「で? 容態は?」
 「意識不明で、地元の病院に運ばれたそうなんですけど……」
 どうやら大事みたいだ。志雄さんの声は少しだけ震えていた。
 「どうしよう、今からなら何とか最終の電車で……!」
 緊張と不安が入り混じった顔で、志雄さんが店内の古びた掛け時計を見上げる。
 「志雄さん、おじいさんって、どこに行っているの?」
 ここです、と志雄さんがお店のカウンターに貼ってあったB5判のコピーを差し出した。
 “町内会お達者倶楽部 恒例温泉ツアー”。泊まり先は、近県の有名温泉地だった。
 「ここなら……志雄さん、俺、車出すよ」
 その方が融通が利くし、早いはず。自家用車は持っていない俺だったけれど、免許をとって以来、実家や前の会社の雑事で運転はさせられていたから、レンタカーで何とかできる自信はあった。
 「でも、井村さん……」
 この事態でも遠慮がちな志雄さんの言葉をさえぎって、俺は話を続ける。
 「いいから。今から、近くでレンタカー借りてくるからさ」
 昨日行った、国道沿いのファミレスの近くに、確かレンタカーがあったはずだ。
 「今の時間だと歩行者天国だから、ここの近くには……。そうだ、俺のアパートの前で待ってて!」
 志雄さんは黙ったまま、コクコクとうなずいた。顔色が悪い。大丈夫かな?少し心配。
 「おじいさんの保険証と、お金と、あと泊まり先か病院の連絡先。あれば道路地図。用意できる?」
 また、志雄さんは無言でうなずく。
 「戸締りとか火の元とかちゃんとして出てきてね。じゃ、また後で!」
 我ながら不思議なくらい冷静な調子で思いつける注意事項を志雄さんに伝えてから、俺は店を走り出た。まだ人通りが多い商店街の中、人の間を縫うようにして走って行く。
 やがて、たくさんの車が行きかう国道に出て、目立つファミレスの看板の方に少し走ると。
 あった。レンタカーのチェーンの、緑色のサイン。
 日頃の運動量が低下しつつある俺、レンタカーの貸し出しカウンターにたどり着いたときは、スタッフの人が何も聞けないほどに息が切れてしまっていた。
 それでも、ようやく手頃な4ドアのセダンを借りた。久々の運転席。
 エンジンをかけると、ピッと小さな音がしてカーナビの小さなディスプレイが明るくなる。カーナビを使うのは初めてだけど、行ったことのない場所にでかけるに当たっては心強い装備だ。
 ナビの目的地設定は後回しにして、俺は初めてこの界隈へと車を走らせはじめた。
 国道から商店街に連なる住宅街へ向かうのに微妙にとまどったけど、商店街と平行に伸びた細い路地をそろそろと運転していくと見覚えのある交差点に出る。そこを右へ曲がってすぐ。
 薄暗くなったアパート前の駐車場に、志雄さんが立っていた。胸元にぎゅっと黒いデイバッグを抱えた姿勢で、ぼんやりと足元に視線を落としているみたいだった。
 「志雄さん!」
 車の窓を開けて声をかけると、彼は慌ててこちらに駆け寄ってきて助手席のドアを開けた。
 「すみません、ご迷惑をかけます」
 「ん、シートベルトは締めてね。車出すのはいいけどさ、罰金は困るから」
 隣にすべりこんだ志雄さんがあまりに不安げな様子なので、ちょっと冗談めかして言ってみたものの、あまり空気は柔らかくならなかった。それは無理もないか。
 俺はとりあえず、志雄さんから、おじいさんの入院した病院の連絡先を聞いた。
 「村山記念病院……あるかな」
 使い慣れないカーナビの検索機能を使って、病院の位置を調べてみる。電話番号で一発でわかった。画面に案内されるままに、目的地、設定、と。
 『目的地を村山記念病院に設定しました。案内を開始します』
 合成された女性の声が淡々と告げた。
 俺は再び車を発進させると、最初はナビを無視して商店街を迂回するように住宅地の中を走り、さっきの国道に出た。
 久しぶりの運転だったけれど、高速道路の入り口に向けて国道を走っていくうちにすぐに感覚や土地勘が戻ってくる。
 国道は多少混雑していたけれど困るほどの渋滞にはならず、俺たちはあまり時間をかけずに高速道路へと乗り入れることができた。
 ぐっと早くなる車の流れにあわせてアクセルを踏みながら、ラジオのスイッチを入れれば。
 『上下線とも順調に流れています。引き続き安全運転をお願いします』
 カーナビの音声によく似た無機質な女性の声が、行く手に渋滞がないことを教えてくれる。
 「よかった。この調子ならそんなかからないと思うよ」
 「そうですか……」
 車に乗ってからというもの、志雄さんはほとんどしゃべらない。俺もとりたてて話すべきことを見つけられず、車の中はいたって静かだった。
