見舞いを終えて、シゲじいさんと俺たちは夜の病院を出て。
 車に乗り込んで、その30分後には。
 俺と志雄さんは旅館の畳薫る一室で、向かい合って日本茶をすするはめに陥っていた。

 「志雄さんってさ、じいさんのみならず年寄り全般に弱くない?」
 「井村さんも人の事言えないんじゃないですか?」
 本当に俺たちはシゲじいさんを送ったら、そのまま帰るつもりだったんだけど。
 「車を降りたのが失敗でしたかねー……」
 「でもさ、なんかあそこでじいさん下ろして一目散に帰るのも大人気なくない?」
 俺たちはそこで口をつぐんで、何とはなしにそれぞれに反省モードに入ってしまう。
 車を旅館の前につけて、先に志雄さんが車から降りて、シゲじいさんを下ろすべく扉を開けてやり。 シゲじいさんに引き止められているうちに、旅館で待機していた町内会の年寄り仲間と旅館の仲居さんたちという あまりに強力な援軍がかけつけてしまい。
  “ほら、またここでね。志雄ちゃんを帰しちゃうとこっちが源さんに怒られちゃうから”
 そんなシゲさんの嘆願に似た言葉が決定打だったろう。
 正直を言えば、何となく俺はこうなるような予感はしていた。
 予感はしていたのに、何で俺からじいさんを送って行こうなんて言っちゃったのかなぁ。
 「……二人揃って年寄りに勝てない俺ら……」
 俺はそんな風に呟きながら、背中を丸めてどっしりとした花梨材の卓の上に顎を乗せた。
 「ごめんなさい」
 両手で小さな茶碗を包み込んだまま目を伏せた志雄さんにそう言われると、俺の心がチクッと痛む。
 「いや、俺の方こそ。シゲさんを送ろうって言ったのは俺だしさ」
 あの人のよいジイサンバアサンたちの好意に押し切られたのは一応、二人の責任なんだと思う。だけど、この事態に困惑しているのは、多分、俺より志雄さんの方だ。
 というか、志雄さんさえ気にしていなければ、俺は別に……むしろ、久しぶりの温泉なんてラッキーなんて思えないこともないんだけど。
 昨日、志雄さんとあんな話をしたばかりで、何でこんな試練というか、シチュエーションというか。
 ひたすら志雄さんに余計な気を遣わせているんじゃないかな、と。
 それだけが俺の気持ちを落ち着かなくさせる。
 俺たちそんな風に静かな部屋で寛げない時間をすごしているうちに、小柄小太りの仲居さんが食事を運んできてくれた。
 「こんな遅くに用意させてしまってすみません」
 普段は自分で食事の支度をしている志雄さんが頭を下げた。
 「いえいえ。こちらこそこんな簡単なものしかご用意できなくて」
 並べられたのはご飯、ふっくら玉子焼き、味噌汁、湯豆腐、ほうれん草のおひたし、塩鮭の切り身に漬物。何だか朝ごはんのメニューみたいだけど、とうに旅館の夕食の時間はすぎているし、温かいメシを食べさせてもらえるだけありがたい。
 「ビールもお持ちしましたけど。どうなさいますか?」
 「あ、いただきます。志雄さんは?」
 「じゃあ、僕もちょっとだけ」
 俺たちの返事に、仲居さんがビール会社のロゴの入った小さなグラスを二つ出し、栓を抜いたラガービールの瓶口をこちらへと向ける。
 「こんなおばさんのお酌で申し訳ありませんけどー」
 「いえいえ、そんなことは」
 志雄さんとビールが注がれたグラスを軽くあわせてから、俺がついいつもの調子で一気にビールを飲み干してしまうと、仲居さんは残りのビールを継ぎ足してくれた。
 「そちらは?もうご飯を召し上がる?」
 ビールが減らないのを見てとった仲居さんにそう尋ねられた志雄さんは、
 「お願いします」
 と答える。
 その返事におひつの蓋が開かれるとふわっと湯気の炊きたての米の甘い匂いがした。
