その日、すなわち金曜日。
 晴天の日はオフィスも明るくて、何となく仕事をしていても気分が明るい。
 「えーと、これはシュレッダー、こっちは……」
 志雄さんと約束したように定時で帰るつもりの俺は、長引きそうな作業には手をつけず、永峰社長のところの山之内さんの店の仕事で積みあがった書類とゴミの整理に勤務時間を費やしていた。
 決して整理整頓とか掃除は苦手でないつもりだったけど、何せ怒涛のようにやることなすことに追いまくられていた納期直前の異様な状態に、俺は自分でも呆れるくらいにデスクの上も中も散らかし放題にしてしまっていたのだ。
 「まあ、ずいぶんと溜め込んだもんだ」
 後ろから声をかけられて振り向けば、最初に俺を永峰社長に推薦してくれた頭髪バーコードの課長が立っていた。書類の仕分け作業で下を向いていたせいで、少しずれた眼鏡の位置を直しながら俺は苦笑いするしかない。
 「はは、最後のほうはもうゴミ捨てに行く時間も惜しくて……」
 俺の言い訳に課長も苦笑した。
 「わかるよわかる。永峰さんとこの仕事は誰がやってもそうなっちゃうみたいだから」
 「でも、終わってみるとやっぱり、やってよかったなぁと思えるんですよね」
 そうなんだ。一人でこれだけの仕事ができたというのはとにかく自信になった。
 「永峰社長に自分を推薦してくれた課長のおかげです!」
 席から立ち上がって俺があらためて頭を下げると、課長は頭をかきながら言った。
 「永峰さんもすごく喜んでおられたようだしね。うん、僕としても井村くんがいい仕事をしてくれて嬉しいんだけど」
 「だけど?」
 微妙にひっかかりのある物言いに、俺が聞き返すと課長の声のトーンが一段落ちた。
 「何て言おうかなぁ……その、井村くんにやらせるべき仕事じゃなかったかもな、ってねぇ」
 課長の目がふらりとフロア内を泳ぐ。俺と同じ仕事をしている8人ほどの人たちがそれぞれに机に向かっている事務所の中。
 その視線の動きだけで俺には何となく課長の言わんとすることがわかってしまった。
 若い方がよかったと言っても、入社したばかりの人間に大きな仕事を任せてしまったことを課長は気にしているんだと思う。
 省みれば、入社以来の俺と言えば。会社に馴染む前にふられたこの仕事をこなすのに精一杯で、同僚になった人たちともあまりきちんとコミュニケーションをとらないまま、突っ走ってきてしまった。
 皆さん、俺にも普通に親切だし、これといって苦情を言われたこともなかったけれど、陰ではあまりよく思われていないのかもしれない。
 「まあ、誰とは言わないけど。“何で自分にやらせてくれなかったのか”っていう人もいたりしてね」
 やっぱり。
 気持ちはわかる。永峰社長のところの仕事は大変ではあるけれど、まるまる一軒の店の内装、店の評判があがればキャリアになる仕事だ。
 「そんなわけで、しばらく井村くんには地味な仕事でガマンしてもらいたいんだけど……」
 「どんな仕事でも仕事です。担当するからには精一杯やりますから」
 第一、この前の会社じゃ、俺の仕事のほとんどはなぜか経理の仕事だったんだ。小さな現場だろうが、安価な注文だろうが、ここでもらえる仕事は設計の仕事。文句などあるはずがない。
 だから、俺は心から課長に“どんな仕事でも”と言ったのだったが。
 「いや、問題は違うんだよ」
 「え?」
 「うん、ここで話すのもアレかな。ちょっとこっち来てくれる?」
 課長は俺をフロアの片隅にある打ち合わせ用のスペースに連れて行った。ガラスのパーティションで仕切られているソファセットに向かい合って座る。
 「実は、井村君ご指名で、また大きな仕事の話が来ちゃったんだよ」
 意外なような、そうでもないような。心当たりは隠して、俺はとりあえずとぼけて見せた。
 「また永峰社長ですか?」
 「永峰社長のご紹介。ほら、あの、有名な……」
 課長の話は、完全に内緒話に近いひそひそ声にまで落とされる。
 「表参道とかに、大きなお店が出てるじゃない、えーと……」
 「『エグザクトリー』の白石さん……?」
 俺も同じ程度の音量で尋ねると、課長はそうソレと言う代わりに一つ深く頷いた。
 そうだろうな、他にはちょっとありえない。
 「何か聞いていた?」
 「え、と。お会いしたことはあります。永峰社長が飯食いに連れていってくれて。その席で」
 白石さんとの関係については、正確ではないけど無難であろう説明で済ませておく。
 それに課長は“ああそう”と気の入らない相槌を打ってから、含みのある溜息をついてから言った。
 「その人がね、君が手がけたあの内装が気に入ったから、今度建てる小さいお店の内装をお願いしたいって。眼鏡店って言っていたかな」
 さすが白石さん、連絡事は電光石火。
 俺個人にではなくしっかりと会社にアクセスしてくる辺りに有無を言わさぬものを感じなくもない。
 俺がそんな風に密かに白石さんの手腕に感心している前で、ありがたいことではあるんだけどねぇ、と課長は腕組みであまり喜ばしげでない顔つきで話を続ける。
 「で、さ。僕の勝手な提案で申し訳ないんだけど。社内で他にもやってみたいという連中がいるだろうから、今回はコンペをやらせてもらえないか、君から白石さんに聞いてもらえないかな」
 俺から?
