食堂を出たエディオは、マリアに指示されたように大した大きさもない自分の手荷物を主の書斎の隣の部屋へと運び入れた。
 そこは決して広くはない部屋だったが、貴族の館の客用寝室としては地味なくらいの上品なしつらえが整えられていた。心地よく日光を取り込む窓から外を見れば、館の裏庭に面しているらしく、すぐに目に入るのは枯れかけた棘だらけのイラクサの藪と雑木林へと通じる木立ちだ。
 この部屋の住人となる少年は荷解きもせずに、床にひざまづくと清潔な麻のシーツで覆われたベッドが祈祷台であるかのごとくに半身をもたせかけ、組んだ手に頭をあずけて祈りの姿勢をとった。
 「神よ……」
 エディオは、十字架もなく聴罪僧もいない虚空に向って悔悛の思いを告げようと昨夜のことに思いを巡らせ始めた。
 神の創りたもう世界を否定する書物に心を奪われた。
 男が男と交わりを持つという禁忌を犯した。
 たとえ、自分から望んだことではないといえ、肉体は完全にあの男の与える痛みと快楽の境界を失った罪深き行為に屈服していた。
 「お許しください……」
 何故、こんなことになってしまったのか。
 今朝から自分に問いかけてきたことを、また祈りのうちに繰り返す。
 エディオの罪悪感は少年の記憶の時計を遡らせ、その脳裏に緋の衣をまとう老人の面影を浮かばせた。
 エディオをここに遣した、世界の断罪者を自認する枢機卿(カルディナーレ)。
 「すみません……枢機卿様」
 異端を糾弾するテアティノ修道会の総長であり、異端審問所の所長でもあるジャンピエトロ・カラッファの前で、確かに自分は自信を持ってこの役目を引き受けていたはずなのに。
 正義の徒として異端者の罪を告発するはずが、今や、自身が裁かれかねない罪を背負ってしまっている。
 エディオは重なり合う指と指が痛いほどに、強く両手を組んだまま祈りとも後悔ともつかぬ逡巡を続ける。
 ああ、あの時に。
 枢機卿の任務をわずかの躊躇もなく引き受けた傲慢もまた罪であったか。
 善良なオルヴィエート領主を当然のように欺いたことも罪であったかもしれない。
 考えるほどに増す混乱、終りのない輪を描く思考に少年は知らずのうちに、涙を流していた。
 罪には罰として罪が与えられ、まるで金貸しの帳簿のように罪が積もっていくのだとしたら。一体、そこにはどんな贖罪があるというのか。
 「神様……」
 自ら死を選ぶことを禁じる教義がある以上、死すらも罪の償いにはならない。
 「神様……どうか……」
 教えてください。
 罪とは。
 許しとは。
 「僕のなすべきことを教えてください……」
 少年の祈りはいつしかすすり泣きに変わり、やがてそれも静かになっていった。


 扉をノックする音が、エディオを色のない夢の淵から呼び戻した。
 「エディオさん? アルヴィーゼ様がお戻りですよ」
 祈りの姿勢がほどけたような具合で、ベッドの上に突っ伏して眠っていたエディオは老婆の声に慌ててその身を起こした。
 窓からはすでに日は遠ざかり、部屋の中もだいぶ薄暗くなっていた。窓越しに裏庭の木々の枝葉が影絵のように青紫色を帯びた夕闇の中に黒々と映えている様子が見える。
 「エディオさん?」
 「はい、ただいま参ります」
 ごし、と目元をこすってから一つ深呼吸をして、少年は扉の真鍮づくりの取っ手を回した。
 すでに燭台に火をいれた居間は、金色を帯びた温かい光に満たされておりエディオの部屋よりもだいぶ明るかった。
 そんな中、玄関先からひんやりとした冷気が伝わっているように感じられるのは、秋に向う山風が吹き込んだからというだけではない。
 屋外から戻ってきた館の主の佇まいそのものが、蝋燭の光が生み出すゆらぐ影に似ていた。
 すでに外套をマリアに預けていたアルヴィーゼは、昨日にエディオが見ていた黒い長衣ではなく黒テンの毛皮で縁取りした濃い焦茶色のチュニックと同色のビロウドのズボン、そして膝まで届く丈の乗馬用の黒いブーツといういでたちで、おずおずと近づいてきた新しい従者へと顔を向けた。
 「逃げなかったのだな」
 かすかに揶揄を含んだようにも聞こえた男の問いかけに、エディオの言葉は戻ってこなかった。
 「また泣いてでもいたか? 瞼が少し腫れているぞ」
 からかうように顔へと伸ばされたアルヴィーゼの指先に、エディオは反射的にびくりと半歩未満の動きで小柄な身体をひく。
