過恋
1.
蛍光灯の電源が落とされた部屋の中で唯一の光源はパソコンの画面だけだった。
惣菜屋のアルバイトを終え帰宅したのが十二時前、夕食を済ませ入浴して以来、律子はずっとパソコンにかじりついている。後悔が襲ってきて、苛々とキーボードカバーのずれを直した。
卒業論文が仕上がった反動で気が抜けてしまい、彼女は学年末試験の代わりに評価されるレポート課題の存在をすっかり忘れていたのだった。前もって片づけておけばいいのだ。期限間際になって慌てて着手するのは小学生の頃からの悪癖だという自覚があった。しかし、自覚しているからといって簡単に改められるのなら毎回苦しみはしないのだ。
後悔している暇はないのだが、余計なことばかり考えてしまう。自らの集中力のなさにうんざりして、律子は深々と溜息をついた。
突然、だれた意識を電子音が刺激した。
律子は半眼で携帯電話を拾いあげた。発信元を確かめると、非通知設定と或る。深夜に匿名でかかってくる電話の用件なんてろくなものではない。舌打ちして、クッションの上に携帯電話を放り投げる。着信メロディが途切れた。ぎりっと奥歯を噛み締め、彼女はパソコンの画面を睨みつけた。
再び着信メロディが流れた。おどろおどろしい音の羅列に律子は心底うんざりして手を伸ばした。このメロディでかかってくる相手はただ一人だけ。五ヶ月前に別れた元恋人、杉坂航太である。律子は相手が口を開く前にひとこと吐き捨てた。
「ウザイ。」
告げると同時に通話を切る。
レポートの提出期限まで十二時間をきったところだ。規定字数は二万時前後であるところを、現在三千六百字しか書きあがっていない。必修科目なので単位が出なければ卒業できない。卒論が上がっているのに卒業を逃すなんて馬鹿らしい事態は避けたいものだ。
単位を落としたらお前のせいだ、と航太を罵ってやればよかっただろうか。律子はぼんやりと考え、すぐに打ち消した。相手が悪い。もし律子が自分のせいで卒業できなければ責任を取って嫁にもらう。航太はそう真顔で言ってのけた男なのだった。しかも本人は、へらへらしているくせに、この発言に関してはいたって真剣ときている。
再び携帯電話が鳴った。律子は問答無用で電源を切り、ご丁寧に電池パックまで外してやった。これで平穏な時間が確保できた。さあ、あと一万七千字分がんばろう。
パソコンデスクに積み上げた資料の山を引っ掻き回していると電話が鳴った。自宅に設置された電話である。レポート提出後にはナンバーディスプレイの申し込みに行こうと固く決心し、律子は二コールで受話器を取った。
「もしもし?」
耳慣れた低声に律子は怒鳴り散らしたくなったが、理性が邪魔をした。
「ふざけるな。今、何時だと思ってんの。」
「じゃあ切らないでくれよ。」
「切りたくもなるわ、この犯罪者め。」
「犯罪者って誰が?」
「あんた以外に誰がいるよ。ストーカーは立派な犯罪だっつーの。通報するよ。」
「つまんねー冗談だなあ。」
「今のあんたの存在そのものが冗談。」
「ひっでー。つれねえこと言うなよ。」
電話の向こうで拗ねている様子が目に浮かぶようだ。律子の怒りのバロメーターが最高点を記録し、針が振り切れた。
「とにかく、こんな夜中に宅電にかけるな!」
律子は終話ボタンを押すと携帯電話の電源を入れた。着信音もバイブレーション機能もオフにするとクッションの下に潜り込ませる。あまり誉められたことではないが、着信拒否設定に比べれば可愛いものだろう。人生がかかっているのだ、せめて今夜だけでも放っておいてほしい。
これで今晩は航太の声を聞かずに済む。三杯目の珈琲を淹れるため、律子は台所へ向かった。
徹夜明けの今日はまっすぐ家に帰って寝る。アルバイトのシフトが入っておらず、講義もないのだからして、ゆっくりできるのだ。ああ、しかしその前にナンバーディスプレイの申し込みをしなくてはいけないか。いや、緊急というわけでもないのだから、今は睡眠を優先させよう。
大学への道すがら、つらつらと考えていた計画は実行されなかった。
何故、自分はこんなところにいるのだろう。
律子は箸を手にした。お通しのきんぴらごぼうが美味しい、それだけが慰めだった。居酒屋チェーン店の片隅でテーブルを挟み向かい合う航太から顔を背け、彼女は頬杖をついた。
「私、あんたとはとっくに別れた筈だけど。」
「でもさ、俺はまだ諦めてないんだよね。」
「その科白も聞き飽きた。」
「またまたー、照れるなよ。」
一気に心が冷えこんだ。体の中を吹雪が吹き荒れている錯覚に襲われつつ、律子は航太を一瞥した。
「だから、迷惑なんだって。早く彼女作れ。」
「何のために律子を誘ったんだと思ってる?」
「分かりません。あー本当ウザイ人だね。」
ぶつぶつ言う律子に航太は携帯電話を向けた。訝しく思った瞬間、ぴろりろりん、と耳慣れた電子音がした。しまった、油断も隙もあったものではない、と彼女は歯噛みした。
「待ち受けにしてもいい?」
「駄目。不可。肖像権の侵害。」