 黙ったままだとどうしても運転が単調になる高速道路。
 俺はラジオの周波数をずっと同じ交通情報を繰り返している周波数から適当なFM局へと切り替えた。俺たちの抱えている重苦しい雰囲気とはかけ離れた軽快な英語のMCが流れ始める。
 曲名もよく聞き取れないまま、続けてオンエアされたのはリズムが爽快な洋楽のアップチューン。晴れた日に、こんな曲をかけながら海岸線をドライブしたら気持ちいいだろうな、と頭の隅で思う。
 もし、おじいさんが無事だったら、志雄さんをドライブに誘ってみるかな。
 そんな思いつきも、今はとてもじゃないけど口に出せない。
 結局、高速道路は休憩抜きで、互いに言葉を交わすこともなく通り過ぎた。やがてナビの指示に従って、ラブホテルのネオンがやけに目立つインターで、一般道路へと降りていく。
 「志雄さん、どこかコンビニでも寄っていく?」
 夕食抜きで飛ばしてきたことを思い出し、俺は志雄さんに尋ねてみたが。
 「僕は、大丈夫ですけど……」
 「じゃ、先に行こう」
 腹が減っていなかったわけじゃないけど、とにかく病院に着くことを先決にすることにした。
 夜に一際明るいコンビニの看板を後にして、道路に掲げられた青い表示を見ながらひたすら国道を南下して行く。コンクリートの建物が目立つ市外を抜けると突然に山間の趣が強くなり、ところどころに温泉宿の案内を見かけるようになってきた。
 一つ大きめの川を渡って、そろそろ辺りは温泉の中心地。日中はにぎやかなんだろうお土産屋の通りも、すでにシャッターが下りて静かなものだ。
 『50m先の信号を左です』
 ナビの案内もだんだん言うことが細かくなってくる。道路もだんだん細くなってくるし。
 「あ、あそこじゃないですか?」
 志雄さんの声にほとんど車通りのないまっすぐな道のかなり先へと目を凝らせば、暗がりの中に、控えめな大きさで“村山記念病院”の看板があった。
 その看板の矢印のようにその先のT字路を右に行けばすぐに道路はつきあたり。
 『目的地に到着しました。お疲れ様でした』
 病院の駐車場へとハンドルを切ると、まるで愛想のないねぎらいの言葉を最後にカーナビのポインタの動きが止まる。
 病院は、総合病院というにはこじんまりとした3階建ての病院。一応、救急病院に指定されているけれど、自分が患者だったら、ちょっと不安かな……という雰囲気だ。
 がら空きの駐車場、救急外来に近いところに車を寄せてエンジンを止めた。
 外に出れば、周囲は静かで山の空気の匂いがする。腕時計の針は夜の10時をまわったところ。
 車から降りた志雄さんは、手にしたリュックを肩にかけるとすぐに小走りで赤色灯の目印がついた病院の入り口へと向かって行った。俺もすぐその後を追った。
 「志雄ちゃん!」
 病院の中に入って、消毒薬の匂いが鼻に届くか否やというタイミングで聞こえてきた声。
 志雄さんの足が止まった。
 薄暗く感じる救急外来の待合室のベンチから、すっかり頭が禿げ上がったどこの坊主かというような雰囲気の藍染のシャツを着た小柄なおじいさんがこっちにやってきた。お達者倶楽部のお仲間らしい。
 「志雄ちゃん、こんな時間……電車で来れたの?」
 「いや、友達が車を出してくれて」
 そう言って志雄さんが俺の方を見たので、俺はぺこっとそのおじいさんに頭を下げた。
 「それで、ウチのおじいちゃんは?」
 続けて早口で尋ねる志雄さんに、坊主頭のおじいさんは複雑な表情を見せる。
 まさか、そんなに容態が……。
 「ん、まあ……とにかく病室へ来てもらえば……」
 おじいさんが歩きだしたので、俺たちはただついていく。容態をはっきり言ってくれない態度が余計に心配な気分を募らせる。
 いやだな、俺でもドキドキする。志雄さんの心中たるやいかばかりか。
 2階の入院フロアはもう消灯時間をとっくに過ぎているからか、廊下も薄暗くナースステーションらしい一角だけが明るかった。おじいさんはそちらに向かう。
 「さっき入院させていただいた西條の身内が来たんですが。面会まだいいですか?」
 「ええ、いいですよ。どうぞ」
 夜勤の若い看護婦さんが出てきて、にこやかに応対してくれた。看護婦さんの雰囲気からするとそんなに重篤な状況でもないようにも思えるが、一体どういうことになっているんだろう。
 廊下のつきあたりの個室のドアの隙間からは、まだ明かりが漏れていた。俺たちの先を歩いていたおじいさんが少し引き戸を開けて中に声をかけた。
 「源さん、志雄ちゃんが来たよ」
 「何っ?!」
 ……おいおい。廊下に響くような返事をするなよ、じいさん!
