育ちもこの商店街なので、商店街の古いお店の人たちにはすっかり顔をおぼえられているとか。
志雄さんはそんなことを訥々と、俺の方を見たり伏目がちになったりしながら話してくれた。
俺が志雄さんに話したのもネタとしては似たようなものだ。
実家はとある自営業。家族は両親と5つ上の姉、その旦那さん。両親が飼ってる柴犬と姉夫婦が飼っているインコ。
俺自身は、大学では建築とかそういうことを一応勉強したんだけど、あまり真面目にやってなくて最初に就職したのは個人の建築事務所だったこと。
なぜかいつのまにか経理をやらされるようになってしまい、ぜんぜん本来やりたかった内装設計などの仕事をやらせてもらえなかったので、転職を考えて今に至ること。
志雄さんよりは、多少明るくしゃべっていたつもりだけど、情報量としてはさしたる差がないだろう。
結局、運ばれてきたハンバーグステーキをそれぞれ腹に収めて、さらにドリンク2杯分の時間をねばってみても俺たちの会話の速度はさしてあがるわけでもなく、本当に互いの外枠のごく一部をようやく知ることができたというくらい。
気づけば日付が変わる時刻が近づいていて、俺からとも志雄さんからともつかぬ調子で、俺たちはファミレスをあとにした。
遅い時刻。
排気ガスの匂いをわずかに感じるぬるい空気。
終電間近の電車で帰宅してきた人たちがぽつぽつと歩いている通りを、適当なペースで歩いているうちに、俺は話そうと思ったまま、忘れていたことを思い出した。
「そうだ、志雄さん。俺、今度スペアの眼鏡作ろうと思うんだけど」
「そういえば、スペアを見繕いましょうって言っていてそのままにしてましたよね」
志雄さんが、あらためてこちらを向く。
なんか志雄さんって、眼鏡の話になるとずっとリラックスした感じになる。
「井村さんに似合いそうなフレームがありますよ」
俺がその眼鏡を付けているところでも想像しているのか、少し笑ったように口角を持ち上げながら志雄さんが言った。
「今のよりもうちょっとカジュアルな感じのつや消し銀のね、オーバルフレームなんですけど」
オーバルってこととは楕円形の枠ってことか。志雄さんのことが気になるようになってからチマチマと雑誌の眼鏡特集なんか読むようになっていたから、多少そういう用語もわかるようになってきた。
「じゃあ、今度その眼鏡、見せてよ」
「実は、もう見てるはずなんですけどね」
そう言われて、ピンときた。ひょっとして。
「あの、エグザクトリーのフレーム? 白石さんからの?」
これといって奇抜なところは何もなかったけど、それでも記憶に残る程度には十分に端正な眼鏡だった。確かにつや消し銀の。オーバルフレームの。
「白石さんは、あれ、絶対に井村さん用に選んだんだと思いますよ」
クールなようでいて、意外とお節介な人ですね、と志雄さんは笑った。
それなら白石さんがわざわざ俺から志雄さんに渡すように仕向けた理由がわからなくもない。受け取ったときは「宅急便でも使えばいいのに」と思ったけれど。
いや、しかし。何で白石さんがそういうことに気を回す?
「ひょっとして志雄さん、白石さんに……」
俺のこと、話ししたりしてたの?
「いや、僕からそういうことを話したわけじゃないんですけれど」
何故わかったんでしょう、と小さく首を傾げる志雄さんに、俺はひっそりと冷や汗をかいた。
永峰社長をかついだ冗談が周り巡って志雄さん本人に届くなんて想像すらしていなかった。世間は狭い。迂闊なことは言えないと改めて思い知る。
「白石さんに会ったときに、不意に聞かれたんです。『井村くんとはどういうご関係なんですか?』って」
男同士の関係を尋ねるのなら“会社の同僚で”“学生時代の友人で”なんて回答が普通であろう質問なんだろうけれど。
何せ只者でない白石さんのこと、俺の冗談はさておいてもうすうす俺と志雄さんのこの奇妙な関係を見透かしていたのかもしれない。
洗練された細い鋼色のフレームを乗せたあの人は、一体どんな風に志雄さんにそんなことを尋ねたのだろうと思いながら、俺はとりあえず志雄さんの話の先を促した。
「で、志雄さんは何て答えたの?」
「突然だったので、情けないぐらいドギマギしてしまって」
そこで、一瞬、志雄さんの声がとぎれた。
「そのとき、あらためて自分が……そういう“特別”な意識を持っているんだな、ってそのときにあらためて自覚しました。」
そんな風に話を続けた後に、“井村さんには迷惑かもしれないけど”と自嘲的な一言を添えた志雄さんは、暗い商店街の道の先へと視線を向けながら、俺の隣を歩調を変えずに歩いていた。
俺よりちょっとだけ低い位置にある横顔がなんだかまた、つらそうに見えた。
さっき、店で話しているときにも思った。
男と女だったら。
今も、こういう瞬間にふと考える。
男と女だったら、今、この瞬間にでも手を握ってあげるところなんだけど。
俺、志雄さんのこと嫌いじゃないのに、どうしてもすぐに彼にそういう風にはできない。
志雄さんにそんな表情をさせているのが他でもない俺だという事実に、俺のほうも胸がチクチクと痛む。
志雄さんが女だったら……俺が女だったら?
