夏の盛りの深緑から秋の気配を感じさせる金色が木々の葉に刷かれ始める頃。
 梢の間から見上げる空はどんな大聖堂の天蓋よりも高く、青く、遠い。
 山と丘の斜面に広がる栗とブドウの畑に囲まれた集落。
 そんな教皇庁領の山間の村に、旅の一行がさしかかった。
 村道に白馬、葦毛、栗毛と3頭の馬が続く。
 騎乗の人は、巡礼者のように質素な薄手毛織のフード付きマントをすっぽりかぶっているが、どの馬も一目で、この寒村に似合わぬ名馬であることがわかる。
 馬と人は間を一定に保ちながら、細い村道を進み、やがて、村外れへ向かうわき道に進んでいった。
 「星の館(ヴィラ・ステッレ)」
 小さな標識が指し示す先には、門柱が星らしきレリーフで飾られているだけの石造りの館がある。その古びた表門で、騎手たちは馬を下りた。
 すぐに先頭の騎手が、手綱をまとめて、馬たちを屋敷の裏に連れていく。
 真中の葦毛の馬の騎手だった人物は、馬の行く方向を見送りつつ、目深にかぶっていたフードを後ろに勢いよくはねのけた。
 途端にこぼれおちる豪奢な金髪の巻き毛。優しい美しさに満ちた顔。なめらかな頤と柔和な表情は、キリストが愛した使徒ヨハネの画を思わせる。
 粗末なマントをまとってもなお、優雅な物腰のその青年に、彼よりだいぶ背の低い三人目の騎手が近づいて、声をかけた。
 「ロレンツォ様」
 「長旅で疲れたろう? エディオくん」
 そう言って、ロレンツォは笑いながら、傍へと来た相手のフードを、後ろへひきおろした。フードの陰から現れたのは、陽光に艶やかに光る赤毛の少年の顔。
 「ここが、弟君の……アルヴィーゼ様のお屋敷ですか」
 「ああ、弟は変わり者でね。頭はいいんだが、屋敷の手入れなどにはとんと無頓着なようだ」
 不思議そうな顔をしている少年を従えて、ロレンツォは荒れ放題の庭を見まわしながら、重厚な玄関の扉の前へと向かった。
 何年も磨かれていなそうな、光沢を失った真鍮のノッカーをするどく2回打つ。
 少しの間をおいてから、ギィっと金具をきしませながら開いた扉の先にはロレンツォと背格好のよく似た男が立っていた。
 見てすぐに違う、とわかるのは、漆黒のまっすぐな髪と左目が輝くべき場所を覆っている黒絹の眼帯だ。顔立ちは十分端正だが、隻眼ということもあいまって、相手をなごませるような甘さがない。
 「ようこそ、兄上。お待ちしていましたよ」
 「相変わらずの仏頂面だな、元気そうで何よりだ」
 そのやりとりを聞いて、エディオにはやっとこの眼帯の男が、この館の主人であるオルヴィエート公ロレンツォの実弟、アルヴィーゼであることを知った。
 春爛漫の日差しのように、輝く笑顔で再会を喜ぶロレンツォに対し、この館の主でもあるアルヴィーゼの微笑みはせいぜい真冬の小春日和。あきらかに流行に逆らった、彼のビザンツ風の丈の長い黒い上着も、横から二人を見ているエディオには違和感が感じられた。
 「グイドは?」
 「馬を裏につなぎに行っている……ああ、戻ってきた」
 先頭の騎手を務めていた男もフードをとってやってきた。髪にだいぶ白いものがまじった壮年の頭がうやうやしく、アルヴィーゼに下げられる。
 「ごぶさたしております、アルヴィーゼ様」
 「相変わらず、堅苦しいやつだな」
 館の主は苦笑すると、三人を屋敷の中に招き入れた。
 アルヴィーゼの片方だけの琥珀色の瞳が、エディオに注がれたのはその後のことだった。
 「兄上、彼は?」
 「ああ、紹介が遅れたな。実は、お前の従者にどうかと思って連れてきた。エディオ・チェッリーニ君だ」
 ロレンツォの紹介にエディオは小さく頭を下げた。
 「従者? また何で。俺はマリアのババァが通ってくれれば用は足りてるんだがな」
 「誰がババァだい」
 主人と客に飲み物を運んできた黒い服の老婆にぎろり、とにらまれ、アルヴィーゼは貫禄もなく肩を竦めながら、遠慮のない口調でロレンツォに尋ねた。
 「どういう風のふきまわしだ?」
 「……お前、前にラテン語とギリシア語ができる奉公人がほしい、と言っていたじゃないか」
 旅装を解き、豊かな金髪が映える濃青色のビロウドのチュニック姿となった兄の言葉に、アルヴィーゼは少し考えてから、小さく膝を打った。
 「言ったな、そう言えばそのようなことを」
 前回、ロレンツォの訪問を受けたとき、隻眼のアルヴィーゼは
 「片目だけで本を読むのがつらい時がある。せめてラテン語とギリシア語が読める従者がいてくれたら、朗読でもしてもらえるのに」