 しかし、今の一声で俺は何だか一気に安心してしまった。こりゃ大丈夫だ。
 「元気そうじゃん……」
 「みたいです、ね」
 俺と志雄さんは目をあわせて笑ってしまった。
 病室で再会したじいさんの右腕と額には包帯がまいてあった。
 「まったく、志雄まで呼びつけて……誰かきちんと病院に話を聞いたやつはおらんかったんか」
 「いや、だって、やっぱり。検査の結果が悪かったら困ると思って」
 ブツブツ言うじいさんに、小柄な禿げのおじいさんが恐縮したようにしていると志雄さんが、ベッドサイドに立ってたしなめた。
 「そういう言い方はないでしょう、おじいちゃん」
 「たかが脳震盪で、こんな田舎の温泉地まで孫を呼び出したなんてはずかしい限りじゃないか」
 俺は二人の会話に割り込む気もせず、半歩下がった位置で様子を眺めていた。どうやらじいさんは 俺の存在には気づいていないみたいだし。
 「で、一体何がどうしてこうなったの」
 「風呂場ですべって、洗い場に少々頭をぶつけてな。目をまわしてたら救急車を呼ばれた」
 「頭を? で、検査したんでしょう?大丈夫だったの?」
 「軽い脳震盪だと言われたわい。あとはたんこぶ少々とひっくりかえった際に手首を捻挫した。それだけだ」
 そんな二人の会話を後ろから聞きながら、俺自身もあらためて心底安心したのをじわりと感じていた。だって、これでじいさんの身に何かあったら志雄さんは本当に一人きりでお店をやっていかなきゃならないわけだし。それ以上に、あの電話をとってからの志雄さんのうろたえぶりと言ったら、本当にこちらが手を差し出さずにいられなかった。
――だってねぇ。元気で長生きしてもらわないと僕が困るでしょう
 志雄さんとそんな話をしてから、たった一日しか経っていないのに。
いろいろな意味で、人と人の関係ってけっこう急に変化するポイントがあるような気がする。まあ、今回は悪いことにならなくてよかったよ、本当に。
 「ところで、アンタさんは……」
 「はい?」
 少し考え事をしていたところ、突然にじいさんに話しかけられ俺は間抜けな調子で聞き返してしまった。とりあえず少し前に進んで志雄さんの横に立つ。
 「ああ、井村くんか! すまん、眼鏡が違うから一瞬誰かと思ったわい」
 「ははは、志雄さんに新しい眼鏡を勧められたもので」
 「そうかそうか。うん、前のよりわしは好きだな。よく似合ってるぞ」
 「はあ、どうも」
 即座に眼鏡の感想をよこすあたり、このじいさんもやはり眼鏡が好きなんだなぁ。うーん、じいさんもこっちの眼鏡がいい、か。俺としては少々複雑な気分だ。
 「実は、ここまで来るのに井村さんが車を出してくれたんです」
 志雄さんの説明にじいさんが驚いたように少し目を見開いて眉をあげた。
 「そりゃ、すまんことしたな。井村くんは車を持っていたのか」
 「いや、免許はあるんですけど、車は今は持っていないんで……商店街の近くでレンタカーを」
 「そうか。ますますもって面倒をかけた。申し訳ない」
 あの西條のじいさんにベッドの上から深々と頭を下げられたのでは、こっちの方が恐縮してしまう。
 ついつい一緒になって頭を下げてしまう俺だった。
 「ところで、シゲさん!」
 じいさんの話の先が、突然に俺たちの少し後ろで様子を見ていたもう一人の老人の方へと向かった。シゲさんと呼ばれたおじいさんはまだオドオドとした様子で、小さな声で「何?」と言う。
 「旅館に連絡とってくれ。ほら、こんな時間から志雄たちを帰らせるわけにもいかんじゃろ」
 「ちょ、ちょっと待ってよ。おじいちゃん」
 じいさんの言い出したことに、慌てはじめたのは志雄さんの方だった。以前に、初めて志雄さん家でご飯をごちそうになったときもこんな感じだったっけ。