「固いこというなよ。ほら。」
くるりと反転したディスプレイの中には律子の険しい表情が覗いていた。
「やめろー! ちょっとそれ貸しなさい!」
「やだねー。」
律子の手をかわし、航太はメタリックブルーの電話をポケットにしまった。律子は彼の首を絞めようと身を乗り出したものの、店員が料理を運んできたため、渋々ひきさがった。テーブルの上に石焼ビビンバとえびせん、豚の角煮が並べられる。
ごゆっくりどうぞ、と店員が下がると、律子はまずビビンバを皿に取った。
「浩美はどうしたのよ。」
「別れた。」
「はあ!?」
「いや、やっぱ律子の方がいいなーと思って。」
「巴との復活愛は?」
「幻だった。」
「あとは……優花と雅子と晴江と寛子とこのみは?」
「やっぱ律子じゃないとダメっぽい。」
「『ぽい』ってなに、『ぽい』って。あんたいっぺん性格改造セミナーとか参加してきたら?」
「ひっでー。」
「酷いのはあんたの女癖だっつーの。」
律子はウーロンハイ中ジョッキを呷った。唇を湿らせて尋ねる。
「で。今、コナかけてんのは誰かな?」
「美園。」
どの面下げてぬかすのか、この男は。律子は心の中で五台ほどちゃぶ台を返した。豚の角煮を勢いよく口に放り込み、ジョッキの残りの酒を飲み干して立ち上がる。
「トイレ?」
「帰る。」
「何でだよ!」
「つきあってられません。」
財布から千円札を取り出してテーブルに叩きつける。
航太が目を伏せた。
「……足りないんだけど。」
「それくらい出せ! 本来ならあんたが全額出すとこでしょうが。それとも何、私に奢る金はないっての!?」
一息でまくしたてると律子は店を飛び出した。商店街を抜けて駅のホームへ辿りつく頃には、頭はともかく体が少々冷えていた。
携帯電話を取り出す。メールが一通、届いていた。添付ファイルを開いてみると、航太の写真が現れた。切れ長の目にすっと通った鼻筋、優しげな口元と品のよい顔立ちなのに、口を開けば最低男。その印象は五ヶ月前と変わらない。むしろ、ことあるごとに律子の中で彼の評価は下降しつづけている。
メールの本文を読む気が失せた。律子は電話帳を呼び出した。
「もしもし、晴江?」
「どうしたの? 鼻息荒いね。」
平然とした晴江の語調に律子はつい八つ当たりしたくなった。
「あのバカを放し飼いにするのはどうよ。」
「……杉坂に会った?」
「会いたかなかったよ。」
晴江は愉快そうに笑い声をあげた。
「うっわ、人の気も知らないで。笑いごとじゃないよ。」
「だって他人事だし。杉坂はよっぽど尾崎が好きなんだわ。」
「嬉しくない。……なんか達観してない?」
「うーん、杉坂ってダメ男じゃん。」
「まったく否定のしようがない事実だね。」
「でも母性本能をくすぐるタイプじゃない?」
「遠まわしに、私には母性本能がないと仰ってませんか。」
「それは被害妄想。拗ねるな。」
拗ねてない、と律子が呟くと、晴江はまたもや笑い声をあげた。
「なんか、弟を見守る姉の気持ちになってきちゃってさ。ああいう弟はいらないけど。」
「なんて危険な感情なんだ、母性本能って。」
「前々から思ってたんだけど、杉坂が厭だったら早く男を作ればいいじゃん。」
律子は激昂した。
「できたら苦労はしない! あいつがうろうろするから、みんな勘違いしてんの。」
「あー、そうかもね。美園も『厭よ厭よも好きのうち』とかいってたしなあ。」
「他人の恋愛に淡白な、あの美園が!」
カップル成立の危機ではないか。とりあえず航太と美園のカップルが成立してしまえば、当面は航太の求愛から解放される。そう踏んでいた律子は青ざめた。
「まずいじゃんかー。」
「ひょっとしたら杉坂はさ」
プァン――
急行電車が通過し、巻き起こった突風が律子の前髪を乱した。空いた手で髪を直す。晴江の声が聞こえてこないのに気づいた。
「もしもし? もしもーし、おーい、晴江さーん。」
数秒待っても返事がない。ディスプレイを覗き込むと、表示が消えていた。バッテリー切れのようだ。律子はふてくされてベンチに座り込んだ。
時刻を確かめようと手首を返した。だが、そこにある筈のものがなかった。腕時計がない。
しばし記憶を手繰ってみる。学校を出て、電車の時刻を確認したときには間違いなくあった。その後、航太に出くわして、売り言葉に買い言葉でまんまと乗せられて居酒屋に赴いた。注文をし、トイレに行き、戻ってきておしぼりで手を拭いていたら、航太がたわ言を口にした。つきあいきれずに店を出て、今、駅にいる。
そうだ、手を拭いたときに外したのだった。つまり、運がよければ店に保管されていて、運が悪ければ航太の手の中にある。
取りに戻ろうか。いや、航太が未練がましく店に残っていたら、鉢合わせてしまう。後日、出直そう。
上り方面の快速電車がやって来た。律子はよろよろと乗り込み、座席に落ち着いた。そして、家に着いたらどうやって晴江の誤解を解こうかと思索に耽った。
>>release April 23, 2003