ひとつ深呼吸をしてから、エディオは主の部屋の扉を軽く叩いた。入室を促す短い返事を聞いてから、不慣れな従者は片手で銀盆を支えながら、そっとその扉を開く。
 「お飲み物をお持ちしました」
 すでに昨日同じ黒い長衣に着替えたアルヴィーゼは、一人用の寝台ほどもありそうな机の前に座り、積み上げた書物に目を通しているようだった。
 「ああ、そこに置いておいてくれ」
 書物から、唯一の眼を上げることもなく無造作に言った主人の命に従おうとしてエディオは困ってしまった。
 主人の言う「そこ」とはどこなのか。
 机の上はくまなく書物やら巻物(スクリプト)やらが置かれ、とてもワインを満たしたゴブレットなどを安らかに置けるところではない。
 どうしたものかと乱雑の域に入る主の机上に目を泳がせているうちに、エディオは見覚えのある書物の革表紙を見つけた。
 『天球の回転について』。
 昨夜に朗読を命じられた、あの本。地球が太陽の周りを回っているのだと唱える驚くべき内容の。
 エディオの脳裏に途中までめくっていた本のページが甦る。読みかけていた最後のセンテンスを思い出すと、不意にその続きが気になり始めた。
 そこに書かれたことをさらに知りたいと思う気持ちと、それを戒める心がせめぎあうだけで脈が微妙に上がり、エディオは少しの息苦しさを覚える。
 思い出さねばならない。主人の帰宅前に自ら悔悛の涙とともに祈った懺悔のことを!
 「あの本の続きが気になるのだろう?」
 いつのまにか、アルヴィーゼの眼差しは、盆を掲げたまま動けなくなっていた赤毛の少年へと注がれていた。
 眼光鋭い主人に思考を読んだかのような指摘を受けて、エディオは慌てたように書物の方から目を背けた。
 もう少し近くへ、とアルヴィーゼがエディオを差し招いた。ひどく緊張した面持ちでおずおずと歩み寄ってきた若い従者がが捧げ持つ盆から、隻眼の主はゴブレットを取り上げ、塞がっていないもう一方の手で今さっきまで従者の視線が向けられていた書物を取って空いた盆の上に乗せてやった。
 ただでさえ重い銀盆にさらに厚い書籍の重みを加えられて、エディオの身体が小さく傾ぐ。
 「自室で好きなだけ読むといい」
 それがまるで思いがけない言葉であったかのように、エディオの表情は困惑の色を帯び、その視線は落ちつかなげに自分の手元に置かれた本とそれを置いた主人の顔との間で往復した。
 「もう、下がってよい。夕食のときにでもまた少しその本の話をしよう」
 暗に預けた本に目を通しておくことをエディオに促しながら、アルヴィーゼは再び手元の書物へ身体の向きを変えた。
 途端にエディオには、書籍を盆に載せたままという自分の様子が道化じみたものに感じられた。
 そして彼は慌てて重い書籍を小脇に抱え、盆は何とか片腕で支えるように持ち直してから小さく会釈をして主人の書斎を出て行った。

 扉が閉まる音を耳にしてから、アルヴィーゼはあらためて顔をあげ、閉められたばかりの自室の扉を見やった。
 人によっては酷薄そうに見るであろうその薄い唇に笑みが浮かび、小さな独り言が漏れる。
 「堕ちる、な」
 書籍を与えたエディオは確かに戸惑ったような表情を見せていたが、あれは彼がそれまでに身に着けていた常識が付けさせた仮面に過ぎない。
 その仮面の向こうに見えた若い青い目は確かにある種の「欲」を帯びていた。
 それは甘い菓子を目の前にした子どもにも似ているし、珍味を見る美食家、美女を見る好色な男のそれにも似ている。
 昨晩のエディオの朗読を聞いて得た予感が、アルヴィーゼの中で確信に変わっていた。
 あの赤毛の従者は自分と同じ快楽を求めるようになるだろう。
 かけがえなき、知の快楽を。
 本人もまだ気づいていないかもしれないが、手を差し伸べれば近いうちに彼は自分と同じところへと下りてくる。
 人間を知恵へと誘惑する楽園の蛇の役を演ずることは、無垢の身体に情交の悦びを教えることよりも、この館の主には強く関心の持てることだった。
 地動説について、あの純真で頑なな少年にどのような質問を投げかけてやろうか。
 天文学の本だけではない。医学、錬金術、占星学。
 あるいは最近教皇庁が目の敵にしているルターやフスの著作でもいいだろうし、エラスムスやアグリッパのような人文学者の言い分を読ませてやるのもいいだろう。
 聖書をゆるりと読ませてもよいのだ。教皇は聖書を一般市民が個人的に嗜むことを禁じているのだから。
 いっそフィレンツェの“過激なる説教師”サヴォナローラが盛大に燃やした『デカメロン』や『大モルガンテ』のような少し下世話な話を、あるいは大いに下世話なアレティーノの『ラジオナメンティ』などを朗読させたら、どのようなことになるだろうか。もっともエディオの様子では娼婦と女衒の会話など想像も及ばないかもしれないが。
 自分の膝においた書籍のことを一時頭から追い払い、つらつらとそのようなことを考え出したアルヴィーゼは、自分がここ数年来忘れていた感覚、名づけるならば「楽しい」と呼ぶのが正しいであろう感情を味わっていることに気がついていなかった。


