蜜月夜 〜前編〜


        「身体はこのように熱くなるのに強情な人だ。」
        薄明かりの中、男の声が熱を帯びて零れた。
        蜜蝋がジジと音を立てながら弱まり始め、薄暗い部屋は一層闇に侵食され始める。
        「これ以上は…後生ですから…。」
        泣き声にも聞こえるもう1つの声は何度もそう繰り返す。
        「辛いのはあなただ……。ホウアンどの。」
        挑まれるように顔を覗き込まれて目元を熱く色づけさせたホウアンが顔を伏せた。
        「なにがそこまで頑なにさせるのか…。未通女でさえこれだけ慣らせば喜んで腰を差し出すだろうに。」
        乾いた笑いを伴った溜息はその男の表情を和らげない。
        ホウアンは淡い光の中、正軍師であるシュウを見た。
        「……後生です…。」
        そしてまた繰り返す。
        「それならばあなたのその口で…。」
        顎をとり、親指で漏れ出でる吐息と同じく熱を持ったホウアンの口唇にシュウは触れる。
        二人の視線がぶつかり合ったとき、諦めるかのようにホウアンが視線を外した。
        サラリと落ちる髪の毛を指で掬い、ホウアンは口唇をシュウの中心へと寄せる。

        大きく開いてもなお余りあるシュウ自身にホウアンの体がまた熱を帯びた。
        上手く含みきれず、必要以上に濡れた音が辺りに響く。
        くぐもるように小刻みにホウアンの鼻から漏れる息が、揺れる腰が、ホウアンも悦んでいるのだと伝えた。
        「あなたは本当に罪深い。受け入れてしまえば楽なものを…」
        小さく呟くとシュウはすらりと伸びる長い腕をホウアンの後ろの窄まりへと伸ばす。そして周りをなぞりながら徐々に指を埋めていった。
        一瞬の圧迫。ホウアンの口がシュウからはずれた。だが、シュウは目でホウアンを制すると叱られた子供のようにホウアンはまた顔を落した。
        上がる息が部屋の温度も上げる。蜜蝋が芯だけを残して透明な液体にかわった。
        内側に眠る核を突つかれるとホウアンの体が大きく跳ねた。知らずに圧迫する口唇がシュウにもその緊張を伝える。
        一瞬声には出さず片眉をしかめさせると、シュウはホウアンの髪を空いている方の手で掴み上向かせた。
        濡れた口唇がしびれたようになっているため閉じられず赤い舌を覗かせる。
        そのホウアンの顔へシュウは何度か己を駆り立て白濁を散らした。
        男の精を受けたため慣らされた身体が卑猥に男の前で花開いていく。
        恍惚となったまま、ホウアンも薄く閉じ合わせた瞼を震わせながら追いかけるように精を放った。
        男の飛沫で顔を汚されていても、指で犯され、濡れようともホウアンは美しく、上がった体温が甘い香りを乗せる。
        トロリと最後の残滓を零し、空気が抜けたように倒れこむホウアンをシュウは腕に抱く。
        寝台の脇に置いてある桜紙で半分意識の遠のいたホウアンの顔を拭うと、耳をなぞるように口唇を這わせた。
        「あなたは俺のものだ…。」
        熱い息とともに囁かれる言葉。まるでホウアンを眠りへと引きずりこむように暖かく繰り返す。
        重たくなっていく瞼を一度瞬かせたとき、ホウアンの目に蜜蝋が最後の光を放った。



        今宵は月が見えない。
        新月へと姿を変えたのか、それとも雲間に隠れているのか、ホウアンは空を見上げるがそれすらわからなかった。
        一人きりの夜はやけに長く感じられ、ホウアンは眠ることもできずぼんやりと寝台の上に座っていた。
        シュウとの爛れるような関係が始まってから少しばかり細くなった己の体を抱く。
        薄着の夜着のまま座っていたため思ったよりも体が冷えていた。
        手が暖かさを体に伝える。
        そして大きく息を吐き出してから、ホウアンは時計の針を見た。
        もうすでに日付が変わり、いつもなら一時ほど前にシュウがホウアンの元にきている時間だった。
        「来ないのか…?」
        ボツリと呟いたあとで、自分の言葉に驚く。
        「私は待っているのだろうか…。」
        誰をとも言わず今度は先ほどよりも小さな声でホウアンは呟く。
        考えれば考えるほど自己嫌悪に陥りそうになり、ホウアンは立ち上がると窓を閉め、床についた。
        あの行為はシュウに強要されるものとしてなんとか自身を保ってきたが、シュウの温もりがないこの身体の寒さを誤魔化せない。
        上掛けを掛け、暖めようと自分の両肩をなおも掻き抱くが、思い出されるのはシュウの暖かな腕の記憶。
        鼻先を敷布へと埋めるとまだ少しシーツにシュウの香りが残っていた。
        ジワリと身体の奥から熱が熾り、それを絶ち切るようにホウアンは寝返りを打つ。
        そして無理矢理目を閉じた。
        心まではシュウを受け入れたくない。
        だが、自分の心が見えない。
        そしてなによりもシュウの心が見えない……。
        言い知れぬ不安はもう一度ホウアンに寝返りを打たせた。
        湖を渡る夜風が戸を叩く。
        二人のときには聞こえなかった音。
        二人のときには感じられたなかった夜の長さ。
        永遠と続くような闇は、だが、一向にホウアンを眠りへと導かなかった。