 せっかく指名してくれた相手に対してする提案でもない気がするが……課長は課長で、クライアントと社内の雰囲気との板ばさみになって困っているんだろう。
 “中間管理職は胃が痛い”と明記されているかのような困った顔を見ていると、すげなく断るのも気が引けて、俺はつい「いいですよ」と答えてしまった。
 そもそもこの課長には永峰社長を紹介してもらった恩もあるし。それに、社内の誰だってあのエグザクトリーの新店舗の内装ともなればやってみたいと思うに違いない。社内コンペというのはある意味公平な方法だろう。
 「じゃあ、早々に白石さんに連絡してみます」
 「うん、宜しく頼むよ」
 課長と別れて席に戻った俺は、さっそく積み上げた書類の山の下から名刺入れを掘り出し、志雄さんと一緒にもらったあのきれいな白石さんの名刺を引っ張り出した。
 さらに書類をかきわけて電話をとり、印字されている直通電話の方へとかけてみる。
 1コールですぐに電話にでてきたのは、白石さん本人ではなく秘書か電話番なのであろう柔らかなな女性の声。
 「あいにく白石は今週いっぱい出張にでておりまして」
 本当はアテがはずれたはずのその答えに、ちょっとだけホッとする。白石さんと話すのは何故かどうしても緊張を強いられるから。
 「戻りましたら、こちらからご連絡さしあげましょうか」
 「いいえ、またかけなおします。井村から電話があったことだけお伝えください」
 それだけのやりとりで電話を切ってから、ふと思い出した。
 志雄さん、白石さんのお店に勤めてみるって話、本気だったのかな。
 昨日、志雄さんの気持ちを知った今になって思い返してみれば、あの発言は俺に対するアテツケってやつに思えなくもないような。あるいはある種の自暴自棄?
 これって俺の自惚れなのだろうか。
 電話の周囲からまたガサガサと手だけ動かして書類を片付け始めた俺だったが、頭を使う作業じゃないだけに、余計なことを考えてしまう。
−−そもそも俺、何で相変わらず志雄さんが白石さんの店に勤めることを心配してるんだ?
 だってさ、言わば俺は告白されたわけじゃないか。「好きだ」って。ちょっとケースは特殊だけど、俺たち両思いなんじゃ……ないの?
 そんな調子で、上の空で無造作に紙の束をいじっていたら。
 「痛っ」
 はずみで左手の人差し指を切っていた。爪の生え際にじんわりと赤く血が滲んでいる。
 ヒリヒリした痛みとむず痒さが入り混じった指先の感覚は、俺のその時の気持ちにもちょっと似ていた。


 心中落ち着かなかろうが、何だろうが約束は約束。
 俺は、予定通りに定時でタイムカードを押して、会社を出た。
 志雄さんのところに行く前に、一度帰宅して顔を洗って、気軽なジーンズとTシャツに着替える。こういう小回りのよさは職住接近のありがたみ。事務所の場所にあわせてアパートを選んだのは今のところ正解だ。
 今度こそ山之内さんのお店からもらったお菓子の袋をさげてアパートの部屋を出れば、商店街はもう夕暮れ時で、スーパーの周辺はお買い物のお母さんたちで賑わっていた。
 そんな活気も西條眼鏡店の周辺ではあまり関係がないようで、すでに灯りがついた志雄さんのお店に入る前に入り口からちらりと中を覗いても、いつものごとく他の客はいなかった。
 本当にここは大丈夫なんだろうかと寂れた扉を開いて心配になってしまうのは、今回に始まったことじゃない。
 「こんにちはー」
 「いらっしゃい、井村さん」
 ベルの音にカウンターからこちらを向いた志雄さんの声は穏やかで優しい。
 「例の眼鏡、やっておきましたよ」
 「ありがとう!」