 「それにしても今日はねぇ、お孫さんも驚かれたでしょう」
 「ええ、さすがに……祖父も歳が歳ですから」
 ニコニコと話しかけてくる仲居さんは、どうやら俺たちの食事が終わるまで付いていてくれるつもりらしい。きのう・今日と志雄さんと二人きりで沈黙しがちな時間をすごしていたことが多かった分、俺としては仲居さんが同席してくれることはありがたかった。
 「お友達の方は、お仕事何をしていらっしゃるの?やっぱり眼鏡屋さん?」
 「あ、いや、ぜんぜん違う仕事で。建物の内装設計とかやっています」
 「へぇ、じゃあこういう旅館もなさる?」
 「いえ、こういうちゃんとした和室はあまり……あ、ご飯おかわりください」
 食べだすと、あらためて空腹だったことを実感してついつい箸が進む。だいぶ疲れているであろう志雄さんも、あっさりメニューが幸いしているのか、けっこう食べているみたいだった。
 そんなわけで、20分も立たないうちに、俺たちの前に並べられたおかずはあらかた片付いてしまった。
 「じゃあ、食後すぐっていうのもなんですけど、お床の準備させていただきますから。よろしかったらその間にお風呂どうぞ」
 手際よく食器を下げながら仲居さんが言う。
 その言葉に俺と志雄さんは瞬間的に目をあわせ、そして気まずく目をそらす。
 風呂。そりゃそうだ、温泉旅館だもん。
 「あ、あの僕、風邪気味なんで……」
 ……妙な間をおいて、あまりにとってつけたような嘘を言う志雄さんが、俺にはなんかいじらしくすら思えてしまった。多分、この騒ぎで志雄さんの方が疲れているだろうに、それでも俺と風呂に入ることを回避したいらしい。
 「あら、だったら温泉でよく体を温めた方がいいですよ。それで、すぐお布団に入ってぐっすり眠れば、よくなりますって」
 田舎のお母さん節で仲居さんが心配そうに言うのに、志雄さんはますます気まずそうな表情になっている。
 「そうだよ、志雄さん。せっかくだから、温泉行こう!」
 「え……?」
 「ここにいても、仲居さんの邪魔になるしさ。行こう行こう」
 じゃあ、浴衣をお借りしますねと仲居さんに声をかけ、押入れの前の浅い塗りの箱にたたまれていた紺色の浴衣とタオルを二人分ひっつかみ、俺はかなり強引に志雄さんを部屋から連れ出した。
 夜分の廊下は静かで、俺たちの薄っぺらいスリッパのヒタヒタいう音すら響いて聞こえた。
 「浴場⇒」の札に沿って歩けば、少しずつ湿り気と石鹸らしい匂いがしてくる。
 「井村さん」
 半歩後ろからかけられた声。多分、志雄さんはいつものように困った顔をしているんだと思う。
 俺は振り返らないままで、志雄さんに伝えた。
 「なんか俺一人で温泉入らせてもらうのも気が引けるんだもん」
 「だからって……」
 「もし、志雄さんがイヤなら脱衣所で待ってるから。先に入ってよ」
 脱衣所に座るところくらいあるだろう?と言いながら、ガラリと男湯の引き戸を開け、俺は中を覗き込んだ。他にお客はいる様子はない。古めかしいマッサージ椅子も置いてあるし、待つのには何も不自由はないわけで。
 ここへきて振り返ると、志雄さんは脱衣所の敷居をまたぐのに見えない壁でもあるかのように立ち止まっている。
 「ほら」
 俺は思わず、立ちすくむ志雄さんの手首をつかんでいた。
 そのままやや強引にひっぱると、自分の乾いた掌の中に彼の骨の感触が強く響いて、はたと自分がやけに乱暴なことをしていることに気づかされる。
 「……」
 「……ごめん」
 半ばよろけるように脱衣場の方へと踏み込んできた志雄さんに俺が謝ると、志雄さんは眉尻をわずかに下げた傷ついたような表情で俺の方を見た。
 「まったく、いつだっておかまいなしなんですね」