 その反応にアルヴィーゼは、昨晩の褥で自分が与えた懲罰が十分にこの少年を戒めていることを感じて、満足したような小さな笑みを浮かべた。
 老婆がアルヴィーゼの外套を片付けて戻ってくると、館の主はそちらに向き直って
 「少し買い物をしてきた。表に荷物が置いてあるからエディオに手伝ってもらって適当に始末しておいてくれ」
 と命じ、エディオにもマリアを手伝うように、と言いつけた。
 「俺は着替えて休んでいる。夕食ができたら声をかけてくれ」
 そう言って、アルヴィーゼはエディオの傍らを過ぎ去り、自分の書斎へと消えていった。
 あの主人に何と言ってどう接すればいいのかと悩んだ時間が空しく思えるほどのやりとりで済んだことに、エディオはとりあえず小さく息をついた。
 「何もそんなに緊張するような勤め先じゃないよ」
 エディオの複雑な胸のうちを知る由もないマリアが、まったく新米の勤め人に対するようにエディオに声をかけてその厚みのない背中をたたいた。
 「さあ、アルヴィーゼ様もああ言っておられるし手伝ってもらうかね」
 エディオはマリアに従って、台所に通じる出入り口から玄関先へと向った。
 今日初めて外に出てみれば、秋の夕暮れに吹く風は、薄着のエディオにはかなり肌寒く感じられた。
 馬たちが繋がれた厩舎の脇、手入れのされていない庭に茂った夏草がそのまま干からびている茂みの中に、無造作に大きな籠が置かれていた。
 「これ、でしょうか」
 覗きこんでみると、カブやニンジン、いくつかの布袋などが目に入る。
 「ああ、そうそう。台所まで運んでおくれ」
 言われるままに籠の取っ手をつかんで持ち上げてみると、華奢なエディオが思わずよろめくほどの重さだった。
 それでも、見栄も手伝い何でもないかのようにエディオが台所の土間までその籠を運んでいくと、あとから来たマリアは置かれた籠の中身を台所の作業用のテーブルに広げ始めた。
 カブ、ニンジン、玉ネギ。黒パン。布袋の中身は栗や豆らしい。
 「これは……?」
 最後のほうに並べられたのは、さらに小さい粗末な籠だった。マリアが蓋をとると、中にはいくつものキノコが入っていた。
 「アンズタケ、ヤマドリタケ、アミガサタケ」
 奇怪にも見えるかたちのキノコを、老婆は指差しながら教えてくれたがエディオには今ひとつはっきりと理解ができなかった。
 ただ、漠然とこういう野菜やキノコをあの館の主人がどこぞの村で買い入れている様子を頭に浮かべると、それはどこか冗談じみた光景に思えた。
 「こういう買い物は、アルヴィーゼ様がなさっているのですか?」
 「そうさね。馬の世話も自分でなさっているし、水汲みでも薪割りでもなさるときはなさるよ」
 何せ、私が来る前は本当に御一人で何年もここでおすごしだったのだから、と老婆が少し目を細めて言った。
 今や完全に教皇庁の支配下に置かれているとはいえ、仮にも誉れ高きオルヴィエートの領主の実弟であるアルヴィーゼが、身の回りのことを誰にも任せることなく村の男たちと同様に暮らしていたとは。
 エディオは、その話を聞いてわずかに主人である男に親しみをおぼえたが、あらためてアルヴィーゼの隻眼の表情を思い返すと、胸によぎった柔らかな感情もたちまちのうちに冷えていった。
 「じゃ、台所はもういいから。飲み物をアルヴィーゼ様に持っていっておくれ」
 追い討ちをかけるように老婆が、食堂のキャビネットにゴブレットとワインのデカンタがあることを告げる。
 水汲みや薪割りの方がはるかに楽だと思いながらも、エディオはマリアに一つうなずいて素直に食堂へと向った。
 食堂のキャビネットは決して大きなものではなく、ほどなく陶器の瓶に入ったワインと銀のゴブレット、ゴブレットと揃いの紋章を刻んだ小さな銀の盆が見つかった。
 エディオが慣れない手つきで瓶をゴブレットへと傾けると、芳醇な香りを辺りに漂わせる紅玉色の液体が流れ出して、銀の器を満たし始める。
 用意の済んだゴブレットを盆に載せて両手に持ってみると、貴金属の重みがずしりと感じられ、エディオの緊張を一層強くした。
 そして食堂を出て、居間を通り、主の書斎の前に立つ。
 両開きの扉をノックする前に、赤毛の少年がもう一度手元を見ればゴブレットの中のワインはわずかに波打っていた。ゆらゆらと灯りを反射する液面の様子に、エディオはいつのまにか自分が震えていることに気づかされた。


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