宇宙は球形なること。
 地もまた球形なること。
 地は水とともにいかにして球形をなすか。
 天体の運動は一様で円いこと、あるいは円運動の合成なること。

 章が進むごとに、エディオの表情は最初の静かな自信に満ち溢れた様子から、緊張と不安の入り混じった色合いを帯びてくる。
 『第五章。円運動は地球にもあてはまるか。あるいはその場所』
 新たな章にさしかかると、アルヴィーゼはわずかに姿勢を変えた。
 それだけで、エディオにはすぐ前にいる試験官のたった一つの目が一層、強く自分に突き刺さるような感覚をおぼえ、小さく息を呑むと努めて平静を装いながら、朗読を続けた。 注視されていることを意識しながらエディオは朗読を続けていたが、進むにつれて少しずつその速度は落ち、声はじりじりと小さくなっていった。
 「どうした?」
 アルヴィーゼの問いかけにエディオは顔を上げた。
 「その……文章が読めないんじゃないんですけど……」
 口ごもったエディオに、試験官の男は意地悪さとやさしさが入り混じった調子でさらにたずねた。
 「難しいか? 極めて明快なラテン語だろう?」
 確かに、文章そのものは平易で論理的なものだった。エディオが朗読を続けられなくなったのは、そんな理由からではなく。
 「言っていることが……その、地球が太陽の周りを回っているなんて……」
 それを聞いたアルヴィーゼは皮肉さを含んだ笑みを口元に浮かべ、とまどいの色を隠せないエディオに言う。
 「君に、その説を信じろとは言っていない。受け入れ難いというのなら、田舎の素人天文屋の戯言とでも思って読めばよろしい」
 言われたエディオは仕方なく、再び本を開き、続きを読み始めた。
 そこにあったのはエディオの知る世界を支配するアリストテレスと聖書を根本から覆す世界の姿だった。
 エディオの信仰は「本を閉じよ!」とささやくのだが、エディオの理性、というよりむしろ言葉にならない欲望にも似た好奇心はこの本と、目の前でじっとエディオの声を聞いている男に強い求心力を感じていた。
 恐る恐る内容を読み上げていたはずのエディオは、いつのまにか目の前のアルヴィーゼのことを忘れ、自分が音読しているのか黙読しているのかわからないくらい本の内容に踏み入っていた。眼が字をたどり、頭が論理をなし、頭の中がそのまま外にこぼれおちるかのように、本の内容がエディオの声となって外に出て行く。
 「エディオ……エディオ・チェッリーニ君!」
 フルネームで呼ぶ声にエディオは現実に引き戻され、座っていたはずのアルヴィーゼがエディオの傍らに立ち、じっと彼と彼の手の書物を見下ろしていることに気づいた。
 夢中になっていた自分が急に気恥ずかしくなった少年ははうつむき、開いたままのページに目を落とした。
 「いい朗読だった。内容をきちんと理解しているな」
 その本の内容が内容だけに、誉められても素直に喜べないでいるエディオにアルヴィーゼの声が降ってくる。
 「君の才は申し分ない。声も気に入った。この館にとどまるかどうかは、君次第だ」
 「僕次第……」
 ぼんやりと顔をあげたエディオの耳元に、アルヴィーゼは決して誰にも知られてはならぬ事柄のように口を寄せ、ささやきかけた。
 「誓えるか。ここの書庫の秘密を」
 それはまさに悪魔の誘惑だった。
 “知恵の実の樹”の下で、蛇が自分に話しかけてきている。
 エディオは冷たい汗が背筋に湧くのを感じた。
 「君の心の王は信仰じゃない。王冠を戴いているのは理性と真実への渇望だ。違うか?教会の知らない神の姿を見たいとは思わないのか?」
 地動説の本を膝に置いたまま固まっている少年に、アルヴィーゼは小さな真鍮の鍵を差し出した。
 「この館の真の書庫の鍵だ。俺に仕える気があるなら受け取るといい」
