翌朝早く。
再び屋敷に立ち寄った兄のロレンツォとその従者である老グイドを、アルヴィーゼは一睡もしていない素振りなど見せずに、常の服装であるベネチア男のような東方風の黒い上着と黒絹の眼帯といういでたちで出迎えた。
まだ通いの賄いであるマリアが着ていないため、館の主自らが厨房から果物やパンを持ってくる様子を見て、テーブル席にもつかぬまま兄が尋ねる。
「エディオは?」
「まだ、眠っている。長旅で疲れているのだろう、起こすこともあるまい」
「で、彼はどうだった? 使えそうか?」
「ああ、非常に優秀だ。ここで雇わせてもらうよ」
そうか、それはよかったと無邪気なまでににこやかな視線を向けるロレンツォにアルヴィーゼは、心にだけ苦笑の表情を浮かべる。
兄は何も知らない。
自分が連れてきた少年が、オルヴィエートを疎ましく思っている男の間者であったことも。
そんな彼に自分がどんな仕打ちをしたのかも。
「エディオを紹介してくれたジャンピエトロ枢機卿にくれぐれも宜しく伝えておいてくれ。『彼には十分に勉強する機会を与えようと思う』と」
事実からすれば嫌味以外の何ものでもないアルヴィーゼの言葉も、純真なロレンツォは実に素直に受け止める。
「わかった。枢機卿も彼のことは随分気にかけておられたようだ。彼の希望がかなったのであれば、喜ばれることだろう」
そんな彼の様子を見て、アルヴィーゼはわずかに逡巡した。多少なりとも兄にジャンピエトロ枢機卿に対して警戒するように伝えておくべきであろうか。
助言を求めるように一粒の琥珀に似た眼を老練の騎士でもある従者に向ければ、自分の主の人となりを熟知している男は小さく首を横に振る。
人間としての徳と領主として必要とされる資質は必ずしも一致しない。
この上なく純真で善良な兄にこのような話を聞かせてしまえば、彼は次に当の枢機卿に会ったときに、平静を保って話などできなくなってしまうことだろう。
そのことをアルヴィーゼもグイドも十分に予想していたし、だからと言ってそれを理由にロレンツォを領主の座から追おうとも考えていないのもまた二人同じであった。
そんな弟と従者が声なき会話を交わすのに気づいて、ロレンツォは小さく首を傾げたがそれ以上は何も尋ねようとはしなかった。
「さて、慌しくてすまないが早々に発とうと思う。エディオには宜しく伝えておいてくれ」
「そうか。まあ今のうちに出るなら確実に夕刻までには城につけるだろうしな」
出立を告げる兄の言葉はアルヴィーゼにとっては都合よいものだった。
エディオが起きてこぬうちに、二人には館を去ってほしいというのが当主の偽らざる心境であった。
義姉様に差し上げてくれ、と過日に村人から買い求めたばかりの大粒の干しブドウを一袋と栗の粉で作った素朴な焼き菓子の一包みを兄にあずけて、アルヴィーゼは二人を館の門扉まで送って行った。
そして、馬にゆられる彼らの後姿が見えなくなるのを待たずに屋敷に戻る。
朝の陽光と静けさに満ちた邸内は昨日とさして変わらぬ光景を見せるが、一人の少年が自室にまだ眠っていることを思えば、アルヴィーゼにはそこにある雰囲気とでも呼ぶべきものが異なって感じられた。
省みれば、誰かと一つ屋根の下で寝起きをする暮らしなど何年ぶりのことであろうか。
ほとんど無意識に片目のあるべき場所を覆う眼帯に指を沿わせて、剣と城を捨ててこの館で厭世的な日々をすごしてきた男は窓の外を眺めやる。
そう、この目を失ったあの日から、あまりに人との絆は脆くなったのではなかったか。
深く深く沈んだ沼の底から浮かび上がるような心地で、エディオは目を覚ました。
少し身動きすれば、肌に触れる寝具の滑らかさと相反するように、身体のあちらこちらがきしむような感覚がする。
小柄な少年には広すぎるような寝台は、多少手足を動かしたところでその縁に触れるものではなく、これまで寄宿舎の荷棚に似た寝台でしか眠ったことのない身にはむしろ落ち着かないものだった。
やがてうっすらと開けた目に豪奢な金赤の天蓋が映り、エディオやようやく自分がどこにいて、どういう状況にいるのかを思い出し始めた。
何気なく額に手の甲をあてようとすれば、手首を縛められた跡に否応なく気づかされる。
何でこんなことになってしまったのか。
まだ悪夢だと思いたい、けれども。
エディオが呪われた行為の痕跡をとどめた体をようやく起き上がらせると、窓の外から差し込む昼光がカーテン生地の織り柄を明るく輝かせていた。
部屋の隅のテーブルには、彼が眠っている間に用意されたらしい水差しと厚手のリネンが置かれてて、エディオはひどく緩慢にそれで身体と顔を洗った。