 「まさかこの時間から、井村くんに車を運転してもらうのも悪いじゃないか。ここまで来たんだからちょっと温泉にでもつかっていけばいい」
 「そうそう、志雄ちゃん。今日なら空いていたから、きっと今からでも大丈夫」
 西條のじいさんの提案にうなずきながら、シゲじいさんはポケットから携帯電話を取り出しながら病室の外へと行ってしまった。本当に旅館に電話をかけにいったに違いない。
 どうして元気な年寄りは、問答無用に物事を進めるかなぁ。
 「井村くんは何か明日、用事あるかね? デートでもあるというなら無理はいわんが」
 「ええと、特には……」
 じいさんに押されきっている俺の返事に、志雄さんが困ったような顔でこっちを見た。
 志雄さんの言いたいことは何となくわかる。昨日、あんな話をしたばかりだし。だけど、ごめん。なんか上手い嘘がとっさに思いつかなくて!
 「志雄だって、明日は別に用事ないだろう」
 「でも、お店が」
 そうだ、それがあった。西條眼鏡店は土曜日も営業してる。
 「そうだな、店の方があったか」
 頑固一徹の職人気質のじいさんは、腕を組んで難しい顔をしてしばらく悩んでいた。さすがのじいさんもこの理由には納得するだろう。
 「志雄ちゃん、旅館の方は大丈夫だって」
 ニコニコと戻ってきたシゲじいさんに、西條のじいさんが声をかけた。
 「シゲさん、もう一件電話をお願いしたいんじゃが。お前さんの若夫婦のところ」
 「いいけど。急のお遣い物でも?」
 シゲじいさんの答えに、志雄さんがひそっと俺に教えてくれた。このおじいさん、志雄さんの店の近くの和菓子屋、花明堂のご隠居なんだそうだ。
 「つまらない用事なんだが……うちの店のシャッターに、『臨時休業』って貼り紙を」
 思わず、俺と志雄さん、同時にベッドの上のじいさんの方に向き直ってしまった。
 「そんな、いいんですか?」
 俺がさも遠慮しているように尋ねると。
 「かまわんかまわん。世間が週休二日が標準になっているところ、働き者の孫のおかげで律儀に店を開けていられたわけだしな」
 「おじいちゃん……」
 志雄さんの表情が微妙にひきつって見えるのはこちらの気のせいだろうか。
 「と、いうわけで志雄もこれで時間が取れたな。たまにはゆっくりしなさい」
 俺たちの間にうっすら漂う緊張感なんて、このおじいさんたちにはまるで感じ取れないに違いない。
いや、ほとんどの人には、俺たちの関係を察しろというのが無理な話なんだろうけれど。
 「よし、じゃあ井村くん。シゲさんも旅館まで一緒に車で連れていってくれんかの」
 じいさんの台詞には、俺たちが断る余地すらなくなっていた。
 でも、確かにこのシゲじいさんを一人で宿に帰らせるのはちょっとかわいそうだ。行きは多分、タクシーか救急車で西條のじいさんに付き添って来たんだろうから。
 「わかりました。お送りしますよ」
 「井村さん」
 志雄さんに、不安げというか不満げというか、明らかに含むところのある調子で呼ばれてちょっと胸がズキッとした。俺だってそりゃ何も考えていないわけじゃないんだけど、こういう状況のこういう用事を、頑なに断るのも気が引けて。
 それに、送るだけ送ったら俺たちは帰ってもいいんじゃないか、という目論見もあった。
 「わしは明日タクシーで駅まで行って、皆と帰るから、お前らは適当に好きなところまわって、旨いもんでも食って帰るといい」
 さらにじいさんは、枕元の財布からいくらかを志雄さんに渡しているようだった。いたれりつくせりと言おうか、なんと言おうか。
 だけど俺と志雄さん、お互いに素直にじいさんの好意を受け取れない気持ちだったのは間違いない。

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