 言葉ではエディオに選択権があるような物言いだったが、エディオはすでに自分には選ぶ余地がないのだと感じていた。熱線のように感じる、アルヴィーゼのたった一つの琥珀の眼はエディオに拒むことを許さない、と伝えている。
 エディオは速くなる鼓動に震える手を、アルヴィーゼの大きな掌に載せられた鍵へと伸ばした。
 少年のしなやかな指先が鍵に触れるか否かのところで、アルヴィーゼの指がすばやく折りたたまれた。食虫花に取りこまれた虫のように、エディオの手は硬い鍵とともに熱を帯びたアルヴィーゼの手の中に捕らわれていた。
 「来るんだ」
 アルヴィーゼはぐい、とエディオの腕を引き寄せて寝室の方へと連れて行く。
 天蓋付きのベッドの横にかけられた大きな姿見。
 アルヴィーゼが金色の枠の中に咲くバラの蕾をひねると、そのレリーフの下から小さな鍵穴が現れた。
 「さあ、その鍵でここを開けるがいい」
 アルヴィーゼはエディオを姿見の前に立たせ、背後から明かりを掲げた。
 うながされるままに、汗ばんだ手でエディオはそろそろと手にした鍵を鍵穴の中に差し入れる。かすかな手応えと錠の音。
 さっと黒い影がエディオの顔をかすめた。
 びくりとあとずさって初めて、それが後ろから伸ばされたアルヴィーゼの服の袖だということがわかる。
 アルヴィーゼの腕がまっすぐに鏡の枠を押すと、鏡は加えられる力のままに扉となって開き、閉ざされた空間に二人を導き入れた。
 周到に隠されていたその小さな部屋はまさに神秘の殿堂だった。
 天井は寝室よりも高く、天窓にはめられた蒼いガラスから今宵の満月の光が差し込み、アルヴィーゼの持つカンテラの炎の揺らぎとあいまって、まるで湖の底にでもあるような印象を受ける。
 出入り口以外の壁という壁は、天井まで届く書架となっており、色とりどりの革で装丁された豪華な本がぎっちりと詰められていて、高い位置の本も取れるように真鍮で飾られたはしごがかけられている。また、一部の書架は下の方が格子状の棚になっており、様々な巻物が納められ、何が入っているのか想像もつかない異国製の箱もいくつか見えた。  入ってすぐのところで息を呑み、立ち止まってしまったエディオの背中を押し、書庫の主は部屋の中央の小さなテーブルへと歩みよってカンテラをそこに慎重に置いた。
 エディオはそろりと足を踏み出し、すぐ脇の書架から納められた本の背表紙をじっと眼で追って行った。
 異教の神話。教典。異端の教義。
 聖書に立ち向かう自然科学。海の果ての国の地理や歴史や風習。
 予言。占星術。錬金術。魔術。
 奔放な愛の告白。隠された歴史。
 教会が燃やし、排除しつづけてきたあらゆる種類の書物がそこにはあった。
 さっき、夢中になって地動説の本を読んでいたエディオが部屋を一周する頃には、彼が物心ついたときから説かれてきた教会の掟と信仰が、少年に底抜けの罪悪感を植え付けていた。
 自分がいるこの部屋はまさに悪徳の象徴、バビロンの図書館。
 エディオは突然、息苦しいまでの動悸と恐怖に苛まれて、アルヴィーゼに背を向けたまま動けなくなった。
 「……どうした?」
 再びカンテラを手にしたアルヴィーゼは、不自然に動きを止めたエディオに気遣わしげに近寄り、その顔を覗いた。
 エディオはアルヴィーゼの顔を見ることができず、うつむいて首を小さく振ると、表の世界へと続く鏡の扉へと向かった。
 悪夢から目覚めたような寝室の光景。
 素通しのガラスから差し込む、色のない月の光。
 ほおっと息をはくと、ロレンツォを置いて一人で戻ってきたことを思いだし、少年は冷たい汗の浮いた顔を再び鏡に向けた。
 後を追うように、鏡の扉から現れた黒衣のアルヴィーゼはその時のエディオにとっては悪魔の化身のように見えた。


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