 このような山間部にあっても、比較的近くの村の中心部にそびえる教会の尖塔から時を刻む鐘の音のこだましがぼんやりと聞こえてくる。
 宵の訪れを告げるアンジェラスの鐘。
 無神経ないようでいて意外と几帳面な賄いの老女が、毎度この鐘きっかりに夕餉の支度を整え終えることをいいかげん知っているアルヴィーゼは自分を呼ぶ声を待たずに部屋を出た。
 いつものように食堂に入れば食欲をそそる香りが台所から漂ってきている。
 「ああ、今、エディオさんに呼びに行かせようと思っていたところでしたよ」
 パンを持った籠をテーブルへと運んできたマリアの台詞に、アルヴィーゼは
 「では、俺が彼を呼んでくるとしようか」
 と微塵の気取りもなくまた食堂を出た。
 自室の隣の少し小さな扉を叩いて、中にいるであろう人物に声をかける。
 「エディオ。食事の支度ができている。来なさい」
 「は、はい。すぐ参ります」
 アルヴィーゼは無遠慮に扉のノブを回して静かに押してみた。錠はかけられていなかったらしく、そのまま開いた扉の隙間からは蝋燭の灯りに照らされてあの本を抱えたエディオの姿がちらりと見えた。
 エディオは見られたことに気づいているのかいないのか、本を慎重な手つきで小さな備え付けの机の上に置き、蝋燭の炎をふっと吹き消してから慌てて部屋を出てきた。
 「失礼しました、アルヴィーゼ様」
 「本を読むには、1本の蝋燭では暗いだろう。居間に使っていない枝分れの燭台があるから、あれを使うといい」
 「はい、ありがとうございます……」
 遠慮がちに答えるエディオを連れてアルヴィーゼが食堂に戻ると食卓は二人分、完全に整えられていた。
 隻眼に正面から見つめられるような席に着くように指示され、赤毛の少年はまた戸惑いを隠せぬ様子で足を止める。従者が主人と食卓を共にするなどエディオには考えられないことだったからだ。
 「あの、ご一緒の席でよろしいんでしょうか……?」
 「そうでなければ、二枚も皿を乗せぬよ。一人でないと食事も進まないか?」
 むしろ不機嫌そうに言われて、慌てて首をふったエディオはそろりとあてがわれた席の椅子をひいた。
 「あたしじゃ旦那様の話し相手にはなれないからねぇ。まあ食欲もなくなるかもしれないが、お勤めと思ってこれからはその席で食べるんだね」
 そんな遠慮のないマリアの口ぶりにアルヴィーゼは小さく肩をすくめ、着席したエディオはますます恐縮したように身体を縮こまらせた。

 「で、あの様子だと読んでいたな」
 「はい」
 肯定の返事をするエディオの顔色は、咎めを受けた者のそれに似ていた。
 「まあ、時間もなかったからさして読み進んではいないだろうが。どの辺りを読んだ?」
 「昨夜は栞をはさんだところからだったので、とりあえずまったくの最初から、です」
 料理番でもある老女の基準で“若い男性にふさわしい量”を盛り付けられた茸とオリーブ油をからめたチリオーレ(ウンブリア独特の卵をいれないロングパスタ)をそれぞれフォークでつつきながら、二人はいつのまにかどちらかというと大学の教師と学生に似た趣の会話を交わしていた。
 「序盤の印象はどうだった」
 率直にあの地動説の書物のことを尋ねる主人に対し、未だそのまさに“天地がひっくりかえったような”内容に違和感と背徳感をぬぐえないままのエディオはおずおずとした調子で口を開いた。
 「……少々、不思議に思えました」
 「不思議?」
 目の前の少年が意外な感想を口にしたことに、アルヴィーゼは食事の手を止め、葡萄酒で口をすすぐとさらに質問を投げかけた。
 「どのようなところが?」
 「昨夜に朗読した時は、あの本の著者はまったくゆるぎない自信を持って説を展開しているような印象を受けました。それにもかかわらず、序文には『天文学については確かなものを期待するのは無理なことであり、この仮説についても正しいあるいは正しくないということについては必要なことではない』というようなことが書いてありました」
 訥々と答えるエディオを見つめるアルヴィーゼには、思うところを述べるうちに少年の眼の輝きが強くなっていくように感じられた。
 「あの序文だけが著者の意図と違うところにあるような……そんな風に思えて」
 「なるほど、君の読解には恐れ入る」
 教師の口調でアルヴィーゼは言いながら、再びフォークを手に取った。
 「俺も詳細については知らないが。あの序文はまったくの赤の他人が付け加えたものらしい」
 「そうなんですか?」
 「ああでも書かなければ、教皇庁に火炙りにでもされると考えたのだろう。もっとも、著者の男も周到で、出版の翌年にはきちんと死んだそうだが」
 「自殺ですか?……それとも刑死とか」
 少し怯えたように声を落としたエディオに、アルヴィーゼは一瞬、本来の年齢にふさわしい朗らかな笑みをその秀麗な顔に過ぎらせた。
 「そういう話は聞いていないな。ごくまっとうに他界したらしい」
 その他にもアルヴィーゼが著者のコペルニクスというエルムラント辺境伯領を取り仕切っていた司教について知るところを話すのに、エディオはいたって真面目な表情で耳を傾けていた。
 やがて、二人の話題はこの説と真っ向から対立する天動説を唱えるプトレマイオスの『アルマゲスト』へ。また戻って『天球の回転について』を巡る教皇庁の動きとそれを糾弾する“プロテスタント”の言動について。
 古今の書物の引用と最近の中央の動静を交えながらアルヴィーゼとエディオの間で行きかう問答は知らずとそれぞれの学究心に火を点けていた。
 「まったく最初の夕食からこの様子ですか。食事の時間は食事してくださいよ。ここは大学ではないんですから」
 いつまでも、食卓を片付けられない夕餉に業を煮やしたマリアが二人の会話に水をささねば、二人はそのまま食堂で夜を徹してでも話し込む勢いであった。



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