 「どうすればいいか、わからないから」
 何ていう言い訳だよ、俺。
 あきらかに自分のほうが勝手なことをしているにもかかわらず、自分の口から出た物言いには自然といらだちが含まれていたように感じた。
 その棘が志雄さんにもわかったんだろう、彼の返事にもわずかに剣呑な気配が入り混じる。
 「だったら井村さん、もうちょっと人の話を聞いてくださいよ」
 「そうは言っても、志雄さん、そもそも漠然としたことしか話してくれていないじゃないか」
 いかん、これじゃまるでどちらかというと痴話げんかみたいだ。こんな不毛な会話のために、俺は彼の手をひいたわけじゃない。
 俺は、なんとか調子を戻そうと意識的に話す速度を落としてみる。
 「もっと言ってよ。俺にどうしてほしいのか。言ってくれないとわからないよ」
 再び、志雄さんは黙り込んでしまった。
 少し俯き加減の彼の眼鏡の丸いレンズがうっすら曇って、彼の眼差しをぼやけたものにする。
 「俺も言うから。それで、お互いできることはするし、できないことはできないと言う。それじゃダメ?」
 俺が口をつぐむと、水滴のたくさんついた浴場に続く扉のほうから聞こえてくる水音と脱衣場の隅にある小さな換気扇の音がやけに大きく聞こえた。
 「井村さんみたいな人は、相手に“できない”と言われることが怖くないんでしょうかね」
 少しの間をおいて、志雄さんから零れた言葉は独り言のようだった。
 怖くないって言ったら、嘘だよ。
 怖くないはずないじゃないか。
 そう、声に出して答えるべきかどうかほんの少し迷っているうちに、志雄さんが今度ははっきりとこちらに話しかけてきた。
 「じゃあ、僕の意見というか、希望というか。聞いてもらえます?」
 「どうぞ?」
 唐突に変わった会話の調子に、俺はうなずきながら先を聞こうとする。すると志雄さんは、おもむろに腕を組むとどこか挑戦的な調子で言う。
 「井村さん、先に入ってくださいよ。温泉」
 うーん。断る理由もまるでない予想以上にささやかなお願いだ、が。
 「え、なんで?」
 つい、聞き返してしまった。なんかそのお願いの裏に正直でない何かがある気がして。
 「僕、長湯なんで」
 う、うーん。そう言われてしまうと……。
 「そうなんだ」
 「ええ。ほら、井村さんより髪洗うのも時間かかりますしね」
 この通り、と志雄さんが男にしてはやや長い髪の襟足を止めていたゴムをはずした。さらっと毛先が動いて、まっすぐな黒い髪が彼の首筋を覆う。
 それだけで、目の前にいる志雄さんが、俺の知っている志雄さんではないように見えてくる。それは志雄さんが遠のいたのではなくて、むしろ一歩俺の方に近づいてくれたかのように感じられる光景だった。
 「井村さん?」
 「ああ、うん……わかった。じゃあ、俺が先に入るよ」
 俺の返事に、志雄さんがようやくゆるく笑う。
 「そうしてください。湯あたりしない程度にどうぞごゆっくり」
 僕はロビーで新聞を読んでますから、と言い残して志雄さんは髪をほどいたままの格好で脱衣場を出て行った。
 「風呂だけで、こう揉めちゃうんだもんなぁ……」
 がらんとした脱衣場で、服を脱ぎながら俺は思わず溜息混じりの呟きを漏らしてしまう。
 これで部屋に戻ったら布団が二つ、くっつけられて敷かれていたらどうなるかな、と一瞬思ったが。
 まずはせっかくの温泉を堪能するぞ、と強く自分に言い聞かせて風呂場の引き戸を開けた。
 途端に視界が真っ白に……え?
 「あ……」
 Tシャツを脱ぐときも眼鏡をはずすのを忘れていたなんて、どうかしている。

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