 と酒のいきおいでぼやいたのだった。
 酒の席の愚痴だと割り切り、そのことを忘れていた弟に対し、誠実な兄は本当に条件にかなう人物を探してくれていたのだ。
 アルヴィーゼはあらためて、かしこまった様子で兄の隣りに座っているエディオを見た。
 うっすらとそばかすの浮いた色白の顔。そよ風でも受けたようにわずかにうねった赤い髪は肩で切りそろえられている。騎士の小姓たちのように、麻のシャツと毛織の質素な衣服を身に着けているが、小姓と見るには青い目の表情が大人びているのは若くして得た知識と教養のせいか。
 「年はいくつだ」
 無遠慮な調子のアルヴィーゼの質問にも、エディオは淡々と答えた。
 「17……です」
 「言葉は何ができる? どこで学んだ?」
 「ラテン語とギリシア語は読み・書き・会話すべてできます。ペルージャの大学とバチカンの神学校で学びました」
 少年の淀みのない返答に感心した様子を見せ、喜んだのはむしろロレンツォの方だった。
 「ローマから、ジャンピエトロ枢機卿のご紹介でね。非常に優秀な学生さんだったのだが、家庭の事情で大学を中退したということだ。勉学も続けられて給金をもらえるところということで、枢機卿はお前のことを思い出されたらしい。ぜひお前のところで、という推薦状付きだ」
 「君はそれでいいのか? オルヴィエートの城に務めるほうがよほど給料はいいぞ?」
 アルヴィーゼのからかうような調子にも、エディオは真面目な顔を崩さず言う。
 「アルヴィーゼ様の蔵書は、城の蔵書よりはるかに多いと伺っています。お給金は安くても、本を読ませていただけるのでしたら、私はこちらで働かせていただくことを望みます」
 少年のかたくなな態度に、アルヴィーゼは小さく溜息をつくと、たった一つの眼を兄の方に向けた。
 「彼がそのつもりなら、ちょっと試験をさせてもらって……話しはそれから決めよう」
 「試験?」
 「ああ……実際にどれくらい読めるのか、確認させてもらいたい。あくまで俺の眼の代わりとして、働いてもらいたいからな」
 「ずいぶん、慎重じゃないか?」
 「本の整理や写本なんかも引き受けてほしいと考えている。俺は生半なやつでは納得せんよ」
 そう言ってアルヴィーゼが値踏みをするようにエディオを見やると、少年は
 「やらせてください!」
 と自信のあふれた若々しい声で答えた。
 「だったら、彼はお前にあずけていく。また明日様子を見に来ることにしよう」
 そう言うロレンツォに、アルヴィーゼは少しとまどった表情を浮かべた。
 「明日? 泊まっていかないのか?」
 「ああ、今年の年貢について、隣りの村でこの界隈の村長たちが集まるんだ。そこに同席する約束があってな。逆にいえば、エディオ君のことはこの仕事のついで、というわけだ」
 「ふむ、大変だな領主殿は。俺は次男坊に生まれて正解だったようだ」
 大げさなアルヴィーゼの嘆息にロレンツォは小さく笑った。

 夕食後。
 賄いの老女のマリアが屋敷を出るのを見届けてから、アルヴィーゼはエディオを寝室と一続きになった書斎に呼んだ。
 「じゃあ、始めようか」
 「はい、よろしくお願いします」
 アルヴィーゼは一冊のまだ新しそうな子牛革装丁の本をエディオに手渡した。
 「栞のはさまっているところから朗読してくれ」
 そう言うと、アルヴィーゼは長い黒衣の裾をひるがえして肘掛のついた椅子に深く腰掛け、エディオの姿を眺めるように視線を彼に送る。
 エディオは促されるままに薄い栞がはさまったページを開き、そこに書かれたラテン語の文章をとうとうと読み始める。
 『人間の精神の養いとなる多くの、そして種々の研究のうちで、最大の熱意を持って追及するべきものは知識の最も美しく最高なるものに関する研究であると私は思う。それらは最高の天とあらゆる星の回転、大きさ、距離、出現、その他の現象を扱うものであり、最後にその全体の形を説明するものである……』
 「もう少しゆっくりと」
 「語尾をはっきり」
 役者に指示を出す劇作家のようにときおり指示をはさみながら、アルヴィーゼはエディオの朗読に聞き入っていた。組んだ足を組みかえることもなくじっと肘掛に乗せた腕の先に頭をあずけて読み進むに連れて、エディオの表情が微妙に変化していくのに注視している。


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