 いそいそとカウンターの椅子に腰掛けた俺の前に、志雄さんは見覚えのある銀縁眼鏡を出してきてくれた。
 白石さんがプロデュースする、エグザクトリーのフレーム。派手さはないけれど、こうやっていつもの古びた眼鏡用のお盆の上に置かれると、そのたたずまいそのものがしっかりと新しさを感じさせるデザインなんだということに気づかされる。
 「一見、何気ないオーバルのチタンフレームですけれど、あらためて見るとリムの削り出しのラインがとてもシャープなんですね。モダンからテンプルにかけてのこの黒っぽいセルの部分も透かすと少しだけ紫が混じったような微妙なマーブルになっていたり。すごく凝った作りになっているんです」
 説明と共に眼鏡の上を移動する志雄さんの細い指先を追うことには、リムというのは眼鏡の縁、モダンは耳にかかる曲がった部分、それからテンプルというのはいわゆる“つる”のことらしい。
 俺にとっては、わかったようなわからないような内容だったけれど、洗練された眼鏡を手にして嬉しそうにしている志雄さんを見ているのは悪くない気分だった。
 「さっそくかけてみていい?」
 「ええ、もちろんです。今の眼鏡、はずしますね」
 志雄さんの手がごく軽い力で俺の眼鏡を持っていくと、途端に視界がにじんだようにぼやける。
 「さすがに、歪んではいないか」
 志雄さんの独り言のような呟き。そりゃそうだ、だって昨日直してもらったばかりだし。
 「昨日はちゃんとはずしてから寝たよ」
 俺が言うと、志雄さんの笑い声が小さく聞こえた。
 「じゃ、こちらの方を。失礼します」
 とった眼鏡を盆の上に置いた志雄さんが、もう一つの眼鏡を取り上げてあの柔らかいラインを描くセルのパーツを俺の耳の上においてくれた。
 眼鏡から志雄さんの手が離れていくその瞬間。いつもドキッとさせられてしまう。
 指先が俺の耳からこめかみの線をかすめていく、その柔らかくなめらかな感触に。
 「どうです? 掛け心地は」
 声をかけられて、長いような短いようなその淡い余韻から引き戻された。
 「うん、いい感じ。思ったより重くないし」
 この軽い掛け心地は、きっと元の眼鏡の出来以上に志雄さんの技によるところが大きいんだろうけど。だって、手に持ったときは絶対、今かけているやつより重みを感じるから。
 「よく似合っていますよ」
 完璧に調整された眼鏡のレンズが焦点を結んでくれる鮮やかな視界の中で、満足気に俺の顔を眺めている志雄さん。
 昨日、あんな話をしたせいか、そう見つめられると俺はこれまで以上に照れくさいような気がしてしまう。
 「はい、鏡をどうぞ。いかがですか」
 俺は、慌てて差し出された鏡を覗き込んだ。志雄さんの視線から逃げるように。これ以上、一方的に見られたら、なんだか赤面してしまいそうだった。
 鏡の中の顔は、日に一度は洗面所で対面している俺自身の素顔に近いような気がした。
 眼鏡に存在感がないわけじゃない。確かに眼鏡をかけた顔ではあるんだけど。
 「うーん、なんかインパクトがないと言えば、ないよね」
 「いいんじゃないですか?」
 志雄さんがまた俺の方に手を伸ばした。いつものように鼻梁にかかる部分や蝶番のあたりに軽く触れてゆらすように触れる。今回は問題がないのか、また眼鏡をはずすことはしなかった。
 「僕は、こっちの方が井村さんの本来の雰囲気に合っているんだと思いますけれど」
 「そぉ?」
 そうなのかなぁ。確かに、あっちの先にかけていたフレームは多少気張って、キャラを作っていた部分はあるかもしれないけど、こっちはこっちでだいぶボーッとしていないか?