        「先生用意はできたかい?」
        タイ・ホーが風に吹かれふくらむ帆を見ながらホウアンに聞いた。
        トゥリバーへ薬を届けるこの日、ホウアンとトウタは朝から忙しかった。
        だが、空が白むまで寝付けずにいたホウアンは思うように動くことができない。したたか出発の時間が遅れてしまった。
        「遅くなりました。申し訳ありません。」
        焦りを隠せず小走で駆けるホウアンの後ろから必死にトウタも追いかける。
        それを見て、安心させるようにタイ・ホーが笑った。
        「今日は風が強い。この分だと早めにレイクウエストに着けるだろう。」
        陰りから日が差すようにホウアンの表情が明るくなり、トウタと見合うと息を整え船へ乗りこんだ。
        「大切な我が軍の軍医どのだ。もしものことがないようにな。」
        いきなり後ろから掛けられた聞き覚えのある通る声にタイ・ホーが応えるように片手を挙げた。
        歩みを止め、ホウアンが振りかえる。そして、視線の先にシュウの姿を捉えた。
        いつもこの男は自分の気配を感じさせず気付けばそばにいる。また表情を曇らせてホウアンはシュウを見た。
        返す視線が痛いほどにホウアンの身体を刺す。その棘が内側から火を熾こす錯覚に囚われ、ホウアンは熱を吐き出すように喉をあえがせた。
        永遠とも一瞬とも感じられる時間。
        「どしたぃ、先生」
        それを破ったのはタイ・ホーだった。ホウアンの変化を感じ取り、心配そうに顔を覗き込む。
        『なにも…』といいかけ、シュウに背を向け歩き出した時に湖上を抜ける一陣の風にホウアンの纏っていた絹織のスカーフが飛ばされた。
        「あっ!」
        放った声も風に消された。
        ホウアンの長い髪がその風の通った跡を標す。
        裾をたなびかせて湖へと落ちていく刺繍の施されたそのスカーフを追い、ホウアンは船の縁へと身を乗り出した。
        「あぶねぇ!」
        飛びこまんばかりに湖を覗き込んだホウアンの両肩をタイ・ホーが掴む。
        グラリと揺れた船体がトウタのバランスを失わせ、何度か揺れてからトウタは尻餅をついた。
        「あれは師からいただいた大切な…」
        最後は言葉にならずまたも吹き上げる風に消された。
        漂う様がまるで木の葉を浮かべたように見える絹織のスカーフは次第に水に侵され沈み始める。
        口唇を噛み締めるが、この寒さゆえどうすることもできない。指を水の中に入れるだけでも痺れるほどに冷たいのだ。
        湖に入って取りに行くことはできない。
        「何とかしてやりてぇが…」
        タイ・ホーの声も沈む。
        と、そのとき、近くで水音が上がった。みなの息を飲む音が聞こえた。
        ホウアンも目の前の出来事に我が目を疑う。
        「シュウ軍師!」
        船着場を守る兵士が声を上げ次々と桟橋へと走る。辺りの者が一斉にざわめき始めた。
        水飛沫を上げシュウが湖を割くように泳ぐ。
        飛ばされたスカーフを追っていることは誰が見ても明白だった。
        「シュウどの!!!」
        ホウアンも慌てて船から下りると桟橋の端まで駆け寄る。だが思うように足が動かない。途中で何度か転びそうになった。
        もうすでにこの湖は朝夕には氷が張っているのだと散歩好きな老人から聞いていた。恐れるように足が震え、立っていられずその場にしゃがみこむ。
        「シュウどの…」
        2度目の叫びは音にならない。寒さを感じたように零れた消えて行っただけだった。
        ホウアンは同じように震える手で顔を覆う。
        水音が消え、辺りも静かになる。
        焦るように内側から冷たい汗が滲み出すと早鐘のように胸が痛みを打ちつづけた。
        と、ふと顔に冷たい空気を感じてホウアンが恐る恐る顔を上げると、目の前に飛ばされたスカーフが映った。
        慌てて上を見る。逆光の中、体全体を水で滴らせながらシュウが立っていた。
        「取り乱すなどあなたらしくもない。」
        変わらぬ声でホウアンに話しかけるシュウの手にはしっかりと先ほどのスカーフが握られていた。
        ホウアンは動けず泣き出しそうな顔でシュウを見つめたまま立ちあがる。そこに付きの者が駆けよりシュウの体にタオルを巻き、毛布をかけていった。
        ざわめきがまた繰り返される。
        「今度は落とさぬように。」
        シュウはそう言うとホウアンの手を取り、スカーフを渡した。
        青ざめる口唇が、冷たくなった手が、水の冷たさをホウアンへと知らせるがシュウは今も変わらぬ表情でホウアンを見る。
        ホウアンはジワリとくる目元を隠すため俯いた。
        「ありがとうございます。」
        握った手で、少しでも温められればと、ホウアンは強くシュウの手を握り返した。
        「先生、どうする?今日はやめるかい?」
        船の上からタイ・ホーが声をかける。
        「いや、熱い湯に入ればなんともない。ホウアンどの、私には構わずトゥリバーへ。」
        そう言うと踵を返しシュウは歩き始める。
        しばらくシュウの背中を見送っていたが、ホウアンは今だ微かに震える足を引きずりながら船に乗った。
        まだ心臓が早鐘のように鳴っている。

        ゆっくりと動き出す船が湖上に波を作る。
        風が時折強く吹き、それを嫌うように瞼を閉じるとシュウの微笑みがよみがえった。
        痛いほどに胸の奥が熱くなる。だが、先ほどの痛みとは違うものだと甘く広がる暖かさが告げた。
        そしてまだ水を滴らせるスカーフをぎゅっと握る。
        心配そうに覗き込むトウタにホウアンは笑って見せたが、それは泣き顔にしかならなかった。
        湖上はなおいっそう風が強い。
        ホウアンは複雑な思いで小さくなりゆく本拠地を見つめ続けた。

         

         

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