いや、そんな“もしも”は意味がない。
それよりも、いっそ。
きっと、おそらく。
「何で、俺、ホモじゃないのかなぁ」
「はぁ?!」
いつのまにか、無意識に口走っていたらしい俺の台詞に、志雄さんがそれこそ今日の会話の中でも特別級に驚いた顔をしてこちらを向いた。足まで止まっている。
「何を言ってるんですか、井村さん」
「だってさ」
俺は志雄さんにあわせて足を止め、ちょうど近くにあった電信柱によりかかりながら、思いつくまま頭に浮かんだ疑問を口にしてみた。
「志雄さんは考えたことない? “何で自分はホモなんだろーなー”ってさ」
「そ、それは、ありますけど……」
「多分、それとあまり変わらないんだ」
同性に対する恋愛の壁の、あちら側とこちら側ということは、実は対等なことじゃないか、と。
本当にたった今。すとんと落ちてきたのは、そういう感覚。
「俺がホモだったら、きっと間違いなくここで志雄さんと手をつないでる」
人目につかなきゃキスもするだろうし、おじいさんがいないのをいいことに、志雄さん家にお泊りしちゃうかもしれない。
俺が続ける無茶で勝手な仮定に、志雄さんが茫然としたような表情のまま言った。
「普通、そういう話って、僕が女だったらとかそういう風に考えません?」
「うーん。でも、その仮定って無理あるじゃん」
どうやったって、俺は女になれないし。
「志雄さんだって、別に女になりたいって……性同一性障害っていうんだっけ?
そういうのとは違うんでしょ」
「ええ」
「だったら、一番可能性があるとしたら、俺が……その……」
少し口ごもった俺の次の言葉を求めるように、志雄さんの黒い瞳がじっと俺を見た。何かを期待しているというよりも何かを怖がっているように感じるのは、彼がかけている眼鏡のフレームライン越しに見える弓なりの細めの眉尻が、少し下がったままになっているせいだろうか。
目の前のどこか切なげなこの顔は、線は細いけど確かに俺と同じ男の顔。それでも、俺は志雄さんの表情に惹きつけられているのを自覚している。
まだ、この胸騒ぎに恋というレッテルは貼りたくない。自分が同性愛者だって認められない。
そう思ってはいるけど、すでに自分の心の中にこれまでになかった一粒の種が埋もれていることを否定してしまったら。
それはあからさまに嘘だ。
自分に嘘をつかないよう、志雄さんに嘘をつかないよう。俺はまだ逃げ腰のニュアンスを捨てきれないままだったけど、何とか口に出した。
「両刀いけるようになることかなぁ、と……」
すると、志雄さんはすっと目線を歩道の白線が奇妙に目立つアスファルトの上に落としてしまった。
微妙な間が空いた。
「井村さんって、優しいんですね」
どこか鼻で笑われているような冷めた調子で目をそむけたままの志雄さんに言われた。
「無理しなくていいんですよ」
その様子が、“同情はごめんです”とでも言いたげな雰囲気だったので、俺は反射的に少し大きな声で言ってしまう。
「無理してるつもりでこんなこと言ってるわけじゃない!」
俺の声は、自分で思った以上に深夜の商店街に響いてしまった気がして、俺は慌ててトーンを下げた。
「本当に。できるだけ正直に言ったつもりなんだよ」
俺がそう伝えても志雄さんはこちらを見てくれず、返事もないままに、またゆっくりした足取りで商店街の歩道を歩き出してしまう。
俺も仕方なく電柱から体をおこしてその後ろ姿から3歩ほど遅れて歩き始めた。
さっきまでと同じか、むしろそれよりも遅いほどのペースで、前後して俺たちは黙ったまま商店街を歩き続けた。
俺の少し先をいく志雄さんの長めの髪をくくった髪の小さな房は、足取りにあわせてゆれるだけで、志雄さんの今の表情を伝えてはくれない。
やがて重苦しい時間のうちに、商店街の終わりにさしかかる小さな交差点へとたどりつく。
俺は角を曲がり、志雄さんはまっすぐ行く分かれ道だ。
道を渡る手前で、志雄さんがようやく振り向いて俺を見た。
口元に柔らかい笑みを浮かべて。
眼鏡の奥の黒い瞳が少しだけ潤んでいるように見えたのは夜の暗がりのせいだったかもしれないけれど。
「……明日、あの銀縁に井村さんのレンズいれておきますから」
突然に与えられたその約束に、俺は心底ホッとした。
「うん、だったら仕事は定時にあがって取りに行くようにするよ」
俺も精一杯明るく答えた。
そして、それじゃ明日と互いに軽く手をふりながら、その辻で志雄さんと別れる。
俺がすぐに角を曲がらず、眼鏡店の裏の玄関へと向かう志雄さんを見送っていると、志雄さんは少し離れたところでもう一度こちらを振り返って足を止めた。
そんな志雄さんにもう一度小さく手をふった。志雄さんももう一度手をふってから玄関に面した裏路地へと消えていった。
志雄さんの姿が完全に見えなくなるまでその角に立ち尽くしてから、俺はきびすを返して自分のアパートへと再び歩き始める。
自然と独り言も口をついて出たりして。
「なんだか……白石さんに助けられちゃったみたいだ」
結局、志雄さんと俺に、次の機会をつくってくれたのが白石さんから送られた眼鏡だということについては微妙な気持ちになってしまう。
だとしても、あの眼鏡は今夜の俺たちにとっては、命綱みたいなものになっただから感謝しなければならないだろう。
あまりに不安定で、不明瞭で、不定形な俺と志雄さんの間柄。
いつ、どこから壊れるかわからない緊張を強いる脆い絆。
「なるようになるし、なるようにしかならないよな」
一人暮らしの玄関の扉を開けて、俺は誰もいない暗がりに向かって呟いていた。
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