 「イマイチ、ピンとこない」
 「気に入らないなら、無理には勧めませんよ?」
 「気に入らないってわけじゃないんだけど……。眼鏡自体はすごくカッコいいしね」
 多分、俺の心の片隅には白石さんへの対抗意識がわだかまっているのかもしれなかった。素直に彼が選んだ眼鏡をかけることができない。
 それも、俺が一生懸命隠している地を見透かしたような品物を選ばれては、ますますもって負けているような気がしてならないわけで。
 「白石さんにはこんな風に見えていたのかなぁ……」
 「それはどういう?」
 「ん、ほら、前の眼鏡。志雄さんには“仕事ができる男のイメージ”ってお願いしたけど」
 「ええ」
 「もし、志雄さんの言ってたように、白石さんがこの眼鏡を俺のために選んだとしたらさぁ。そういう“化けの皮”の部分、全部バレてたのかなって」
 ちょっと悔しい、と俺が冗談とも愚痴ともつかない風を装って言うと、志雄さんは細い眉尻を下げてどこか困ったような笑い顔になりながら、お盆の上に置いた濃紺色のメタルフレームを手に取った。
 「でも、僕も最近、こっちの眼鏡は……井村さんにはシャープすぎるかなぁって思うようになってたんですよ」
 「えー、それを選んだ志雄さんまでそういうこと言うのー?」
 「あの時は井村さんのこと、ほとんど知りませんでしたし。井村さんの要望と顔立ちからベストの選択をしたまでですから」
 淡々と、志雄さんはこれはこれで自分の選択は間違いではなかったことを強調しながらも。
 「眼鏡の選び方には2通りあるんと思うんです。自分がなりたいイメージを想定して、それを助けてくれる眼鏡を選ぶというやり方。オシャレに意識的な人や、客商売などで他人の目を気にする必要のある人なんかはこういう選び方しますよね。井村さんだって、この眼鏡を買ったときはお客さんの目を気にしていたでしょう?」
 そう、前からクライアントに「こんな若造に」って言われるのがイヤだった。キャリアがあるように見せたいって、志雄さんに伝えたのは確かだ。
 俺が反論できずに、小さく頷くと志雄さんは彼らしい静かに熱っぽいしゃべり方で語り続けた。いつのまにか、顔は最初にこの店に来たときに見かけたような、講義をする教授のような表情になっている。本当にこの人、眼鏡のことになると驚くほどに強気だ。
 「もう一つの選び方は、自分が持つ現在の自分自身に合う眼鏡を選ぶというやり方。ただ、自分のイメージをきちんと理解してない方や、本来のイメージを無意識に嫌っている方もいまして」
 「俺がそうだって言いたい?」
 「そうかもしれませんね」
 また、志雄さんの表情がふわりとほどけて優しい顔になる。
 「その眼鏡の方が、井村さんのいいところが引き立っているような気がする」
 そこで、志雄さんはすっと視線を下に落としてやや俯き加減になって。
 「……どこがいいところかって、なんか説明しづらいんですけれど」
 声も少し小さくなる。なんか、いつもの黄銅色の眼鏡が収まった耳元が何となく赤いようなのは俺の気のせい、だろうか。
 ああ、なんか俺も落ち着かない。うまく話しが続けられないじゃないか、そんな恥ずかしそうにされると!
 「あ、うん。志雄さんがそこまで言ってくれるんだったら、この眼鏡使ってみるよ」
 不自然になるギリギリ手前という具合の沈黙をはさんで、俺が言う。
 「そう言ってもらえると。眼鏡屋冥利につきます」
 顔をあげた志雄さんが、本当に喜んでいるみたいだった。
 そんな志雄さんの笑顔には癒されるものがあるのは確か。俺だって何で同性の笑顔に癒されてるんだか不思議なんだけどさ。
 いつのまにか、つられるように俺も笑っていたと思う。
 新しい眼鏡で、笑いながら、俺はまた少しの間をはかってから切り出した。
 「……そう言えばさ、この眼鏡で思い出したんだけど……」
 少々、嘘が混じったもったいぶった言い方。実はここに来る前から、ずっと抱えていた。今日、会社で思い出したこと。
 志雄さん、本当に白石さんのお店で働くの?
 そう尋ねようとした矢先に、お店の電話が鳴った。
 「すみません、井村さん。ちょっと待っててくださいね」
 志雄さんがカウンターから少し奥にある電話機の方へと行く様子を、俺は気勢をそがれた気分で眺めるしかない。誰だかわからない電話の主に、少々恨みがましい気持ちを向けながら。
 「はい、西條眼鏡店でございます」
 こういう電話で、声のトーンが上がらないあたりがやっぱり男なんだよなぁ。
 お客さんから電話かな。まさか白石さんってことはないよな。旅先のおじいさんからだったりな。
 つまらないことを考えながら、俺がぼんやりと待っていると。
 「え、おじいちゃんが?!」
 志雄さんの、志雄さんにしては大きい声が聞こえた。
 あのじいさんに何かあったのか? 昨日から温泉旅行だったよな、確か。
 「はい、はい……わかりました。……病院に、はい。ありがとうございます。何とかして……」
 受話器を置いてこちらに戻ってきた志雄さんは顔面蒼白。足取りもこころもとない様子だった。
 「どうしたの」
 「おじいちゃんが……旅行先の温泉で倒れたって……」


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