無造作に椅子にかけられた自分の服を着ると、身なりを整えた少年は他にすることも思いつかず領主の仮の書斎とでもいうべき部屋に通じる扉を開けた。
あの主人に一体どんな顔をして挨拶をすればいいのかと思いながら。
しかし、懸念の人物はそこにはおらず、エディオはさらに居間へと出て行った。
「お目覚めですか」
声をかけてきたのは、エディオがここに到着したときに給仕をしていた老婆であった。
「おはようございます……」
小さな声でやっとそう言葉を押し出したエディオに、淡々と老婆は言う。
「あたくし、マリアと申します。通いの賄いだけど、どうぞよろしく」
「エディオと言います。お世話に、なります」
そんな挨拶を交わしながら、エディオは自分自身に密やかに“意外としっかりしたものではないか”と苦笑する。
とりあえず、まだ。狂うほどのことではない、と。
「だいぶお疲れのようだね」
無愛想ながらも自分のことを気遣ってくれるマリアに、エディオは小さく笑みを返した。
「すみません、慣れない乗馬の旅だったせいでしょうか。身体がまだ少し重いです」
そう、これくらいの嘘をつく知恵も残っている。
老女といたって平穏に紡ぐやりとりに、少しずつエディオの思考は焦点を合わせだす。
「アルヴィーゼ様も心配していたよ。今日の昼食は軽いものにするようにって言われたから野菜のスープにしてみたけど、食べられそうかい?」
せかせかと昼食の件について尋ねながら、自分を先導するように食堂へと向う黒服のマリアの後を追いながらエディオは何気なく恐るべき主人のことを口にした。
「……アルヴィーゼ様はどちらに?」
「先に食べてどちらへやらでかけたさ。エディオさんには今日はのんびりするよう伝えてくれって言われているけど」
そう言われて、エディオはほっとすると同時に、彼が戻ってきたときにどのように振舞えばいいのかと思ってしまう。
そんな重苦しい心地の少年には、狭い食堂にすでに漂っている甘い野菜の香りもあまり慰めにはならなかった。
老マリアはまるで小さな子どもにするような調子でエディオを席につかせると、台所から湯気の立つ皿と黒パンを一塊、さらに固いチーズやら干しブドウやら松の実やらをいれた器を彼の前に並べた。
正直を言えば食欲などまるで失っていたエディオだったが、老婆の見守る前では料理に手をつけないわけにもいかず、オルヴィエート領主の紋章が刻印された重い銀の匙を取り上げて、味もよくわからないまま少しずつ皿の中身を口へと運んだ。
「食事が終わって、身体が動くようだったら居間に置きっぱなしになっているあんたの荷物を片付けておくれ」
「はい……?」
「アルヴィーゼ様の隣の客室を使うようにって聞いたよ。簡単に掃除はしておいたからあとは適当にやってちょうだい」
「は、はい……」
先にこの館に仕えている老女の一方的な指示が済むと、また食堂は静かになった。
「あの……」
ほとんどスープを飲み終わったところで、エディオが口を開いた。
「アルヴィーゼ様ってどんな方なんでしょうか」
ひどく漠然とした質問に、老マリアは小さく肩をすくめてつまらなそうに言った。
「まあ、ちょっと変わった方なのは確かだわね」
「マリアさんはどうして、こちらに通われているのですか?」
続けて投げかけられた問いかけに、すでに刻み込まれているマリアの顔の皺が一層深くなった。
「ふん……ま、あの方は言わばあたしの命の恩人ってやつでさ」
新入りの従者にそれとなく話しの続きを促されて、老婆はとつとつと話を始めた。
「あたしは、山二つほど向こうの村で産婆をやっていたんだけど……ある年に立て続けに赤ん坊が死んでね。その途端に魔女扱いだよ」
そう言いながら、エディオの目の前に突き出されたマリアの年老いた手は、よく見れば両手の小指と薬指が奇妙に短く、他の指の爪もいびつに小さくくっついているような具合だった。
「指を切られて、爪をはがされて。死んだほうがましだと思った。そんなときに村人にどう話をつけたのか、知らないけどね。アルヴィーゼ様が私をひきとってくれたのさ」
思いがけない話にエディオが返す言葉を失っているのを見て、マリアは手をひっこめてもう一度小さく肩をすくめた。
だからね。
あの人が悪魔だとしたら、私は喜んで魔女になるとも。
狂信的な光を落ち窪んだ目に覗かせてそう言い切った老婆は、空になった食器をまとめると台所へと去っていった。
その様子に、あらためてエディオは自分を助けてくれる手はこの館には届かないのだと思い知らされる心地だった。
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